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千葉雅也×保坂和志「響きあう小説」 『デッドライン』刊行記念トークイベント

2020年3月11日

千葉雅也×保坂和志「響きあう小説」 『デッドライン』刊行記念トークイベント

第2回 言葉をまともに使う危うさに気づいているか

著者: 千葉雅也 , 保坂和志

第41回野間文芸新人賞を受賞した、哲学者・千葉雅也さんの初めての小説『デッドライン』。この小説への授賞を強く推薦した選考委員が小説家・保坂和志さんでした。保坂さんの『書きあぐねている人のための小説入門』を『デッドライン』の執筆の参考にしたという千葉さん。書き手の計算を超えて細部が有機的に響きあう小説とはどんなものなのか、語り合いました(2019年12月16日、「文喫六本木」にて)。

前回はこちら)

保坂和志さん
千葉雅也さん

保坂 それにしても、ゲイの世界を描くことも含めて、とても勇気に溢れた小説だと感じます。物を書くということは、実際にひとりひとりが何か自分の立場や存立を危うくするようなことを書くことによってしか書く中身を拡げていけないし、書くという行為が強くなっていかないと思うんですよね。

千葉 僕もそう思います。自分というものがガッチリとあって、その上で何か社会的表現をする、ということに、基本的にあまり興味がないんです。
 そもそも社会の状況というものが複数の「私たち」によってつくられているわけですが、その「私」の成り立ち自体を揺さぶるようなことを自分自身を使ってやらないと、意味がないと感じます。

保坂 そこで僕が何をしているかというと、書き方をどんどん崩しているわけなんだよね。こんなふうにも書ける―書くということはあなたたちが考えているようなカチッとしたものではなくて、もっとズルズルになっても書けるんだということを、実際に書いていく。

千葉 保坂さんがこれまで書かれてきたものを読むと、「ああ、こういうふうに書いていいんだ」という励ましがすごく得られるんです。先ほどデッドライン』が『アメリカ紀行』の延長線上にあるものだという話をしましたが、それに関連して、実は僕は一時期、カッチリしたものを書こうとし過ぎて、スランプになってしまっていたんです。
 『動きすぎてはいけない』などはまさに神経症の産物というか、推敲に推敲を重ねたようなものですし、『勉強の哲学』もそうしたところがある。アメリカに行った頃は、依頼原稿を受けるのも苦しくなってきていて、断ることも増えていました。「このままでは仕事を続けられないな」と思うぐらいだったんです。
 それで冬のボストン、12月の頭に3日くらいカフェにこもって、「書き方を変える」ということだけを考え続けました。そのときに浮かんだのが、「書かないで書く」というフレーズです。今までのクオリティの基準でいったら、こんなものは書いているうちに入らない、というようなものを書くしかない。逆説的なんですけれども、書かないで書くような気持ちで書かないと書けないんだ、と思い、書き方を崩そうとしました。
 やり方としてはまず一気にバーッと書いて、つまりは自分で語りおろしをする。その後に編集すればいいんだから、というふうに、書き方を変えていきました。思考がどんどん展開し、横滑りしていくのに任せてどんどん書いてしまう。その方向性で流れついた先が『デッドライン』なんですよね。

保坂 書くということは本来的に、「抑圧」なんだよね。哲学者の前で哲学的なことをいうようだけど、書くということは「権威」的。

千葉 そうですよね。いわば「規範」を導入することですから。

保坂 その「規範」はみんな、ほぼ全員の中にあるんです。一生メールぐらいしか書かないという人でも、何か書こうとするとき、必ず「規範」を念頭に置いて書いてしまうものなんですよ。ブログなどを見ていても、どこかで見たような文章でしか書かれていないですから。

千葉 何かしらのテンプレやフォーマットがちらつくんですよね。

保坂 その人が文章を書くことによってまた、規範や権威が強くなってしまうわけじゃないですか。それを批判していくためには、権威的ではないような書き方をしていくしかない。

千葉 言語というものはそもそも、自分発で使えるようになるのではなくて、他人がどういうふうに言語を使っているのかという規範をインストールするわけですよね。
 これは精神分析においても基本的な前提だし、ウィトゲンシュタイン的にいってもそうです。言葉の意味は辞書に書かれていることではなく、他人の使い方に存在する。ある規範やルール、常識的な言葉遣いや言葉の並べ方のスタイルに合わせるということ。
 完全に合わせてしまうとまったくの無個性になってしまうわけですが、何か自分なりのものを書こうとするときには、規範との拮抗、微妙な駆け引きをどうするか、ということが問題になるわけですよね。

保坂 規範や権威が強すぎると、その規範や権威になじむ文章しか出てこなくなっちゃう。だからこそ僕は、規範は要らないんだ、そんなものはないんだといい続けるわけです。規範の外に出るんだ、外でいいんだ、ということによって、規範になじまない人の文章が世に出てくる可能性があるんです。
 山下澄人は、そのひとりだと思うんだよね。彼の『壁抜けの谷』という小説はすごいですよ。先に書いている部分、前のページに書いたことに対する責任が何もない(笑)。

千葉 山下さんの文章は、スマートフォンの小さな画面で書いているゆえだ、という話は聞いたことがありますが。

保坂 それにしたって、普通はみんな、規範に立ち戻るわけですよ。

千葉 戻らないんですね(笑)。

保坂 あの責任のなさはすごい! なかなか書けるものじゃないですよ。僕も「接続詞を一個も使わない文章」というものを自分で試しているんだけど、なかなかうまくいかない。前提として接続詞というものは、読む人に向かって「しかし」とか「だから」といっているわけじゃないんですよ。あれは、自分に向かっていっているんだよね。

