2020年4月7日
第1回 「この人枯れてない」
先日亡くなった古井由吉さんは、『辻』単行本刊行時に、蓮實重彦さんと「新潮」2006年3月号にて対談をしました。時代をリードしてきた同い年の小説家と批評家でありながら、お二人の対談はこの一度きりです。古井さんの追悼特集を組んだ「新潮」2020年5月号の蓮實重彦さんの追悼文にも、この対談の話が出てきます。対談を構成したのは私なのですが、緊張感と文学的高揚感のあふれるお二人の対話の場に立ち会えた記憶は、一生消えそうにありません。今回、古井さんご遺族と蓮實重彦さんのご厚意により、「新潮」掲載版の対談を復刻掲載いたします。(編集長 松村正樹)
古井 蓮實さんとは初めての対談になりますが、大学では同級生ですね。
蓮實 そう。東大では駒場の二年間同じクラスだったわけだし、立教大学では紛争中に教員として同僚だった。
古井 そうなんですよ。
蓮實 これも二年一緒でした。二人が立教を離れてからも何かの折りに会って挨拶はしているし、一番最後にお会いしたのは、後藤明生氏の大阪での葬儀のときですね。だから、対談が初めてというのは不思議な気がします。別に避けあったわけではないし、疎遠というのとも違う。古井さんは作家としてしかるべき道を歩んでおられて、私も批評家として古井さんの作品はずっと読んできたわけです。一つ心残りだったのは、『仮往生伝試文』を発表された80年代の終わりから90年代の初めにかけて、古井由吉論を書くぞと決意して準備したことがあるんですが、それがさまざまな理由で流産してしまったことです。
古井 その頃は、分かれ道に直面していたから、僕も書かれると苦しいときでした。
蓮實 それ以後、個人的に妙に忙しくなったり、老後の設計ミスがいろいろあったりして、結局、古井論は書けないままでいました。それでも96年に「新潮」に短いながら『白髪の唄』について「狂いと隔たり」という文章を書き(『魅せられて』所収)、今回また最新作『辻』(小社刊)を読ませていただいたのですが、これにはとても深いところで動かされました。「この人枯れてない」っていう印象が最初に心に浮かびましたが、これはしょうがないんですね。
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『辻』
古井由吉
古井 しょうがないんですね(笑)。書いている最中だけは年齢不詳になる。あんまりいいことではないと思うんだけど。
蓮實 それから、どこにいるのかもわからない感じで書いておられる。
古井 そうなんです。
蓮實 『忿翁』などには、古井さんの日常がひそかに入ってくる感じがするんですが、『辻』にはそれも見えない。こちらも批評家という職業がら、いろいろな網をかけて読んではみるのですが、どうやら、この作品は、その網をすり抜けたところの方がすごいんだという感じがする。作家を必要以上に意識した批評家の読み方かもしれませんが、「ここまで、よくやりやがったな」っていうのが正直な感想です。これこれこういう小説だろうと思いながら読んでいくと、結局すり抜けられてしまう。それで、どうにも困ってしまいました。困ったっていうのは、大江健三郎さんもそうなのですが、まずそういう読みを強いてくる作家が同世代にいたということに対する、まあ幸福感かな。でも、こういう人にいられちゃあまずいぞ、という当惑感も否定できない(笑)。
私は作品を読みながら、まったく無原則に作中の気になった言葉をノートする人間ですが、『辻』についてのノートを読み直してみると、十二篇の内、「白い軒」について一番たくさんノートをとっている。逆に一番短いのが「雪明かり」。作者にとって、そこら辺はなんかありますかね。
古井 「白い軒」は、書き手である著者、「白い軒」の話し手である折谷、その折谷が聞く話の語り手、とナレーションがちょっと込み入りすぎている。これはいつ何時破綻してもおかしくないものなんですよ。
蓮實 作者の破綻という意識には行きつけぬまま、こちらはただおたおたしていました。
古井 これをなんとかすり抜けすり抜け、破綻から免れようとしているので、いろいろ余計なことも書いてるかもしれません。
蓮實 余計なこと……。
