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今福龍太×小川洋子「デクノボーという知恵をさがして」

2020年8月30日

今福龍太×小川洋子「デクノボーという知恵をさがして」

後編 風から聞いたきれぎれの物語

『宮沢賢治 デクノボーの叡知』(新潮選書) 受賞記念公開

著者: 今福龍太 , 小川洋子

昨年9月に刊行された『宮沢賢治 デクノボーの叡知』(新潮選書)の著者・今福龍太さんが、第30回宮沢賢治賞を受賞することが発表されました。これを記念して、今年1月に下北沢B&Bでおこなわれ、大好評を博した小川洋子さんとの対談を短期連続公開します。最終となる今回は、小川さんの『小箱』と宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」に共通する独特の時間感覚や、子どもの死について、そして賢治の物語が“終わらない”理由について、深く迫ります。

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「生前の死」にさかのぼる時間感覚

今福 もうひとつ『小箱』の中の一節で、印象に残ったところなのですが、乳母車が出てきます。これも小箱の一種なんでしょうかね。

小川 ああ、そうですね。

今福 今ではもう乳母車とは言わずに、ベビーカーと言いますが、かつての乳母車は「箱」ですよね、かなり。

(乳母車のなかで)赤ん坊はたいてい眠っている。(……)死んでいるのではと疑いを持ち、息をしているかどうか、思わず口元に耳を近づけてしまうほどだ。けれどその疑いは的外れではない。まぶたの下に隠れた瞳には、産まれる前の風景が消えずにまだ残っているし、ミルクの(かす)で白くなった舌には、死者たちの言葉が刻まれている。赤ん坊と死者はとてもよく似ている。

……一番ハイライトの文章を、こうやって種明かししてしまって、これから読む人には申し訳ないと思うのですが、でもこの一節には、僕も驚きました。「赤ん坊と死者はとてもよく似ている」というのはすごい一節ですね。

小川 今福さんが文芸誌の「すばる」に『小箱』の書評を書いてくださったときに、この小説の中に出てくる死んだ子どもというのは、生きた先に行って死んだ子ではなく、生まれる前にいる子なんだ、というような読み方をしてくださいました。

今福 われわれは死を、生の後に来るものだと考えていますが、そのもう一方には「生の前の死」というものがあるのだろうと思うんです。生後の死は、われわれの死の一つの半分にすぎず、生前の死が、実は死のもう一つの巨大な半分をつくっているんじゃないか。ただ、僕らはそのことをほとんど考えない。死の領域のうちの広大な半分を、われわれは考えないで生きているのかもしれません。

「生まれる前」に戻っていくグスコーブドリ

小川 宮沢賢治の有名な「グスコーブドリの伝記」も、不思議な終わり方をする小説ですよね。子どものころには、意味がわかりませんでした。ブドリは犠牲になって死にますが、しかしラストに、またブドリが登場する。ブドリやブドリのお父さんやお母さんがまた出てきて、幸せに暮らす、という不思議な循環があります。ブドリという一人の犠牲の死がその一点で留まらずに、次の生へと循環しているんですね。

「グスコーブドリの伝記」(『新編 風邪の又三郎』収録)

今福 「輪廻」という言い方がありますが、それもまだ、死の隠された半分のことを完全に言い当ててはいないのではないかと思います。輪廻と言うと、代々、一つの生を終えたらその後にまた次の生を生きるというように、時間が直線状に過ぎ去っていく感じがあります。でも本当は、生前の死に戻っていかなければ、輪廻ではないのかもしれない。「グスコーブドリの伝記」は、そこに届いています。

小川 宮沢賢治の時間の捉え方が、いかに独特かということが、今回のご本でよくわかりました。子どものころに読んで、どうしてあんなに混乱したのかということが。

今福 「グスコーブドリの伝記」は、一般的には自己犠牲の物語だと捉えられていて、一人の英雄が自分の命を捧げて火山を爆発させ、それで温室効果ガスを発生させて、イーハトーブの村を冷害から救ったお話だと理解されています。しかし、そこで終わるのではなくて、彼が犠牲になって死んで、火山が爆発したあと、またこのお話のはじまりのように、ブドリが生まれ、ネリが生まれ、と書いているのが賢治の特別なところです。
 あの物語は、最初にブドリとネリの話から始まるでしょう。するとそのブドリやネリの、生まれる前のことも考えたい。そこには、もう一人のブドリがいて、前にも同じ飢饉の物語があったということです。そういうふうにして、輪廻の物語を未来ではなく、過去のほうに展開していく端緒があるような気がするんです。

