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古井由吉×蓮實重彦「終わらない世界へ」

2020年4月9日

古井由吉×蓮實重彦「終わらない世界へ」

第3回 辻とは何か

著者: 古井由吉 , 蓮實重彦

先日亡くなった古井由吉さんは、『辻』単行本刊行時に、蓮實重彦さんと「新潮」2006年3月号にて対談をしました。時代をリードしてきた同い年の小説家と批評家でありながら、お二人の対談はこの一度きりです。古井さんの追悼特集を組んだ「新潮」2020年5月号の蓮實重彦さんの追悼文にも、この対談の話が出てきます。対談を構成したのは私なのですが、緊張感と文学的高揚感のあふれるお二人の対話の場に立ち会えた記憶は、一生消えそうにありません。今回、古井さんご遺族と蓮實重彦さんのご厚意により、「新潮」掲載版の対談を復刻掲載いたします。(編集長 松村正樹)

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蓮實 たとえば、「草原」の中で安居という男が智恵という女に、松山という知人を「あなたが殺したのではないの」と言われますね。殺めたのか殺めてないのか、その問いは「割符」などにも出てきて、『辻』のいろいろなところに浸透してるんだけれども、書き方として、殺めたというふうに読めとは指定していない。

古井 してません。

蓮實 すると、何でも黒白つけたがるこのご時世、読者には、殺めたのか殺めてないのか本当のところどっちなんだという問いが生まれると思うのです。

古井 僕のほうとしては、過去に人を殺めたという場合の下敷きと、殺めてないという場合の下敷きの両方を用意するんです。けれど、作品の中ではどちらの方向も示したくない。未定の状態で、両方が際どく継続してるっていう、そういう様相で書き進めようと思うんですね。だから、二通りの小説を下敷きにして、最終的にはそれを破ってしまう、そういう書き方だと自分では思ってます。

蓮實 でも、下敷きは実際には書かれないわけでしょう。

古井 ええ、書かないです。

蓮實 普段、書き直しはなさるんですか。

古井 汚い紙に書いて、そのつど原稿用紙に書き直します。全体の書き直しはやりません。そうすると、また別な小説になるもんですから。

蓮實 でも二通りの小説を下敷きにして、それを破るようにして書くというのは、これは非常にやばいことですよね。

古井 そうなんですよ。

蓮實 つまり見ろ、と言っておいて、見るな、と言っているのとほとんど同じですから。そして、それはまた辻っていうものがそうなんです。通り過ぎればいいのか、まだ通り過ぎてはいけないのか。読んでいくと、決定的に辻で立ち止まってしまっては駄目だということだけはわかるのですが、辻と呼ばれるものの場も、あるときは四辻であったり、あるときは三叉路であったり、鉤の手が曲がったようなというものや、複数の道が交差してるケースもある。

古井 はい。

蓮實 そのつどが異なる辻であって、総称されていない。つまり、人が別の形で呼ぼうとすれば呼べるかもしれないものをあえて辻と呼んでおられる。そうすると、私も幾分そそっかしい読者であるから、辻は象徴であろうかと思ってしまうわけです。もちろん象徴ではないということを考えつつも、読んでるときは、古井由吉という名前を私は忘れますから、この作者は、書いていることによって、この空間的な一点と思われているものを、なにかの象徴であるかのように書いているのかと、つい考えます。もう一方で当然、象徴であってはならない、であるがゆえに何度も出てくるんだ、という考えにも至るんですが、そこで私は、ある程度悩むわけです。この反復性は、あるものを強調しているのか、その内実をゼロにするためなのかと。それで私のたどり着いた読み方は、ゼロ地帯としての辻というものなのですが、それじゃいけないんでしょうか。

古井 少なくとも、象徴にはしたくなかった。ぎりぎり、刻々の反復の形を書きたかった。そして、この作品全体にわたる疑問のようなものを押し出した、それが辻なんです。象徴にしたら、この作品ははやくまとまってしまうのじゃないですか。

蓮實 象徴でないがゆえに反復されなければならないし、それはそのつど修正されなければならないし、そのつどの修正が決定的な輪郭には収まらない、ということですよね。

古井 ええ。せいぜい、ゼロにまで戻すというか、ゼロがまたなにかを生んで反復していく。

蓮實 もう一つ考えたのは、辻というものが、たとえば『円陣を組む女たち』の円のような意味で、抽象的な図形かと思うと、これがまたそうじゃないんですね。むしろ、そのような図形性に収まろうとするときに、一陣の風が吹いて、時間のほうに押し流してしまう。