古井 ええ。書き手である著者は、腰を据えていろいろと企みをしなきゃならないんだけど、書いているうちに自分の存在がわからなくなっていく。企みが企みにならない小説なんですね。
蓮實 でもこちらとしては、すべて企みと思うわけです。ですから、それを見きわめようとして気になったところを拾い上げていくと、「白い軒」は解決し得ない問題が一番多く残りました。
それに対して「雪明かり」はある程度あっさりしている。話としては、望月という男と、従姉の真佐子との関係が軸になっており、九篇目のこの作品を読んで、「あ、これは一篇で完結はしているな」とひとまず安心する。しかし、「やはり、ある種の循環的な構造で前後につながっているな」と掴んだ気になって、残りの作品を読むと「半日の花」を経て、十一篇目の「白い軒」の冒頭が「老婆に膝枕をして寝ていた。膝のまるみに覚えがあった。姿は見えなかった。ここと交わって、ここから産まれたか、と軒のあたりから声が降りた。」と始まる。いきなり、膝枕はないだろう(笑)。枯れていなければいけないはずの作者が執拗に枯れずにいる瞬間を書く場面を読んで、ほとほと困ってしまった。これはすごい企みにはまって、とても抜け出せないぞというあせりを強く感じました。
古井 書き手である著者が、なるべく話の背後にいて、企みによって話に破綻が出ないようにするのが、小説だとしますね。それからいくと、『辻』は、著者がしきりに話のほうへわたくしの情欲を注ぎ、もたせているところがあるんです。すんなりと通る話を書くことが、長年の小説家としての悲願なんですけどね。
蓮實 本当ですか(笑)。
古井 それが失敗する。仕事として小説の道に入ってから、いわゆる「小説」は自分には書けないということを、自分に対して強く言い含めて、それを前提にしてやっているんです。幸せな作品は書くまい、と。そのつど一歩どちらにしても足を踏み込むことによって、そのつど破綻から逃れるような小説にしようという覚悟ではつねにあったけれど、でもどこかで悲願はあったんです。長年ご奉公してきたから、今度の連作は、ひょっとしてすんなりとしたお話として書けるか、と。そういう気持ちでやったんだけど、そうはいかないものですね。
蓮實 「すんなり」というのは、たとえば誰の作品がすんなりした話なんですか。
古井 誰のとはいいませんが、すんなりとした作品っていうのはあるでしょ。小説も幻想産業ですから、すんなりとした印象を読者に与えるのは美徳だと思いますし、あるいはそれは役割かもしれないんです。入院していた時、ある女性が本を一冊大事に抱えて、これお守りだって言うんですね。辻邦生さんの本で、なるほど小説にはこういう功徳があるのかって思いました。その後、退院間際に、担当医が紹介したい人がいるって若い患者を連れてきた。僕の『槿』を持ち込んでいるんですよ。なんだか疚しい気持ちになりまして……。
蓮實 病気が治りそうなのに、混乱しちゃうじゃないですか(笑)。
古井 少なくとも僕以上の年配の方に、すんなりとした小説を読んだという幻想を与えるべきじゃないか、そういうことで、作家としての義務を果たすべきじゃないかとは思うんですが、自分にはそれができなくていやになるんですよ。ちょっとすんなりとなりかかると、不協和音をたたいて、変なほうへ持っていく。
蓮實 でも、それが作家じゃないですか。
古井 うーん、二通りありますよね。やっぱり作家っていうのは、通俗性を担わなきゃならないっていう考え方が一方、僕はその反対で、本当の通俗性ならともかく、なまじな通俗性は排するという立場なんですね。余計人好きのしない道に入るところがある。今度はひょっとしたらって思ってやったんですけど……。
蓮實 枯れて、すんなりといくかもしれないと……。
古井 そうなんです。
蓮實 それはないと思いますよ。古井さんが『辻』を書くにあたってどなたの小説をすっきりしたものとお考えになったかわからないし、ある種の小説を書けないと思っておられるのもわかるんですけれど、小説という前に、言葉と向かい合ったところで業ってものがあるわけでしょう。年齢に応じて違ってくると思うんだけれども、その業によって、言葉は「書け」と促したり、「書いてはならぬ」と促したりする。ダブルバインドというほど大袈裟なものではなく、もっと直接的なところで、言葉はごく自然に「禁止」であり「奨励」でもある。その両方のあやしい誘惑が、『辻』には不気味に出てるのです。
