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古井由吉×蓮實重彦「終わらない世界へ」

2020年4月8日

古井由吉×蓮實重彦「終わらない世界へ」

第2回 驚くべき方法的な賭け

著者: 古井由吉 蓮實重彦

先日亡くなった古井由吉さんは、『辻』単行本刊行時に、蓮實重彦さんと「新潮」2006年3月号にて対談をしました。時代をリードしてきた同い年の小説家と批評家でありながら、お二人の対談はこの一度きりです。古井さんの追悼特集を組んだ「新潮」2020年5月号の蓮實重彦さんの追悼文にも、この対談の話が出てきます。対談を構成したのは私なのですが、緊張感と文学的高揚感のあふれるお二人の対話の場に立ち会えた記憶は、一生消えそうにありません。今回、古井さんご遺族と蓮實重彦さんのご厚意により、「新潮」掲載版の対談を復刻掲載いたします。(編集長 松村正樹)

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古井 僕はドイツ文学の翻訳をやっていて、いつのまにか作家になった人間なんですが、ドイツ文学を訳している時に感じたのは、ヨーロッパの近代の散文っていうのは、告発と弁明の文章じゃないかということです。告発と弁明だから、関係を明瞭に出さなければいけない。その構造にのっとったものを日本語に訳すとき、日本語で告発と弁明の文章を書くと、ちょっと文学にならないところがあるんです。で、一時はそそっかしくも、言ってみれば日本の文学は、呪術、呼び出しの文学だなんて思ったことがあるんですけど、やはり僕には、巫女みたいにしてものを書くことはできない。物語っていうのは本来、書き手が失われることだろうと思う。

蓮實 過去30年くらい、欧米の文学理論を席巻したナラトロジーというのは、結局小説を物語として捉えてその構造を分析するわけですが、語り手、ナレーターという言葉がかなり重要な意味を持ってきてしまう。だれが語っているか。その言表の主体を客観化せよと。ところが日本の小説、これはほとんど樋口一葉からそうなんだけれども、言表の主体を客観化できないところから語っているわけです。

古井 はい、客観化できませんね。

蓮實 ひょっとしたら、ヨーロッパの小説も実はそうなのかもしれないというふうに、最近では思っているのです。ナレーターの問題を突き詰めると、ヨーロッパの文学においてすら、解決できない問題が出てくるんじゃないか。どこかで無人称の主体のようなものを想像しないと、実はヨーロッパの近代小説も語れないのに、ヨーロッパの文学理論家たちはきわどくそこのところを避けている。

古井 なるほど。

蓮實 その問題と古井さんのこの小説がどの程度重なっているかはわからないけれども、『辻』のなかの最初の一篇「辻」の冒頭部分、「何処に住んでいるのか。誰と暮らしているのか。そして生まれ育ちは――。/構えて尋ねられたくはないことだ。答え甲斐がないようにも思われる。/現住所は尋ねられれば差障りのないかぎり教える。手紙や書類にも欠かすわけにいかない。あちこちに登録されている。一切届け出ることのできぬ境遇に追いこまれれば、人の生き心地は一変する。しかし住所を書きこむ馴れた手が途中で停まりかける。にわかに、知らぬ所番地に見えてくる。ほんのわずかな間のことだ。既知が昂じると、未知に映ることはあるものらしい。」とあって、これは、言表行為の主体が確定できない。「誰が」と問うてはいけない、と古井さんが言っているように思うのです。
 また、最後十二篇目の「始まり」という作品はついに固有名詞を失った話になるわけですね。「葉ばかりになった桜並木から傘に硬い滴の落ちる雨の日曜の午さがりに、共同墓地のある丘陵へ続く長い坂の途中の、山門らしい構えもない寺に男が母親の遺骨を風呂敷に包んで提げて早目に着くと、先客がまだ済んでいないようで本堂のほうから読経の声が流れて、玄関に出迎えた高年の女性が男の手渡した故人についての短い書付けに目を通し、六十二でしたか、まだお若いのに、と華やいだような声で惜んで控室へ案内した。納骨の前に宗派を問わずに経をあげてくれる寺だった。外見も寺らしくなくて控室も人の家の応接間に変わらず、男はかえって居心地が苦しく、遺骨を膝に抱えて椅子に浅く腰を掛け、しかし年末に母親に入院されてからはのべつこうして控えて、呼ばれるのを待っていたような気がする、と母親を亡くして初めて感慨らしきものに耽るうちに、本堂の読経の声が止んで、やがて廊下から女が現われ、黒いセーターに長目の茶のスカートをはいたその姿に、その細い腰つきに男は見覚えのある気がして思わず頭をさげると、女はうつむいた顔をあげずに髪の下からかすかに礼を返し、遺骨を抱え直して玄関から外へ出て行った。」『辻』全体の中で一番長い作品なのに、この冒頭部分以降、固有名詞を奪われた非人称的な男と女しか出てこない。
 他の作品でも、たまたま固有名詞が出てくると、ああそうだったのかと思う程度で、固有名詞なしで、我々は快くというか、あるいはことによると自分自身の意思を失って、古井的なエクリチュールに身を任せているわけです。固有名詞はたまたまの仮のものだぞ、という雰囲気が、『辻』では強い。