古井 はい、そうですね。

蓮實 現在というものはあまり見えず、まだ見てはいない未来が過去に見えたり、自分が知らない過去が今に投影されてしまったりと、時間というものが拡散してしまう。

古井 いろいろ見える。見えるがかえって見えない。見てる自分が見えない、いない、ということです。いないというのは、また至るところにいることかもしれない、とも採れる。

蓮實 明視が極まると不可視にいくといった言葉や、既知が昂じると未知に映るといった言葉も書かれていますが、これも、やっぱりダブルバインドと読めないこともない。見てはならぬし、見なくてはならぬ、と。それから、通り過ぎなくてはならないけれども、通り過ぎてはいけない。これは、ことによると我々が言葉に対して持っている姿勢そのものなのかな、という気がするんですね。

古井 それもありますし、僕が文学作品を読むときの、受け止め方でもあるんです。どの文学作品も僕にとって、見ろ、見るな、と同時に言ってる。ここを通れ、通るな、と同時に言う。僕はそういう読み方しかできない人間なのかもしれない……。

蓮實 最近、ある一冊の書物を読了するということがとてもはしたないことに思えてきましてね……。

古井 そうそう、わかります。

蓮實 若いときには言うじゃないですか。『特性のない男』読んだぞとか、『失われた時を求めて』読んだぞとか。実は全然、読んではいない。

古井 年月隔てて読み返したときに、それを感じます。

蓮實 『忿翁』の「八人目の老人」の中の「霧と氷雨に閉ざされた巴里の陋巷で姿かたちのそっくりな老人につぎつぎ、七人まで出会うという、ボードレールの詩についてたまたま話していた時のことだ。」という一節だって、最近読み直さなければ出てこないものでしょ。

古井 出てこないです。

蓮實 ということは、我々の年齢と関係があるのかな、という気もするんですが。

古井 年を隔ててある本を読むと、すっかり忘れてるってこともある。前に読んでないんじゃないかと思って読むと、自分の書き込みに出会うことがある。

蓮實 線なんか引いてあったりするんです。

古井 あれ気味悪いですね。幽霊に会ったような。さっと、そのそばを通り過ぎていくわけだ。

蓮實 だから、読み終えたとは言えないという実感をずっと持っていたんだけど、それでも今回の『辻』ほど、読み終えなかった、という実感が強かったものはないんです。「狂いと隔たり」という文章を書かせてもらった『白髪の唄』については、錯覚にしても自分なりに読み終えたと思ったんです。ところが、『辻』についてはいくらノートをとっても、結論めいたことを書き付けても、読み終えたと思えない。別にこれは音楽のように循環形式があるからついには読めないとか、そういう話ではなく、原理として読めないことがついに小説の形になって、目の前に現れてきたぞという、不気味な感想を持ちました。こんなことを作家は許されるのかという気持ちにもなったんです。

古井 書き手のほうとしては、今度は読みきれる小説を書こうか、と思って始めたのに。

蓮實 それは業ですよ、そんなことは古井由吉にできっこない(笑)。

古井 よけいひどくなったのかもしれない。『辻』を書いている間に、芥川賞選考委員をやめまして、それはもう時期だからやめようと思ったんだけど、僕も律儀な男で、やめることになって作品の力が衰えたと見られるのはいやなものだから、ちょっとムキになってね、やめることが内定してから、公表するまでの間、一時力が入りすぎたんですよ。

文学の上品と下品

蓮實 大江さんが最近よく「老人の愚行」って言っておられますが、古井さんの『辻』は、もう愚行の極みじゃないですか。こんなことされちゃ、読むほうは始末に負えない。

古井 書くほうも、こんなことして始末がつくのかどうか、と思いながらやりました。

蓮實 「新潮」にほぼ連載形式、三月やって一月休むというペースで十二篇、約一年お書きになったわけでしょ。それで、これを終わらせることができると思うものは、なんですか。先ほど引用した「始まり」の冒頭の段落、十二行が、たった三つのセンテンスにおさまっている。これはやっておると、こちらは震えるわけじゃないですか。

古井 作品を書いているうちに、季節が流れるわけですよ。季節のめぐりが、終わりを保証してくれるっていうもので、ああまた夏になったから、これでおしまいだ、と。それぐらいで、終わってもよろしいっていう保証はないんです。季節感覚でしめくくってる。

蓮實 いろいろなところに、ふと「日曜日の午後」というのが出てきますが、これはなんですか。

古井 ちょっと個人的な体験で、入院してると、日曜の午後って、いちばんさびしいんですわ。

蓮實 首で入院されたっていう話は、私も伺って知ってたんですけれども、目でも入院されたの?