おそらくあるとき、ある作家たちは、「禁止」というものに逆らって書いて、書けたと思うのかもしれない。また、ある作家は「禁止」そのものを主題にするかもしれない。でも「禁止」を主題にすると、これは単なる前衛になってしまうのですよね。古井さんは、その種の前衛にはいかない。
古井 いかないですね、ええ。
蓮實 そうすると、古井さんに、すんなり読ませてやってもいいよ、と思っておられるような気持ちがあったにしても、読み手は、やはり読めないという、そういう気分になるんですよ。読んでいるうちに、多くのものがこぼれ落ちていく。
まず、境目が見えない。これは戦略でもあるような気がするんですけれども、十二のいわば短篇があって、「白い軒」は膝枕で始まる冒頭がポイントだぞとか、それはわかるわけです。ところが、それがわかってどうなるっていう話があって、膝枕は実は一篇目の「辻」の冒頭にあってもおかしくないんじゃないかというふうに思えてもくる。境があるようでいて、ない。
一つの作品は有限の言葉からなっているわけですが、それを十二篇読むと、無限には達し得ないにしても、ほぼそれに近い途方もない複雑さにおさまってしまうわけです。その複雑さのなかで見えなくなってくるものが、ことによると辻というものなのかな、とも思いました。あえて簡単に言ってしまうと、辻っていうのは、そこで立ち止まってもいけないし、行き過ぎてもいけないし、行き過ぎた場合には、そのことでなにか禍々しいことが起こるというような場所ですよね。
古井 そうです。
蓮實 そんな危険な一点をごく自然にどこにでもある場所を使って書いてしまうのは、やはり作家・古井由吉の、ほとんどイチロー的な美技だと思う。あの人は、外野のフェンス際でとった球を、地を這うようにして投げて本塁で刺す。それから、外野の塀をかけ上って捕る。誰も刺せないはずなのに刺すし、誰も捕れないはずなのに捕るでしょう。松井だと全部落とすわけですよね。イチロー的とも言うべき美技を、そのつどそのつど意識して書いていたら、胃に穴が開くんじゃないかと思う。穴開きませんでした、今回?
古井 そうね、でも言葉が助けてくれるんです。つまり言葉でできることしかやっていないわけですから。限界にきたら、言葉は拒絶しますでしょ。それには逆らわないほうなんです。
蓮實 言葉が拒絶するっていうことに気づかない人もいるわけでしょ。
古井 そうですね。
蓮實 それに気づくのはやはり健康な証拠ですか。
古井 健康だと思います。というのは、接近と回避の運動が、この年にしては確かなんじゃないでしょうか。自分のやり方は接近と回避で、回避するために接近し、回避がもう次の接近に向かう。辻っていうのは境でしょ。僕の使い方だったら、本当は決定的な境じゃなきゃいけない。それに繰り返しさしかかり、繰り返し通り過ぎる。境が境ではなくなってしまう。そこから、十二篇書いたんだと思いますよ。境が境となる小説を一篇目に書いてたら、もうそれでおしまいですから。
人称の問題
蓮實 愚かな質問ですが、『辻』の十二篇の中でどれが一番お好きですか。
古井 意外にさっきご指摘のあった「雪明かり」かもしれない。自分でも読んでて楽だから。
蓮實 一応はすらりと読める。
古井 手入れしていても、あれ、自分で読まなかったのかしら、と思うくらい(笑)。
蓮實 この『辻』という作品は、文壇的な用語からすれば、連作短篇です。ただ、連作短篇という言葉には収まり難い、風向きが同じであったり、匂いが同じであったりといった、ある同質性が全編を貫いている。とんでもない方向には向かないんですよね。これは、辻を決定的に通り過ぎて死なないための、作家の長生きのための戦略になるわけですか。
古井 戦略にはなります。短くとっても、そのシリーズを書き継いでいくための戦略ですよね。でもまあ、デビュー当時から、最悪の場合は金太郎飴になっても構わないという具合でやってますから。
蓮實 最悪の場合といっても、古井さんはご自分のキャリアで、最悪になった例しはないじゃないですか。
古井 なんとか凌いでいるというか、回避する、その運動神経はあるかもしれません。