古井 そうですね、その気はいつもあるんですけれど、『辻』では、なまじ第三者的な人物を表そうとしただけに、余計に登場人物がインディビジュアルでは必ずしもない、そういう僕の傾きが強く出た、とは思ってます。

蓮實 すると、その古井さんの傾きについて二つの見方が出来るような気がする。一つは、そのような主体の曖昧さに拘泥しているのは、ある種の日本文学の文脈にずるずるべったり居直っているんじゃないか、という考え方。もう一つは、先ほどちょっと申し上げた、ヨーロッパ近代小説も実は持っていたかもしれない無人称を小説に取り戻すための、いわば犠牲者として演じている演技なんだぞ、という考え方。僕はそうは思わないけども、最初の見方をとれば、日本語には主語はない、だから自と他の識別がし難く、古井はそこに逃げたな、と捉えられても仕方がないとも思うのです。

古井 そう捉える人はいるでしょう。

蓮實 そこは、古井さんのご自身の気持ちとして、そうじゃないんだぞと言えるのかどうか。これは作品が答えているといえばいいのかもしれないけど、ちょっとそこを伺えますか。

古井 僕は50歳を過ぎてから、日本の古典文学をあえて読まず、あらかた横文字を読むようにしてきました。それで、いろいろ考えたんですが、言表主体というのは、これは近世ヨーロッパに近代語が定まっていく過程で、おそらく法律関係、裁判というものを通して出てきた考え方じゃないかなと思うのです。告発側と弁護側に、両方とも言表主体がはっきりしなくてはならない。だから、ヨーロッパの近代語は、言表主体っていうものにこだわらざるを得ない。そしてまた、その話し手と書き手の関係が、非常に安定していた時代と、安定がはずされた時代があるということが見えてくる。安定がはずされると余計に言表主体と、現象学にこだわるようになる。それで、だんだんにものが表現しがたくなっていくんじゃないか。

蓮實 ええ。

古井 それから、古代ギリシア語のほうに深入りした。ギリシア語は、言表主体が曖昧とは言えないんだけど、不定詞や分詞を多用するでしょう。なんでここで不定詞や分詞の構文を使うのか、というところで使われる。つまり文章全体を見れば主語が何かははっきり定まってるけれども、どうも文章の過程で、主語が拡散していることがある。当時の人々はこんな文章を読んで、論理的に把握できたのか、と思ったときに、ああ、おそらく読んではいなかった、聞いていたのだろう、と気付いたんです。

蓮實 うん、そうだと思う。

古井 僕が、ギリシア語をいくらやっても、なかなかすんなりと理解できないのは、あの長短、高低のアクセントの、リズムに全然のってない。はっきり言って、近代ヨーロッパ語に翻訳しながら読んでるようなもんです。読書でも、行き詰まりっていうものがありましてね。そのギリシア語の行き詰まりの最中に、『辻』を始めたんです。あの不定詞的な用語をもっと膨らませたら、語り手と書き手との間の関係が、もう少し楽になるんではないか、とそんなことを思いながら書きました。

蓮實 楽になるというのは、どういうことなんでしょう。

古井 闊達になるといったほうがいいのかな。

蓮實 小説というものは、そこにしか生まれ得ないという感じでしょ。それは古井さんが書いておられるものに限って、ということなのか、それとも小説全体についての話なのか。

古井 ここはもう、言表主体ってことにこだわればこだわるほど、文章にこわばりが出てくる。

蓮實 なるほど。

古井 ちょっとしたものを、書けなくなってしまうわけです。つまり、客観的なことを語っているような文章でも、実は、「I say」とか「He says」とかが省略されてるんだと、そこまで考えてしまうんですよ。それに比べると古代ギリシア語の「エゴ」はとっても強くて、「I say」だから、言表主体をきちっと強く主張してるように見えるんだけど、読んでいるとどうもそうじゃないみたいなんです。つまり、神々がそう言っているとか、習俗がそう言っているとか、そういう感じがするんですよ。

蓮實 非人称的な集合性、みたいなものがありますよね。

古井 そうなんです。

蓮實 でも、古井さんのものには、そのような非人称的な集合性を、民俗学的に適用したものではないぞ、という強みがあるわけでしょ。

古井 それは違います。

蓮實 一時、そういう集合的な非人称性がはやったんだけれども、「俺が書くときにその問題を超えるぞ」ということで、民俗学的な方法をとっているわけではない。表面上は『辻』にも、「おこもり」であるとか、「役」の祖母が口にする「トキノケ」とか、我々が無意識に持っている、民俗学的な儀式というものを取り上げておられる。ただしそれは、人称性を低めるためのものではない。単に集合的ななにかではなくて、それは最終的には「始まり」のように、男と女に行き着く。しかも、それは精神分析的な男と女の関係とは違うところに、男と女を立てたいという強い意志を感じて、誰も理論化していないことを書いているように思える。

