二十六、「愛」に勝るもの
著者: 南直哉
なぜこの世に生まれてきたのか? 死んだらどうなるのか?――その「答え」を知っているものなどいない。だから苦しい。だから切ない。けれど、問い続けることはできる。考え続けることはできる。
出家から40年。前著『苦しくて切ないすべての人たちへ』につづいて、「恐山の禅僧」が“生老病死”に本音で寄り添う、心の重荷を軽くする後ろ向き人生訓。
私のところに面談に来る人の中で、内心に屈託を抱えている、あるいはすでに心身に不調が出ているような方の場合、老若男女を問わず、よく話を聞いていくと、十中八九、思春期までの親子関係に歪みがある。
ある老僧に、お前はそこに話を持ち込みすぎると叱られたことがあるが、私の経験に限れば、そう思わざるを得ない(ちなみに、あとの2、3割は、ほぼ小・中学校時代に受けた、激しいイジメのトラウマである)。
その親子関係にも、あるパターンがあって、関係の基本が「取引」になっているケースが非常に多い。つまり、親の言うことを子が聞くなら、子を愛してあげましょう、子は愛してもらうために、親の言うことを聞きましょう、みたいな関係なのだ。
人は、生まれてくれば取引することもある、というのが本来で、取引するために生まれてくるわけではない。それを、最初から取引の関係に埋め込まれれば、子は思春期あたりで、ほとほと疲れてしまうだろう。
気の毒なのは、親子ともども自分たちの関係が取引になっていることに気づかないことである。親は、子を愛しているつもりだし、子に良かれと思って色々なことをする。子も愛されていると感じているし、その愛に報いようとする。にもかかわらず、このような場合、子にダメージが残るのだ。問題なのは、実にこの「愛する」という行為そのものである。
取引的親子関係の場合、親がよく言うセリフがある。
「君たちのことは、私たちが一番よくわかっているんだ」
自分のこともよくわからない人間に、他人のことが、どうしてそれほどわかるのか?
「私たちは、あなたのためにしているのよ」
その「ため」の正体は、親の欲にすぎないのではないか。
つまり、これが親の「愛」なら、「愛」の根底には支配がある。相手を思い通りにしたいという欲望があるのだ。
だとすれば、「愛」は「他者が他者であること」を許さない。それは他者にとって、「自己が自己であること」を消されるに等しい。
大切なのは、子は他人なのだと、はっきり自覚することである。それは、親の思いは子に届かないことがあるという「諦め(明らかな認識)」であり、他者の根本には「わからなさ」があるという「覚悟(自制)」なのだ。
大本山永平寺78世貫首、宮崎奕保禅師は、ある時言われた。
「仏教は、『愛』だけではダメだ。その上に『敬』が要る。『敬愛』なら、わかる」
人を「敬う」時に、相手を支配したいと思う人間はいない。「敬う」とは、相手の存在そのものを喜び、大切に思うことだからだ。それは、相手の「わからなさ」をそのまま受容する行為である。おそらく、仏教で言う「慈悲」の根源には、この他者への「敬意」があり、「わからなさ」を受容した上で、それでも相手の苦しさを少しでも理解しようとする想像力がある。
昔、中国の禅道場に、同じ師匠の下で学ぶ兄弟弟子がいた。
弟弟子が兄弟子に訊いた、
「千手千眼観世音菩薩(いわゆる千手観音、千の掌のそれぞれに、一つ眼がある)には、どうしてあんなに沢山手や眼があるんですか?」
兄弟子が答える、
「夜中に寝ていて、枕が頭から外れた時、後ろ手でどこに枕があるか、パタパタ探すようなものだ」
「あ、わかりました!」
「どうわかったのだ?」
「観音様は体中に手や眼があるということです(遍身是手眼)」
「うん。悪くない答えだ。でも、いまひとつだな」
「では、あなたなら、どう答えるんですか?」
「体がそのまま手と眼なのだ(通身是手眼)」
普通「千手観音」と聞けば、菩薩の体に千の手と眼が具わっていて、それぞれが神通力のように働いて、衆生のあらゆる苦しみをたちどころに見抜き、そのすべてを救済するのだ、と考える。つまり、千の手と眼は、菩薩の「超能力」を象徴するわけだ。
しかし、兄弟子の「夜中に後ろ手で頭から外れた枕を探すようなものだ」、という表現は、そのような「超能力」の話ではない。
暗闇で外れた枕を後ろ手に探るとなれば、見えないながらも眼を覚まして、手当たり次第に枕の在り処を求めるだろう。この行為こそが、観音菩薩の菩薩たる所以だと、兄弟子は言うのだ。
つまり、持ち前の神通力で衆生を救済することで、菩薩として超越的に存在するのではない。そうではなくて、見えないながら眼を見開き、衆生の苦悩を察しようと想像力をはたらかせ、たとえ何度となく失敗しても、そのたびに気持ちを奮い立たせて、なんとか人々を苦しみから救済しようと実践する。この想像力と実践こそが、観音菩薩の在り方を実際に決めるのであり、その行為を「慈悲」と呼ぶのだ。
この時、弟弟子の「体中が手と眼だ」という語も、兄弟子の「体がそのまま手と眼だ」という語も、行為(手眼)が存在(身)を生成する、という意味では、同じである。
ただ表現として、「体中に(遍身)」と弟弟子が言う場合、まず菩薩の「体」があって、その全体に手と眼がある、というニュアンスになり、「体」が「手」や「眼」と別に存在するかのごとき印象が、微かに残る。
これに対して、兄弟子の言う「体がそのまま(通身)」の語は、「体」とは、実際に手と眼が働いている状態の名称だと、主張しているのである。この具体的な行為こそが、正に観音菩薩の慈悲であり、観音菩薩が存在する意味なのだ。
兄弟子が弟弟子の語を、「いまひとつ」と評するのは、自らの語に比して、弟弟子の表現が、慈悲の行為に対する見識としては未熟さを感じたからである。
他人のことは決してわからない。それでも、わからなくても、わかろうとし続けること、何度失敗しても、その営みを捨てないこと。この敬意と慈悲の行為こそ、私は愛に勝ると思う。
*次回は、12月7日月曜日更新の予定です。
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南直哉
禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)などがある。
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とは
はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。
目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。
当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。
まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。
あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。
創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。
読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。
「考える人」編集長
松本太郎
著者プロフィール
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- 南直哉
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禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)などがある。
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