千葉 そうですね。接続詞がなくたって、読者はつながりを読み取りますからね。

保坂 書き手自身が次に何を書くかということを、自分の心の中で調整するために接続詞を使っているんですよ。他にも最近は面倒くさいから、「。」を使わずに「、」だけで書くようにもしています。「。」を使うことの負担、というものがあるんですよ。そうやって試していても、そこまでしていいのか恐れる自分もいます。

千葉 句点をどこで打つかというのも、かなり恣意的な判断ですもんね。切り取り方によって、微妙な間が生まれる。法律の文章ではそうして接続関係や解釈の余地が広がらないように、読点や句点をコントロールしているぐらいですから。
 接続詞にかんしては僕も減らす方向ですね。大学院の授業でも学生に、あまり接続詞を入れなくても平気で読めちゃうよ、といっています。
 僕の身近なところでは、ドゥルーズやベルクソンを研究している檜垣立哉さんという大阪大学の先生がいます。その檜垣さんのツイートが、本当に奔放で(笑)。ミスタイプも気にしないし、僕の感覚からするとあまりにも「そのまんま」ツイートしている。最初は驚いたんですが、でも読み慣れてきて、むしろその勢いにすごく助けられたところがあるんです。
 僕はツイートですらちゃんとしなくちゃと思っていたので、ああ、これでいいんだ、と。
 …なんだか今日は保坂さんとふたりして、みんなに「それでいいんだ」とけしかけている感じですね。

保坂 問題なのは、みんなが「正しい日本語」を書いている間、つまりそちらが主流である間は、すべてを書きっぱなしのようにしていると、よほど鋭いことであるとか、狂気的なものが書かれてない限り、単にただのバカだとしか思われないことなんだよね(笑)。
 あとは文章を崩すといっても、何かの枠組み―たとえば子どもの視点で書く、というような枠を使えば、みんな安心する。でもそういう枠の中でやったら、それは冒険でも何でもない。かといって単なる実験になっても仕方がない。

千葉 そうですね、そのこと自体を目的にしちゃうと、実験になっちゃうんですよね。

保坂 言葉をちゃんと使うことによって自分の精神の枠が保たれているところもあるんだよね。それをあまりにもきちんと使わなくなると…。

千葉 かなり危ない事態にはなりますよね。精神分析家も、シュルレアリスムの自動筆記のようなことをあまりやりすぎるとヤバいといっていました(笑)。言葉の可能性を拓くようなことをやるにしても、どこまでいっても、やはり何らかの規範と付き合い続けることになる。

保坂 その規範が、自分の輪郭や立ち位置、地面に足がついている状態を守るためなのかどうか、が問題だと感じるんだよね。いや、壊そうとしてもなかなか壊せるものではないんですよ。言葉を変に使うということは本当に、自分の体を傷つけることと同じくらいの、いやな感じがすることもありますから。

千葉 人間は言葉でつくられている―主体は言葉の織物であるわけですから、そこをいじるということは自分をいじるということであって、危ないことではあるわけですよね。

保坂 ですから、今から小説を書きたいと思っている人たちに、こんなふうにけしかけていいんだろうかというのは、悩むところではあるんですよ(笑)。

千葉 でもまずは、もっとこんなふうにも書いていいんだよ、どんどん出るがままに出してしまえ、と伝えるところから始まるとは思います。
 そして、言語をまともに使うということの基盤の危うさに、どう気づかせるか、ということなんですかね。普通に言葉を使えちゃっているということがどれだけ危うくて、不確かなことなのか、と。

デッドライン

千葉 雅也/著
2019/11/27

第3回につづく

(対談構成・宮田文久)

千葉雅也

ちば・まさや 1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。著書に『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』『勉強の哲学―来たるべきバカのために』『意味がない無意味』『アメリカ紀行』など。『デッドライン』が初の小説作品となる。

保坂和志

保坂和志

ほさか・かずし 1956年、山梨県生まれ。鎌倉で育つ。早稲田大学政経学部卒業。1990年『プレーンソング』でデビュー。1993年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、1995年『この人の(いき)』で芥川賞、1997年『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞、2013年『未明の闘争』で野間文芸賞、2018年、『ハレルヤ』所収の「こことよそ」で川端康成文学賞を受賞。その他の著作に『カンバセイション・ピース』『小説の自由』『あさつゆ通信』『猫の散歩道』ほか。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

千葉雅也

ちば・まさや 1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。著書に『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』『勉強の哲学―来たるべきバカのために』『意味がない無意味』『アメリカ紀行』など。『デッドライン』が初の小説作品となる。

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保坂和志
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ほさか・かずし 1956年、山梨県生まれ。鎌倉で育つ。早稲田大学政経学部卒業。1990年『プレーンソング』でデビュー。1993年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、1995年『この人の(いき)』で芥川賞、1997年『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞、2013年『未明の闘争』で野間文芸賞、2018年、『ハレルヤ』所収の「こことよそ」で川端康成文学賞を受賞。その他の著作に『カンバセイション・ピース』『小説の自由』『あさつゆ通信』『猫の散歩道』ほか。


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