古井 そうですね。

蓮實 確かに『辻』において、固有名詞による人称性は他とは識別し難いけれども、それでも男がいて女がいるというのはわかる。『辻』という連作短篇全体を、仮に名づけておいたいくつかの人称代名詞を持っているものたちが成り立たせる世界だとすると、最後に、「始まり」に至って、その仮につけていた姓なり名なりを放棄しても、自分は立つ、というそのような強さを感じたわけなんです。これはだから、いわゆる日本的な曖昧さというものでは全然ない。そこを勘違いされると困ると思うんですけれども、ある作中人物を「男」と呼んでしまうというのは、作家としての賭けみたいなものでしょ。

古井 ええ。

蓮實 ただその賭けを、人はそのとおりに理解するとは限らないという問題があって、世間の中にいて、古井さんは居直っておられるのか、どこかで世間に対して手を差し伸べようとしておられるのかっていうのは、ちょっとわからない。僕にはもう、作家としての感動的な居直りとしか見えないんですけれども。世間ではやれ「古井文学は衰退を描いている」とか、「死に近づけば主体と客体は消えるだろう」とか、そんなふうに簡単に考えているんだけれども、これはもっともっと考え抜いた末の、驚くべき方法的な賭けであって、読んだばかりだからかもしれないけども、今度の『辻』はおそらくいままでの最高傑作じゃないかと思った。なぜ最高傑作かというと、徹底して方法的なんですよね。恐ろしいほど方法的なのに、その方法がなんであるかを我々がすぐには読めない。これは読者として、斎戒沐浴してからでないと読んではいけないぞ、という感じがするわけです。

古井 話として立つか、小説として立つかではなくて、書くということが成り立つかどうかっていう地点に来ているんでしょうね。まあ、異様に不安定なとこで居直っているわけです。書くことが成り立ったと言っても、刻々ですから。部分部分で、刻々書くことが成り立っている、ということを理解してもらえればいい。そうすると、もう一つ問題が出てくるんですよ。僕のほうは「書く」でしょう、読者は「読む」でしょう。この「書く」と「読む」が対応してくれるかどうか。これが実は苦しいところで。だから、『辻』の成果は自分でまだわからない。

第3回へつづく

古井由吉

古井由吉

ふるい・よしきち (1937-2020)1937(昭和12)年、東京生れ。東京大学文学部独文科修士課程修了。1971年「杳子」で芥川賞受賞。その後、1980年『』で日本文学大賞、1983年『槿』で谷崎潤一郎賞、1987年「中山坂」で川端康成文学賞、1990(平成 2 )年『仮往生伝試文』で読売文学賞、1997年『白髪の唄』で毎日芸術賞を受賞。その他の著書に『楽天記』『白暗淵』『鐘の渡り』『ゆらぐ玉の緒』など。2012年『古井由吉自撰作品』(全八巻)を刊行。

蓮實重彦

はすみ・しげひこ 1936(昭和11)年東京生れ。東京大学文学部仏文学科卒業。1985年、映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長、1997(平成9)年から2001年まで第26代東京大学総長を務める。文芸批評、映画批評から小説まで執筆活動は多岐にわたる。1977年『反=日本語論』で読売文学賞、1989年『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』で芸術選奨文部大臣賞、1983年『監督 小津安二郎』(仏訳)で映画書翻訳最高賞、2016年『伯爵夫人』で三島由紀夫賞をそれぞれ受賞。他の著書に『批評あるいは仮死の祭典』『夏目漱石論』『大江健三郎論』『表層批評宣言』『物語批判序説』『陥没地帯』『オペラ・オペラシオネル』『「赤」の誘惑―フィクション論序説―』『「ボヴァリー夫人」論』など多数。1999年、芸術文化コマンドゥール勲章受章。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

古井由吉

ふるい・よしきち (1937-2020)1937(昭和12)年、東京生れ。東京大学文学部独文科修士課程修了。1971年「杳子」で芥川賞受賞。その後、1980年『』で日本文学大賞、1983年『槿』で谷崎潤一郎賞、1987年「中山坂」で川端康成文学賞、1990(平成 2 )年『仮往生伝試文』で読売文学賞、1997年『白髪の唄』で毎日芸術賞を受賞。その他の著書に『楽天記』『白暗淵』『鐘の渡り』『ゆらぐ玉の緒』など。2012年『古井由吉自撰作品』(全八巻)を刊行。

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蓮實重彦

はすみ・しげひこ 1936(昭和11)年東京生れ。東京大学文学部仏文学科卒業。1985年、映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長、1997(平成9)年から2001年まで第26代東京大学総長を務める。文芸批評、映画批評から小説まで執筆活動は多岐にわたる。1977年『反=日本語論』で読売文学賞、1989年『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』で芸術選奨文部大臣賞、1983年『監督 小津安二郎』(仏訳)で映画書翻訳最高賞、2016年『伯爵夫人』で三島由紀夫賞をそれぞれ受賞。他の著書に『批評あるいは仮死の祭典』『夏目漱石論』『大江健三郎論』『表層批評宣言』『物語批判序説』『陥没地帯』『オペラ・オペラシオネル』『「赤」の誘惑―フィクション論序説―』『「ボヴァリー夫人」論』など多数。1999年、芸術文化コマンドゥール勲章受章。

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