(前回までのあらすじ)
「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。沖縄戦の生き残りでもある。1924年、奄美の喜界島に生まれ、20歳で現役入隊した。

 「残念なのは、初年兵の当時の写真がないことです」
 勝田さんは出征の話になると必ず言う。出征前の軍装の記念写真を撮らなかったらしい。ある時、ふと「どんな写真が一番欲しかったんですか?」と尋ねてみた。若くて元気な自分の姿か、親兄弟との家族写真か、と思った。
 勝田さんは少し考えこんだ後、「古仁屋(こにや)の港から、同期みんなで船で出ていくところですかねぇ」とかみしめるように言ったのが意外な気がした。

 勝田さんの記憶では、喜界島を出たのが1944(昭和19)年10月30日。まず、奄美大島に渡り、古仁屋の学校に収容されて訓練を受けた。同じ部隊に約100名、沖縄へ行くとは聞いていた。ほかに、高射砲や機関砲兵として200人から300人がいた。
 勝田さんたち野戦重砲兵隊(以降、当事者が使う慣例に従い「野戦重砲隊」とする)は、1ヶ月後の11月23日、沖縄行きの船に乗りこみ、古仁屋港を出た。記録によれば、出港は真夜中だったはずだ。米軍を警戒して、徳之島や沖縄の運天港などに停泊しつつ5日もかけて輸送された。
 那覇に着いたのは日が落ちたばかりの夕暮れ。港は十・十空襲の焼け跡が生々しく、疎開者の荷物でごった返していた。戦地に来た、という実感が迫った。
 この十・十空襲とは、沖縄本島で初めての本格的な空襲で、那覇港を中心に市街地の9割が焼けた。死傷者こそ内地の都市空襲と比べて少ないものの、「今にして思えば、あの日からだった」と語られる「沖縄戦の始まり」である。
 1971年以降、「十・十空襲を記憶にとどめること」を目的の一つとして、10月10日前後の3日間に「那覇まつり」が行われている(2000年以降は第2月曜を含む3日間に開催。2011年から「那覇大綱挽まつり」へ名称変更)。夜は、那覇港から花火が打ち上げられるのである。こんな日にこんな場所で空に爆発音をとどろかせて那覇の人たちは気にならないのか、毎年なにやら落ち着かない。

 勝田さんは、那覇に着いたその日のうちに本島南部の佐敷の国民学校へ。1ヶ月ほど初年兵教育を受けた後、本島北東部の宜野座村へ送られ、陣地構築のための伐採作業に従事した。そして再び南部へ移動、1945年3月、中隊に配属された。このように将兵が南へ北へと目まぐるしく移動させられるのは、作戦準備中の沖縄では珍しいことではない。

北部で伐採された木材は、中南部に運ばれて壕の構築に使われた。写真は読谷飛行場に近い重高射砲隊の掩蔽壕(えんぺいごう)。沖縄県公文書館提供


 配属されたのは、司令部直轄の野戦重砲第23連隊、通称「球3109」。
連隊は本部および2個大隊からなり、勝田さんは第一大隊の第二中隊、通称「浜田隊」に配属された。第一大隊は首里城の北東に配置され、嘉手納から南下してくる米軍と正面から対峙することになる。
 各中隊にはそれぞれ九六式十五糎(センチ)榴弾砲が4門、それを動かすための6トン牽引車が4両、ほか自動貨車34両があった。とはいえ、初年兵には車に乗る機会などない。「ガソリン1滴は血の1滴」と繰り返し聞かされた。
 「当時、我々は『最新鋭の機甲部隊』なんて呼ばれましたがね」と勝田さんはよく自嘲して言う。「日本の大砲などアメリカから見ればオモチャのようなものですよ」と言ったこともある。
 だが実際には、この十五糎榴弾砲は当時の陸戦で中心となる重火器だったはずだ。榴弾とは柘榴(ざくろ)弾に由来するらしい。内部に火薬や金属片を詰めた砲弾が、熟れた柘榴のように炸裂する。小さいものでは手で投げる手榴弾から、この口径15センチの大砲で発射する砲弾まで多種多様だった。
 沖縄戦の場合、榴弾砲・カノン砲・臼砲などの砲兵部隊は、歩兵や戦車が戦う最前線から丘を越えた後方に設置された。敵の戦車や砲兵、指揮機関、物資集積所といった後方部隊を撃つのである。観測所からの情報を分析して座標軸上で計算、距離・方向・仰角などを修正し、かなり正確な着弾ができたようだ。

摩文仁近くで破壊された十五糎榴弾砲。米海兵隊写真資料。沖縄県公文書館提供


 実際、アメリカ側の最高指揮官バックナーJr.中将を撃ち取ったのが、この十五糎榴弾砲と言われる。今なお米軍史上、戦闘で殺害された唯一の将軍だ。勝田さんの23連隊ではなく第1連隊の砲兵が6月18日、糸満市の真栄里(まえざと)で視察する米軍幹部たちを発見、残る砲弾8発すべてを撃ち込んで至近距離に着弾させたという。現在、靖国神社の遊就館ロビーに展示されている榴弾砲がそれだ。

この数分後、砲弾で砕け散った岩が胸に当たって死亡したと米国側の戦史は伝える。沖縄県公文書館提供


 アメリカ側の記録を見ると、日本の大砲の破壊力と正確さそのものは脅威だったらしいが、実は弾薬が最初から各門1000発しかなかった。そもそも沖縄方面軍の全部隊が、一会戦分の武器しか持たない。制海権も制空権もなく、武器や人員の輸送が困難だったためだ。そのため、1日に発射できる量が制限され、5月4日の総攻撃が失敗した後は、ほとんど弾が残らなかった。一晩じゅう照明弾を上げ続ける米軍とは、物量において比べ物にならない。

 勝田さんのいた野戦重砲第23連隊は満州で編成され、昭和19年10月に沖縄へ来た。古年兵たちの結束は固く、満州の思い出話に興じたり軍歌を歌ったりと勇ましかったそうだ。そんなところへ初年兵で入ると、さぞ過酷な指導を受けそうだが、勝田さんは殴られたことすら一度もないという。「要領よくやっていれば、殴られることなんかないですよ」と事もなげに言い切られた。
 同期の戦友たちも懐かしいが、配属まもない頃、陣地構築で壕の掘り方などを指導してくれた先輩たちのことも懐かしいらしい。
 勝田さんがまた「自分の体験を本にしたいんです」と語り始めたから、「一番書きたいことは何なんですか?」と尋ねた。すると嬉しそうに顔を輝かせ、次々と戦友の名前をあげて急に饒舌になった。

「まず、マスヤマでしょ。最後まで一緒にいたんだ。ムクモトは満州から沖縄に来た。福島のサガワさんは撃たれた時に一緒だった。それから、ミゾカワさん。この人は我われ初年兵を教育しておったんです。トバさんは三重の人で、おとなしくて皆から好かれる人だったね。石川のタジさんは私の班の班長で、我々は交代で班長当番をしたんです。タカダ少尉という小隊長の当番もしましたね。靴磨きをしたり、いろいろやるんです」

 勝田さんはいそいそと奥の部屋へ行き、戦友会が作った地図と名簿を出してきて大事そうに見せてくれた。野戦重砲23連隊の総員1180名のうち、戦死者1032名、生還者は148名。勝田さんの第一大隊は、総員468名のうち生き残ったのは1割以下、わずか37名だった。

つづく