小川 賢治は過去への戻り方の尺度が、また半端じゃないですよね。
 賢治が北上川の川岸を「イギリス海岸」と呼んだのを、なんて独特で、センスがいいんだろうと思っていたんですが、これはただ「イギリスの海岸のような景色」というしゃれた言い回しではなく、昔、この北上川の岸が海の渚だったことを見通して呼んでいるんですね。そこまで戻っている。

今福 北上川の川岸が海岸だったのは、白亜紀という、恐竜が住んでいた時代のことですから、その時間感覚までトリップしている。賢治は河畔に行って、時間旅行しているんです。

小川 あんなに石が好きだったのも、理由がわかります。人間より長生きなものに、惹かれるんですね。

今福 人間的な時間のことを賢治は「修羅」と呼んで、人間がそこの中で生きて、苦しんで、死ななきゃいけないということも、もちろん引き受けてはいたと思いますが、もう一方で、そういう人間的な時間から切り離されるさまざまな可能性を考えていたわけです。小さいものや子どもに対する、あるいはデクノボーに対する賢治の惹かれ方も、たぶんそこにかかわっているのではないかと思います。
 それは、小川さんが乳母車の中の赤ん坊について書かれた、まぶたの下の瞳に生まれる前の風景があるという、過去に遡る想像力と同じものですよね。先ほど「生まれる前の死」という言葉を使いましたが、この生前の領域は、「死」という言葉でもまだ足りないかもしれません。

小川 死という言葉も便宜上、人間が付けたものであって、前–言語的な状態があるはずですから。

今福 そうですね。それを人間は今まで、タナトスとかいろんな言葉で表現しようとしてきたのだと思います。

ムカサリ絵馬の「ガラス箱」と「デク」

今福 「赤ん坊と死者がとてもよく似ている」というと考えたくなるのは、子どもが物心つかずに幼く亡くなったとき、人類文化は世界的に見ても、そのことを受け止めるための仕掛けを考えてきたということです。「ムカサリ絵馬」も、そういうものの一つだと思うんですが、これは偶然、知ったんですか?

小川 2011年に『芸術新潮』で特集されているのを偶然、見て知りました。この風習は、日本的な仏教の教えからは反しているわけです。成仏させないんですから。結婚という最も現世的な儀式に、死者を参加させたいという親の心ですね。それを絵馬に描いて、奉納する。その絵馬がまた、色鮮やかなんです。とても死者のためのものとは思えない。そういう絵馬が無数にお寺の、堂々と掲げることはできないので少し奥まったところに、しかしきちんと奉納されています。山形県の村山地方のあたり、立石寺やその周辺に、限定的にあるようです。しかも、これはそんなに古い風習ではなくて、近代になってから自然発生的に、人びとの中から生まれたと言われています。
 青森の津軽地方にある弘法寺では、また少し違った、絵馬の変形のようなものもあって、五月人形を飾るような小さな箱の中に、花嫁人形を納めて供えることによって、死んだ息子を結婚させるというのがあります。

今福 未婚で亡くなった子どものために、花嫁の人形を奉納するんですね。

小川 花嫁人形の隣には、息子の写真を添えていたりもします。
 このお寺では、ホールのような広い部屋にガラス箱がずらーっと並んでいて、――「死んだ子の歳を数える」という言葉もありますけれど――小さいうちに死んだ子どもが学校へ上がる歳になる、思春期になる、そうした折々に、学校のドリルだとか、必要なものを納めていくんです。
 成人になったら、ビールを納めたり、車のミニカーを納めたりして、箱の中で死者はどんどん大人になっていく。最終的な目標は、結婚なんです。それぞれの箱の中身は、一つとして同じものがないオリジナルなんですよ。「これを納める」という決まりはないので、それぞれの子どもへの思いが一個一個の箱に詰まっていて、独自の物語がそこにある。本が並んでいるのと一緒です。