古井 そうです。目は左右やりましたから。それに併発の症状があるんで、小出しに手術して、五回入院しました。東大にも、久しく足を運んでなかったけど、そのおかげでまめに東大には足を運んでます(笑)。

蓮實 でも、そういうことは、体の衰えというふうに思っておられないでしょう。

古井 ちょっと、違うようなんです。病気っていうより故障ですね。治療っていうより修繕ですね。

蓮實 一流選手が、故障を隠してもファインプレーができるっていうのと、なにか似てる気がします。よく入院したことを糧にして書く方がいますが、それはなさいませんし。

古井 要するに、自分は元気だって宣言して、書いているようなもんですから。

蓮實 最後に伺いたいのは、長篇小説についてなんですが、たぶん、古井さんのなかには長篇小説というアイデアがないんじゃありませんか。

古井 ないですね。

蓮實 言葉の配置が、たぶん成立しないんじゃないかと思うんですね。

古井 かもしれません。構想したこともないんですよ。

蓮實 でも、ムージルやブロッホの長篇小説を訳しておられる。

古井 そうなんですね。それで懲りたかな、そうでもないんだろうけど(笑)。でも、僕の訳した長篇小説は、スタンダールやバルザックのを長篇小説というならば、ロマンではありませんから。

蓮實 いわゆる十九世紀的なロマンではないという点では、むしろ古井さんに近いのかもしれませんが。

古井 なぜだか、長篇小説を構想したことがないんです。だから、書きおろしの話には、のったことがない。

蓮實 ロラン・バルトは、小説を書くことを夢としながら、結局、書かなかったんですけれども、それは多分、長篇小説の構想というものが、いわば途方もなく不自然なものだということを感づいてしまった書き手が、無意識にとった行動だと思うんです。彼は二年間、コレージュ・ド・フランスで、〈小説の準備〉という講義をして、小説に使われるかもしれないいくつかのエピソードを、日誌風にごく短く残した。それを読んでみると、とても長篇小説にはならない、ということは明らかなんです。
 ことによると長篇小説というのは、人になにかを強要する下品なものなのかもしれない。厚顔無恥なものかもしれない。

古井 あるいは長篇小説の代表は、ディケンズかもしれない。僕なんか、いつも書くことの破綻に迫られながら一行ずつ書いてるから、一息の長篇小説なんて構想しにくいんですね。だいたい言葉が持つかどうかわからない。

蓮實 しかし奇妙なことに、古井由吉は、短篇作家とも思われていない。

古井 思われてないです。

蓮實 ですから、たとえば、志賀直哉みたいに、短篇小説で一冊の本ができる、というのとも違うわけです。

古井 違います。まああの手の短篇集というのは近代日本文学が開拓したもんなんでしょう。その仕組みを僕は、拒絶してますからね。日本の近代の短篇で、多少参考にしようかなと思うのは嘉村礒多ぐらい。あとは参考にならないから尊敬してればいい、と思ってますよ。

蓮實 私は、太宰治という人が読めないんです。どう読んでも、この下品さは文学ではないと思ってしまう。つまり、読者に対して釣り針をいろいろ広げている気がしてしまう。それから、古井さんが競馬がお好きだというのでふと思いだしたのですが、織田作之助に『競馬』っていう短篇があります。しかし、これも下品極まりないものだと思いました。あの時代の人たちが、どうしてああいう短篇を許容し、しかも織田作之助を短篇の名手などというふうに言ったのかが僕はわからない。
古井 僕も太宰は短篇の名手だと思えないんですね。もし魅力があるとしたら、仕掛けながら釣りぞこなうっていう、この釣りぞこなうことの変な気前の良さね、それは面白いと思う。ただ、蓮實さんが、先ほどひょっとして長篇小説は下品なものじゃないかとおっしゃったことで言えば、日本の、いわゆる鮮やかな短篇小説ぐらい下品なものはないんじゃないかとも思うんですよ。

蓮實 なるほど。

古井 芸人の芸だと割り切ればいいのかも知れませんがね。ただし、近頃の評論では、上品、下品っていう言葉は禁句かもしれませんし、また深刻に考えると、文学は上品なものか下品なものかっていう問題もあるんですね。