蓮實 よく古井さんの作品は「衰退の文学」だといわれるんですけれども、衰退が書けるのは健康だからでしょう。だから古井さんの作品は、衰退は扱っているけれども、「衰退の文学」ではないと思っているのです。
古井 衰退して歌うことは出来るかもしれないけど、書くのは難しいと思います。
蓮實 そこで思うのは、古井さんという人は、言葉のなかで生きて、言葉とともに暮らしているけれども、言葉に対するフェティシスムだけはない人だということです。
古井 そう思います。この前、法政大学でドイツと日本の作家のシンポジウムがあって、僕がパネリストになった回のテーマが「フェティッシュ」というものだったんですが、みんなの話しているのを聞いても、フェティッシュという観念が、僕には一向にピンと来ないんですよ。
フェティッシュなんて言われて、一番はじめに連想するのは、戦争中に機銃掃射かけられると破片が落ちるでしょ、それを財布に入れて自分の弾除けにした、そういうもんかな、と。自分の生き方に関わるようなフェティッシュ……わからない、実はね。
蓮實 私も、言葉に対するフェティシスムは、小説家にとってはいちばん愚かなものだと思っています。しかし、大作家といわれる人まで、みんなついやっちゃうわけじゃないですか。自分は、カラダという字はこのようにしか書かないぞという人は結構いるわけです。ところが古井さんの小説を見てると、「身体」と書いたり、仮名で「からだ」と書いたり、そのつど変えられている。その場その場で理由があるのかと思っていくつか調べたんですが、まったくないわけではないけれども、どちらかといえば、そこは突き詰めずに済むぞ、と思っておられる方だと思ったんです。
古井 そうです、ええ。
蓮實 確かに、「昏乱する」や「忿怒」といった独特の表記はあるけど、最終的には、書いてしまえばそれでいいと思ってらっしゃるんじゃないですか。
古井 本にするとき、用語、漢字を少なくとも一篇のなかでは統一してくれっていうくらいで、大概は書いたときのままで済ませてますね。
蓮實 字面に対するフェティシスムというものがなく、しかし来た球に関しては、もっともすばやい動きでそれを捕れる。フェティシスムは排すべきだと思っていながらもつい引きずられてしまう私は、そういう人には憧れてしまう。
古井 表記が変わるというのは、書いているうちに連関が緩んでるせいなのかもしれません。最初は連関というものを意識して書いているけども、筆の佳境っていうものがありまして、書いている本人も、たいへん後ろ暗いところへ入っていく。すると守らなきゃならないと戒めてた連関が、おのずから緩んでいくことになる……。
蓮實 それは緩みなんですか。
古井 緩みから出てくる、一種の自在さに近いもの。自在さそのものではありませんけど。いかにこっちが言葉にフェティシスムをかけようとしても、言葉が相手してくれない。
蓮實 古井的な文体というものがあると思うんですが、これが実にまた定義しがたくて、普通に読むと、比較的息の短いところで「た」がきたりするのに、これまた「白い軒」になるんですけど、「白い軒」には、句点なしに八行から九行続く文章が三つもある。そのつど凄みがあるわけです。あえて長くする理由があるのかなと思うと、間接的な話法、つまり誰かが言ったことをもう一度誰かが要約してつなげていく、という理由はあるんだけれど、必ずしもそうせざるをえなかったというわけでもないらしい。こうした九行のような長文というものは、日本の作家にあってはよくないこととされているわけでしょ。
古井 はい。
蓮實 それを堂々とやってしまうのは、やはり佳境に入っているからですか?
古井 そうですね。それと、日本語のある特性が出るみたいです。日本語では、だいたい句読点というのはあってないようなものですから、これはかなり長い文章が綴れるはずなんです。そこは、ヨーロッパの言語のロングセンテンスとはまた構造が違う。それを普段は作者が戒めてるんです。ところが、たまりかねて、言葉のほうが勝手にやってしまう。特に長文になるのは、確かに間接話法、間間接話法のところで、それは、要するに書き手と話し手の齟齬に躓かないため、でしょうか。
蓮實 話し手っていうのは、作品の中の?