今福 この習俗は、小川さんの『小箱』の物語の中へ入って、さらにファンタジーの世界に展開しているのですが、これは冥婚と言って、冥界で結婚するという風習として日本ではよく言われています。他にも、太宰が生まれた津軽の金木村の外れの川沿いにある、川倉賽の河原地蔵尊にも、やはり幼くして亡くなった子どもの霊を模したお地蔵さんや、土や石や木でできた人形を奉納してある。これは「デク」ですよね。

小川 「デク」ですね。

今福 着物を着せられてあって、そしてなぜか風車がたくさん置いてあったりする。

小川 風ですね、ソローの愛したエオリアン・ハープを思い出します。

メキシコとブラジルの「小さな天使」

今福 「ムカサリ絵馬」の風習は明治期からあったようですが、第二次世界大戦のときにたくさんの若い男性たちが娶ることなく亡くなっていって、それを不憫に思った母親たちが花嫁人形を供えたことで広がっていったようです。
 ただ、こういう風俗自体は世界にもいろいろとあって、メキシコでは亡くなった子どもの写真を撮るということが、十九世紀末ぐらいから一時期行われていました。亡くなった子に天使の格好をさせて、母親や父親が抱いて写真を撮る。スペイン語でアンヘリートと言って、「小さな天使」という意味の習俗です。子どもの死の痛みを、写真という新しいテクノロジーによって受け止めた一つの形でしょう。
 子どもを亡くすことは確かにとても悲しいことですが、まだ俗世間にまみれていないので、最も純粋で、無垢な、インファンティアの存在のままでいられる。その意味ではとても祝福すべきことで、この子どもは、そのまま天使として、神の世界に行くことができると考えられているんです。悲しみとの感情的なバランスをつくるために、そういう喜びの感情を作りだす集合的な心理が生れている部分もあると思います。
 ブラジルにもアンジーニョという、アンヘリートと同じ言葉の風習があって、小さい子どもが亡くなると、天使の格好をさせ、花を周りにたくさん飾り、その子の目を開く。
 天国に登っていく道が、濡れていたりしたときに、転んだり、躓いたりしないようにと、目は必ず開けたままにします。ブラジルの写真家のセバスチャン・サルガドが、セアラー州クラテウスというところで、アンジーニョの葬式というか、お祭りに立ち会ったときの写真が残っていますが、僕は小川さんの『小箱』を読みながら、このことも思い出しました。
 幼くして子どもが死ぬという経験を、人間は歴史的に積み重ねてきました。今は医療のテクノロジーが進んで、子どもが死の世界と接しているということを忘れがちです。

小川 お産というのは、半分、あっちの世界に行って、連れてくるという感じですね。

今福 逆にいうと、お産のときに子どもがうまく生まれてこないことを、人間は「まだ、この子はこの現世に来たがっていないんだ」というふうにも理解するわけです。子どもにとっては母胎こそがむしろ理想的な場所であって、そこから外へ出てくること自体が、ある種の苦痛でもある。

小川 みんな、生まれてきてから泣きますしね。

今福 この泣くということは、嬉しいことと悲しいことと、すべてを含んだものでしょうね。生まれることによって、人間はある線を越えてしまう。不死ではなくなり、死を免れなくなる。

小川 産声は、それを宣言しているようなものです。

今福 その意味でも、やはり子どもは、死の世界からやってくるんです。そういうことを、アンジーニョの祭りは逆に照らし出してくれたりもするし、戦争に行って結婚できなかった息子や幼くして死んだ子どもたちのその後の生を「ムカサリ絵馬」によって想像するのは、単に生を取り戻すということだけではなくて、ある意味で死というものにもっと深い振幅を与えていくということでもありますよね。

風には始まりも終わりもない

小川 若くして子どものまま死んでしまうと、なぜ自分が死ぬのか、今までの短い人生をどう自分に納得させるのか、ということを言葉にできないままです。生き残った者たちがせめて何かそこに物語を見いだして、そこにちゃんと意味があったということを付け加えてあげたいのでしょう。「ママ」とも言えない歳で死んでしまった子どもが、本来獲得するはずだった言葉を、なんとか形で表わしたいのかもしれません。