蓮實 まあ、下品だったから生き延びてきたんだ、ともいえますね。バルトが書いているんですが、フロベールもプルーストも好きな作家だ。しかし、彼らの文章には、たとえば男女が交わるときの肌の赤味のようなものがまぎれこんでいる。マラルメにはそれがない。マラルメだけが自分の肌の色を制御できると言っているのですが、しかし、それを制御しつくしたらおしまいでしょうね、文学は。

古井 そうです。マラルメというのは、僕に引きつけていうと、詩にしても詩として成り立っているかどうか、疑問ですよね。でも、そういうものばかり読んできたわけです、僕は。

蓮實 もう次の小説をお考えになってらっしゃいますか。

古井 はい。

蓮實 終わりがありませんね。

古井 終わりがないだろう、と思って始めてます。だって、終わりがないようなほうへ突っ込んでいくんだもの。

蓮實 それは達観ではなくて、こわいわけですよね、終わりが。

古井 そうです。いろんな戒めを守って、慎重に諸条件をふまえて、あるところまで進んでいったとき、自分はとんでもないことをやった、と恐ろしく恣意な感じに捕えられるんですよ。そこで思ってもいなかった何行か書いてしまうでしょ。仕方がないから、これで踏んばるよりしょうがないと腹の据わるところまで、どんどん終わらない方へいってしまう。その繰り返しなんですね。

(2006・1・6)

古井由吉

古井由吉

ふるい・よしきち (1937-2020)1937(昭和12)年、東京生れ。東京大学文学部独文科修士課程修了。1971年「杳子」で芥川賞受賞。その後、1980年『』で日本文学大賞、1983年『槿』で谷崎潤一郎賞、1987年「中山坂」で川端康成文学賞、1990(平成 2 )年『仮往生伝試文』で読売文学賞、1997年『白髪の唄』で毎日芸術賞を受賞。その他の著書に『楽天記』『白暗淵』『鐘の渡り』『ゆらぐ玉の緒』など。2012年『古井由吉自撰作品』(全八巻)を刊行。

蓮實重彦

はすみ・しげひこ 1936(昭和11)年東京生れ。東京大学文学部仏文学科卒業。1985年、映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長、1997(平成9)年から2001年まで第26代東京大学総長を務める。文芸批評、映画批評から小説まで執筆活動は多岐にわたる。1977年『反=日本語論』で読売文学賞、1989年『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』で芸術選奨文部大臣賞、1983年『監督 小津安二郎』(仏訳)で映画書翻訳最高賞、2016年『伯爵夫人』で三島由紀夫賞をそれぞれ受賞。他の著書に『批評あるいは仮死の祭典』『夏目漱石論』『大江健三郎論』『表層批評宣言』『物語批判序説』『陥没地帯』『オペラ・オペラシオネル』『「赤」の誘惑―フィクション論序説―』『「ボヴァリー夫人」論』など多数。1999年、芸術文化コマンドゥール勲章受章。

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何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

古井由吉

ふるい・よしきち (1937-2020)1937(昭和12)年、東京生れ。東京大学文学部独文科修士課程修了。1971年「杳子」で芥川賞受賞。その後、1980年『』で日本文学大賞、1983年『槿』で谷崎潤一郎賞、1987年「中山坂」で川端康成文学賞、1990(平成 2 )年『仮往生伝試文』で読売文学賞、1997年『白髪の唄』で毎日芸術賞を受賞。その他の著書に『楽天記』『白暗淵』『鐘の渡り』『ゆらぐ玉の緒』など。2012年『古井由吉自撰作品』(全八巻)を刊行。

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蓮實重彦

はすみ・しげひこ 1936(昭和11)年東京生れ。東京大学文学部仏文学科卒業。1985年、映画雑誌「リュミエール」の創刊編集長、1997(平成9)年から2001年まで第26代東京大学総長を務める。文芸批評、映画批評から小説まで執筆活動は多岐にわたる。1977年『反=日本語論』で読売文学賞、1989年『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』で芸術選奨文部大臣賞、1983年『監督 小津安二郎』(仏訳)で映画書翻訳最高賞、2016年『伯爵夫人』で三島由紀夫賞をそれぞれ受賞。他の著書に『批評あるいは仮死の祭典』『夏目漱石論』『大江健三郎論』『表層批評宣言』『物語批判序説』『陥没地帯』『オペラ・オペラシオネル』『「赤」の誘惑―フィクション論序説―』『「ボヴァリー夫人」論』など多数。1999年、芸術文化コマンドゥール勲章受章。

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