古井 そうです。それと書き手である著者。双方が必ずしもしっかりした足場にはいないわけですから、これをシンタックスから処理していくと、混乱してだいたい文章として成り立たなくなるんですよね。いたずらに接続詞を使わなきゃならなくなる。ところが僕には、日本語にとって、はたして接続詞っていうのは効く言語かどうかという疑問がありまして。
蓮實 それから関係代名詞は使っても意味がない、と思ってらっしゃいませんか。
古井 意味がないんですよ。
蓮實 前に古井論を書こうとした時の、テーマの一つが人称の問題だったんです。古井さんの小説では、「私」はともかく、「彼」、「彼女」という三人称の代名詞は執拗に避けられますよね。あれは、いつ頃からそうなったのか……初期作品には、「彼」、「彼女」があったような記憶があるんですが。
古井 何作かしかないと思いますよ。「彼」「彼女」を使ったのは、書き始めて一、二年ぐらいまでじゃありませんか。
蓮實 それはなぜと聞くのも野暮なんですが、なぜなんでしょう。
古井 「彼」「彼女」と書くときには、いわゆる物語作品にはなっていなくても、間接話法の域に踏み込んでるんです。けれども、僕の伝聞っていうのは、伝聞のまた伝聞でして……。
蓮實 伝聞の伝聞を「私」が書くというのではなくて、今度は「私」がないということですね。
古井 そうなんです。そのときに、人称をはっきりさせると破綻する場合が少なくないんです。つまり、「彼」「彼女」と括弧に入れても、ほとんど意味がない。人称に意味がないっていうのはどういうことかって、自分でも憮然として思うんですけれども。
蓮實 古井文学解明のためには、人称というのは避けて通れない道で、「彼」「彼女」を使わない人だということだけは確かなんですが、私自身がまだ解決法を持っていないんです。ただし、先頃出たばかりの、『詩への小路』(書肆山田刊)を読むと、評論というかエッセイというかああいうものには、「彼」は出てくる。
古井 出てくるんですね。
蓮實 ですから、『詩への小路』の中にも、なかば小説として読んでもいい部分がないわけじゃないと思うんだけれども、やはり「彼」が出てくるということは、あれは小説としては書かれてはいないのか、と使い分けを一応は納得したつもりなんです。
(第2回へつづく)
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古井由吉
ふるい・よしきち (1937-2020)1937(昭和12)年、東京生れ。東京大学文学部独文科修士課程修了。1971年「杳子」で芥川賞受賞。その後、1980年『栖』で日本文学大賞、1983年『槿』で谷崎潤一郎賞、1987年「中山坂」で川端康成文学賞、1990(平成 2 )年『仮往生伝試文』で読売文学賞、1997年『白髪の唄』で毎日芸術賞を受賞。その他の著書に『楽天記』『白暗淵』『鐘の渡り』『ゆらぐ玉の緒』など。2012年『古井由吉自撰作品』(全八巻)を刊行。
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蓮實重彦
はすみ・しげひこ 1936(昭和11)年東京生れ。東京大学文学部仏文学科卒業。1985年、映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長、1997(平成9)年から2001年まで第26代東京大学総長を務める。文芸批評、映画批評から小説まで執筆活動は多岐にわたる。1977年『反=日本語論』で読売文学賞、1989年『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』で芸術選奨文部大臣賞、1983年『監督 小津安二郎』(仏訳)で映画書翻訳最高賞、2016年『伯爵夫人』で三島由紀夫賞をそれぞれ受賞。他の著書に『批評あるいは仮死の祭典』『夏目漱石論』『大江健三郎論』『表層批評宣言』『物語批判序説』『陥没地帯』『オペラ・オペラシオネル』『「赤」の誘惑―フィクション論序説―』『「ボヴァリー夫人」論』など多数。1999年、芸術文化コマンドゥール勲章受章。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 古井由吉
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ふるい・よしきち (1937-2020)1937(昭和12)年、東京生れ。東京大学文学部独文科修士課程修了。1971年「杳子」で芥川賞受賞。その後、1980年『栖』で日本文学大賞、1983年『槿』で谷崎潤一郎賞、1987年「中山坂」で川端康成文学賞、1990(平成 2 )年『仮往生伝試文』で読売文学賞、1997年『白髪の唄』で毎日芸術賞を受賞。その他の著書に『楽天記』『白暗淵』『鐘の渡り』『ゆらぐ玉の緒』など。2012年『古井由吉自撰作品』(全八巻)を刊行。
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- 蓮實重彦
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はすみ・しげひこ 1936(昭和11)年東京生れ。東京大学文学部仏文学科卒業。1985年、映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長、1997(平成9)年から2001年まで第26代東京大学総長を務める。文芸批評、映画批評から小説まで執筆活動は多岐にわたる。1977年『反=日本語論』で読売文学賞、1989年『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』で芸術選奨文部大臣賞、1983年『監督 小津安二郎』(仏訳)で映画書翻訳最高賞、2016年『伯爵夫人』で三島由紀夫賞をそれぞれ受賞。他の著書に『批評あるいは仮死の祭典』『夏目漱石論』『大江健三郎論』『表層批評宣言』『物語批判序説』『陥没地帯』『オペラ・オペラシオネル』『「赤」の誘惑―フィクション論序説―』『「ボヴァリー夫人」論』など多数。1999年、芸術文化コマンドゥール勲章受章。
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