今福 その点で言うと、言葉というのは、人間にとって「前-言語」的な段階からの決定的な断絶を生み出す仕掛けでもあると同時に、しかし人間はそのことを考え抜くためには、もはや言葉を通じて考えるしかないわけです。

小川 人間以外、誰も選ばなかったものを選んでしまった。そこから罪も始まっていますけれどね。そして、それを使って小説を書くとなると、本当に考えないといけません。
 でも、おそらく宮沢賢治のような人は、言葉で書いていたのではないんでしょうね。頭に言葉が浮かんで、それを書いていたわけではない。

今福 だから賢治の物語のほとんどが、風から聞いてきた物語である、石が語った物語である、というふうに枠づけられているんでしょうね。

小川 そう、自分が書いたのではないかのように、語っていますよね。『注文の多い料理店』の「序」にも、はっきりそう書いています。どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、そのとおりに書いたままであると。

今福 自分の主体的な想像力や意思で書かれた言葉ではない、ということですよね。

小川 書かれた作品がこれだけ長い年月、多くの人びとに読まれ続けて、一人の人間の中でも幾度も読み返されるという広がりを持つのは、そういうことでしょうね。作品が最初から作家一人のものではなかった。

今福 それを宮沢賢治ほど自覚的に、自分の物語の中に表した人はいません。ほとんど額縁のように、最初に「この物語は風から聞きました」と書き、最後にもう一回「そうそう、この話は風から聞いたんです」と書いて物語を枠づけています。それは徹底していますね。

小川 賢治の作品はすべて未完であり、終わっていないといわれますが、だから終わりようがないわけですよね。便宜上、一ページと最終ページがあるわけで、自然の風にとっては、別に始まりも終わりもないわけですから。

今福 完成というのは、人間がつくり出す、ある物語性の論理ですからね。僕らが宮沢賢治の物語に触れるときは、文庫本になったり、教科書に入っていたりしているので、一つの作品として形を備えているとついつい思ってしまいがちです。でも宮沢賢治が残したものは、ほとんどが生の未完原稿だけ。生前に刊行された本は『春と修羅』という詩集と、『注文の多い料理店』という童話集の二冊だけです。あとは、ほとんどすべてが草稿状態で、亡くなるまでの間、ひたすら手が入れられ続けていました。原稿用紙の表に書かれた物語の裏には、別の物語が書かれていたり、いろんなところでテキストを切り貼りしたりもしているので、たとえば「銀河鉄道の夜」は、どれが正式なテクストかというのを確定することはいまだにできません。というより、決定稿はどこにもないのです。

小川 今の文庫本にも、一字空きのようなものが出てきます。

今福 それもありますし、そもそも話の順番はこうだろうというふうに決めたのも、賢治の死後に作品が出版される際、編者がやったという部分があります。これは編者の大変な努力のもとに成立したことで、それは感嘆すべき作業でしたが、しかしそれは一つの便宜的な読みに過ぎないということは覚えておくべきでしょう。僕らは残された未完で混沌とした原稿を、辻褄が合うような形で整理し直して、活字で読んでいるのです。

上書きされて積み重なる言葉たち

小川 風から物語を聞き取ってそのまま書くことができたら、ある意味、楽でしょうね。私は先日、京都のお寺で初めて写経をやったんですが、こんなふうに小説が書けたら楽しいだろうなと思いました。下に薄っすら浮き出ているものを、そのまま写していけばいいんですから。

今福 でも、本とは本来そうした、歴史的に無数の人々が書いてきたものの積み重なりを含んで成立しているものですよね。
 パリンプセストという、クロスライティングよりもさらに昔の、印刷術が発明される前の本の形態があります。当時、本をつくるのに使われた羊皮紙は貴重だったので、以前の時代の本の羊皮紙を再利用し、そこに書かれていたテキストを削って、新しくテキストを書いた。たとえば、もともとギリシア時代にピタゴラスの講義を聞いた人が数学理論のノートとして書いた羊皮紙本を、何世紀か経ったあと今度は、これも九〇度回転させて、キリスト教の祈禱書に再利用する、ということが、ごく普通にありました。パリンプセストとは「削られて上書きされている」という意味ですが、当時の人は、この下には必ず別の何かが書いてあるという想像力の上に、新たなものを書いていたんですね。

