博物館というものから、一時期足が遠のいた。あるとき、気がついたのだ。ここにあるものはみんな、死んでいる。

 ペルシアのお皿、橙色の鳥の尾羽を飾ったインディオのヘッドドレス、マオリの翡翠神像。そういうものを見るのが大好きだった。一番最初に見た、一日ではまわりきれない大きな博物館は、サンクトペテルブルク(当時はレニングラード)のエルミタージュ。美術館といってもいい、日本ではそう呼ばれている。帝政ロシア時代、エカチェリーナ二世ら王侯貴族が集めた蒐集品がその始まりで、珍しい品々や絵画彫刻が展示されているのはかつて皇帝が暮らした王宮、という典型的な西洋的博物館だ。ロシアはヨーロッパではないから、真似たわけだが。

 千室以上あるという部屋のひとつごとに水色、薄黄色、薔薇色と色調を変える内装や調度品は、子どもにはきらきらと夢のようで、歩いても歩いても飽きない。そろそろ帰るよという親に待って、待ってといいながら、走ってエジプトのミイラを見にいった。誰もいない空間に、思ったよりずっと大きいお棺がどーんと置かれ、大胆にデフォルメされた人物像が、それまで主に見てきたルネサンス以降の絵画の写実的な緻密さとはかけ離れた姿で描かれていた。奇妙な気持ちがした。ずっと後まで、その奇妙な感触が残った。

 きれいだったり不思議だったり、まず視覚的に楽しめるものを見たい。多くの鑑賞者同様、そんな気持ちでわたしも博物館に行った。だがオーストラリア先住民の文化に関心がつよまり、かれらの作品を見る機会が増えて、わたしの目は変わり始めた。

 かれらの作品の多くは、美術館ではなく博物館の所蔵品とされてきた。一九八〇年代後半はちょうどそれが変わっていく時代、つまり先住民は全員無名の石器時代の伝統継承者ではなく、それぞれが独自の感性をもつ創作者だという見方が、ようやく浸透し始めてきた頃だった。

 博物館にいたわたしは、ふと思ったのだ。ここに入れられるということは、立派な品とお墨付きを与えられると同時に、保存庫に入れられてしまうことでもあるんだな。もう動かない、変化しない。つまり、もう生きていない。絶滅した動物の剥製、先住民の骨、略奪された王朝の財宝。死屍累々だ。

 そう思った途端、輝かしい展示品が急に埃っぽく、意味を失って、がらくたのように見えてきた。咳きこみながら、わたしはその場を後にした。

 最近パリのケ・ブランリー博物館で、また考えこんだ。人類博物館の資料と、国立アフリカ・オセアニア美術館のコレクションをもとにしたという所蔵品には、すばらしくきれいなものがある。でもなぜこの地域のものとしてこの一点が選ばれてここにあるのか、わからない。暗い照明の中、ガラスケースの中の展示品は一点づつ光が当てられ、輝いている。だが、それはどこか宝石店のウィンドウみたいな、宙に浮いた印象をつくりだしていた。日本のコーナーもあった。着物の染型紙がいくつか飾られていた。なぜこれなのか、という疑問がつよまり、そこにずっといる気になれなかった。

 野蛮人って素敵でしょ。そういわれている気がした。それらを選んで展示した目は、自分の視線は透明な客観だと信じているようだった。どうかな、と日本から来た野蛮人は思った。これはきみの目が選んだもの。これらの品をこしらえた土地には、別の目があって、別の選択をする人々が、おそらく数億人はいる。コレクターは自分にとって意味のあるものを集めるが、地元では地元のみなさんにとって意味あるものが大切にされる。

 かれらはきみのほうが、野蛮人だと思っているかもしれないよ。西洋の名画ってやつにはやたらと肖像画と人間の裸が多いね。あれが大広間にどかどか並んでいる美術館に行くと、なんだか肉、肉、肉の連続に疲れてきてもうたくさん、て気がしちゃうんだ、わたしは。実際、ある時期から、まるで喫煙者が急にたばこが吸いたくなくなるように、西洋文化を特別なものとみなす習慣をわたしは失った。気がついたら、そうなっていた。

 博物館に入ると、これも死んでる、あれも、とつぶやいてしまう。そんな自分にちょっとうんざりしていた。だから、昨年アデレードで、久しぶりに博物館でなにか血の通ったものをみた、という気がしたときは、うれしかった。

 南オーストラリア州立博物館の一階と二階のそれぞれ半分ほどを、先住民関連の展示が占めている。暗めの照明で、パネルの文字がときどき読みにくいものもある。しかしケ・ブランリーとは印象がまるで違う。ぽん、とむきだしで置かれた素朴なバスケットなども、なぜだろう、暖かく見える。なにか真正なもの、より正確にいえば、そうだな、そこにあって当然だというオーラ、ひとつの知の体系、美の伝統、文化の文脈の上にそれがあるのだ、という気配を漂わせている。

 呪術師(メディシン・マン)として有名だった人の写真は、名前や所属語族が書かれた上で展示されている。儀礼用の正装をした人々の土地も、詳細に特定されている。貝の飾りには、それがいかにして砂漠の部族の手に渡ったか、北端のカーペンタリア湾からの長い交易ルートが推測され書き添えられている。

 ケ・ブランリーでもちいさい字で製作地等が書いてはあったのだけれど、暗くてよく見えないし、見てもモノの意味、背後の文化がほとんどわからなかった。そのせいかケ・ブランリーの日本語解説サイトには、すくなくとも二百以上の言語グループに分かれるオーストラリアのアボリジニ(先住民という意味の英語)をひとつの民族とみなす誤解や、アボリジニアンなんて珍妙な造語もみえる。

 一方このローカルな博物館では、作者がわかるものには美術館と同じように、名前や出身グループが書いてある。作り手が見える。この土地で四万年以上という長い時間を生きてきた人々の間にある関係が見える。ここは南オーストラリア。その現在地の認識の上に、この土地の歴史の広がりの上に、展示品が位置づけられている。それが見るものに、伝わる。

 黄色い繊維でつくられたきれいな紡錘形の容器がひもにつりさげられている。これは「へその緒入れペンダント」。へその緒は契約などで重視されたそうだ。証文のように提示されたのだろうか。それから「噛み袋」がある。小さめの袋につめものがしてあって、「怒りや悲しみを形式的に表現するために」口に入れて噛んで見せるのだという。様式化された感情表現に、複雑な人間関係や礼儀、気遣いが感じられる。

 見る者にとってモノが生きている、ということは多分、それがひとつの知の流れ、文化の文脈の中で意味をもって存在していた、そしてそれがいま現在わたしたちがその上に生きる知の流れと無関係でなくどこかで通じている、そう実感できるということだ。そういう文脈を発見し、示すことがモノを生かすことだ、といってもいい。大英博物館だろうがおじいちゃんの長持だろうがかまわない、死んだ蒐集品ではなく、生きている物語を発見できたら幸せ。ガラスケースの中の豪華な干物には心が動かない。会いそびれた隣人、教わる機会のなかった知恵ある人の「話」が聞きたい。

(「考える人」2013年冬号掲載)