小川 そこに既に、死者がいるということですね。

今福 過去の人間たちの思考や、感情がそこにあるということが、新しくその上に文字を書く人間たちを鼓舞しているんですよ。
 デジタルの世界では、そうした「上書き」の深みのようなものを想像することはもうできないでしょうが、アナログな書物には、まだその想像力がどこかでつなぎ留められているような気がします。

小川 ヘンリー・ソローの日記も、まだ解読途中だそうですね。量が膨大にあるうえに、字も読みにくいというので、私たちが生きているあいだに全部刊行されるかどうか、分からないとか。

今福 そうなんです。わずか四十何年しかない生涯の人が書いた日記が、生誕から二百年経ってもまだ完全に解読されていない。これは文字や言語というものの、限界ではなく可能性だと思いませんか。

小川 賢治の作品が、すべて未完であるということにも通じています。

今福 終わりがないといえば、最後に一つ、聞いてもいいですか? 今日は人形の話をしましたが、『小箱』には亡くなった娘にそろそろお友だちが要るんじゃないかと言って、指人形を納める人が登場しますよね。その人形の名前が「ステラ」といいます。これはソローの本からではないですか?

小川 これはですね、ロウソクの炎が、おかしの匂いがするという設定にしていて、たまたまカステラの匂いがするので、ステラというふうにしたんです。

今福 ああ! いや、僕もカステラとステラを駄洒落みたいにして、「星で終わる書物」という詩を書いたことがあるんです。それはどうでもいいことですが、ソローの『ウォールデン 森の生活』という本は最後、「morning star」(=明けの明星)という言葉で終わる。そしてダンテの『神曲』も、「ステラ」(=星。正確にはその複数形stelle)で終わっています。

小川 おぉー!

今福 この、「星」という単語で終わる特別の本は、実は探していくと、いろいろあるんじゃないかと思います。

小川 おもしろいですね。気にしていませんでしたけれど、実はどこかで、そうつながっていたんですね。『よだかの星』も、醜いよだかが最後、星になりますしね。

(おわり)

宮沢賢治 デクノボーの叡知

今福龍太 著

2019/9/26発売

今福龍太

今福龍太

いまふく・りゅうた 文化人類学者・批評家。1955年東京に生まれ湘南の海辺で育つ。1980年代初頭よりメキシコ、カリブ海、アメリカ南西部、ブラジルなどに滞在し調査研究に従事。その後、国内外の大学で教鞭をとりつつ、2002年より群島という地勢に遊動的な学び舎を求めて〈奄美自由大学〉を創設し主宰する。著書に『クレオール主義』『群島―世界論』『書物変身譚』『ハーフ・ブリード』『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』(読売文学賞受賞)など多数。

小川洋子

小川洋子

おがわ・ようこ 作家。1962年、岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。1988年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞。1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞受賞。2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞を受賞。『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、2006年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、2012年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。『薬指の標本』『琥珀のまたたき』『小箱』など多数の小説、エッセイがある。フランスなど海外での評価も高い。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

今福龍太
今福龍太

いまふく・りゅうた 文化人類学者・批評家。1955年東京に生まれ湘南の海辺で育つ。1980年代初頭よりメキシコ、カリブ海、アメリカ南西部、ブラジルなどに滞在し調査研究に従事。その後、国内外の大学で教鞭をとりつつ、2002年より群島という地勢に遊動的な学び舎を求めて〈奄美自由大学〉を創設し主宰する。著書に『クレオール主義』『群島―世界論』『書物変身譚』『ハーフ・ブリード』『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』(読売文学賞受賞)など多数。

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おがわ・ようこ 作家。1962年、岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。1988年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞。1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞受賞。2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞を受賞。『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、2006年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、2012年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。『薬指の標本』『琥珀のまたたき』『小箱』など多数の小説、エッセイがある。フランスなど海外での評価も高い。


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