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『人間をお休みしてヤギになってみた結果』試し読み

2017年10月24日

『人間をお休みしてヤギになってみた結果』試し読み

01 はじめに

著者: トーマス・トウェイツ , 村井理子

村井さんちの生活」が大人気の村井理子さん、このたび新しい翻訳が新潮文庫から発売されることになりました。

タイトルはずばり『人間をお休みしてヤギになってみた結果』! 著者のトーマス・トウェイツは『ゼロからトースターをつくってみた結果』(村井理子訳、新潮文庫)で一躍話題の人に。さらに、この「ヤギ男」プロジェクトでなんと2016年にイグノーベル賞受賞!! 

人間をお休みするってどういうこと? ヤギになったってどうやって!? 「考える人」では、この気になる本の冒頭部分を特別に公開します!

トーマス・トウェイツ、村井理子訳『人間をお休みしてヤギになってみた結果』

2017/11/1

公式HPはこちら

ロンドン、ウォータールー(晴れてはいるが、肌寒い)

 偉大なる地球は回転し、再び、朝の忙しい通勤時間がやってきた。スタスタとコンコースを歩く靴音。トントントンと階段を上がって、テムズ川にかかる橋を渡り、ロンドン中心部にある職場へと向かう人々。男も女も、同じ方向を目指して足早に通り過ぎて行く。スーツとネクタイの男達は金融業だろう。ジャケットとジーンズはソーホーにあるクリエイティブ系だろう。ジーンズとTシャツ姿の男は、さしずめIT系。それとも、やる気を見せるなんてダサいってタイプだろうか。僕は女性達の服装の類型学に精通しているわけじゃないけれど、男性に対する見方と同じようなものはあるのだと想像している。少なくとも、僕の意識の中には登録されていない、もっと繊細な表現がそこにはあるのだろう(でもルイ・ヴィトンで働いたことがある友達が言うには、客を見る時は服ではなく髪を見ろと訓練されるらしい。清潔な髪でお粗末な服を着た人間=エキセントリックな貴族。ただの粗末な服装=女性の路上生活者ということらしい)。

 ということで、なぜ僕はジーンズとTシャツを着て(僕のキャラクター的にはジャケットにジーンズの可能性もあるわけだけれど)、オフィスに向かって歩いてないと思う? なぜかというと、僕は今週、めいっ子の犬の面倒を見ているからだ。なぜって僕はヒマだから。なぜって僕には(ちゃんとした)仕事がないから。だから、行くオフィスもないってこと。ガールフレンドはちゃんとした仕事に就いているから、階段を上がって橋を渡ってオフィスに行くわけだけれど、僕は彼女とそこで別れて、こうやって足下に犬を従えて、カフェで僕以外のみんなが目の前を通り過ぎるのを見ているというわけ。

 この光景は、僕の今を上手に要約していると思う。僕以外の大人は目的を持ちつつ前に進み、成長し、仕事に向かい、キャリアを確立し、大人としての生活を送っている。そして僕はといえば、ここに座ってコーヒーを飲み、姪っ子が飼っているノギン君(犬)が、通りに落ちている汚いものを食べないように目を光らせるという、一日の中で最も重要な任務を遂行しているというわけだ。僕は今、三十三歳という年齢で、(ちゃんとした)仕事がないことが最近になって少し心配になってきた。だって、だって、普通は「将来」ってものがあるでしょ。そりゃ、フリーランスのデザイナーとして、今のところは、なんとか食べることは出来ているけれど、そう遠くない将来、自分の未来の家族を養うっていう必要も出てくるかもしれないじゃないか。僕は成熟した大人の男性であるはずだけど、事実上、父と同居しているわけで(ロンドンに一人で住む場所を確保するなんて夢の話だ)。昨日は銀行から口座の開設を断られちゃったし(そして今朝はそれについて書面も受け取った。間違いじゃなかった)、二週間前に送った履歴書の返事はまだ戻ってきていない。

 わかったよ、わかったって、わかってるってば。まわりから言わせれば、僕なんてセーフティネットありの恵まれたガキだろうし(なにせ、父と永遠に同居したってかまわないでしょ?)、これについては昨晩喧嘩けんかした時にガールフレンドも長々と指摘してくれた。でもね、いくらスネかじりだと呼ばれても、そんなことは今僕が感じているこのやるせなさに対して、全く役に立たないんだ。なぜなら、いくらそのセーフティネットがしばらくの間はとても大事な命綱だとしても、いつかはしっかりと暮らさなくちゃいけない。人生というサーカスの中で、安定した止まり木みたいなものに辿たどりつかなくちゃならない。僕が今まで通ってきた道は、目的を持ったまっすぐなものじゃなくて、どちらかと言えば横道にそれっぱなしだった。信頼のおける中年男性として、もっとしっかりとしていれば、本来ならばもっときちんとした暮らしができていたはずなんだ。わかるでしょ? 最悪でもこんな状態からは、さっさと逃げ出しておくべきだったでしょ? 安定した給料を稼いでいて当然なんだ。だって僕、三十三だぜ? それなのに…。今の僕には何もない。そして、これから先も。僕の自尊心ってやつは、深く沈み込んだままだ。

 でもさあ、トーマス君、一応は成功してるでしょ? 「トースター・プロジェクト」はこの前、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のパーマネントコレクション(訳注 美術館が買い上げ、永久に展示する美術品)に認定されちゃったし。これってお国の宝って意味だよ! それってすごいことじゃない? それに、このプロジェクトに関して書いた『ゼロからトースターを作ってみた結果』って本にだって、世界中からとても素晴らしい感想や反応が届いている。これもすごくない? それに、プロジェクトについてのテレビ番組だって制作してもらったじゃないか(これもすごくない?)。でも…。テレビ番組出演はかなり恥ずかしかったし(ほんと最悪)、ベトナムとオーストラリアと韓国(たぶん南の方)でしか放映されなかったらしい。あーあ。あの本はまぐれの大当たりだったかもしれないし、ありえないことだったのかもしれないね。だから、僕ってやつは、いわゆる一発屋なのかもしれない(全然すごくない)。それに、あのプロジェクト、すでに四年も前だぜ! お前は今、何をやっているんだよ? お前はとっくの昔にピークを迎えて、すでに沈没気味じゃないか。お前がトースト食べて遊んでいる間に、仲間は博士号をとり、給料をもらいはじめ、キャリアを得て、人生上向きじゃないか。お前の最も長い付き合いの友達は、本物の医者だぞ! この前なんて、病人の胸腔きょうくうに手を突っ込んで、素手で心臓マッサージをするという英雄的試みを行って、人間の命を助けようとしたんだ。残念ながらその人は死んでしまったけれど、それでもすごいことだろ。そしてトーマスよ、お前は一体何をやっているんだ? …ええと、おいしいコーヒーを飲んでいる。年ばかりとっている(マイナス1)。白髪が増えた(マイナス10)。そして誰の命も助けていない。それはまるで、集団のトップあたりにいたってのに、アクセルから足を外しちゃって、待避所に車を停めてのんきに緑のにおいをかいで、周りを見まわしてみたら…。うわあビビった、後にいたヤツが、全員先に行っちゃったみたいな状況だ。突然、知っている人たちみんなが本気で仕事に取り組み、重要な仕事に就き、僕を追い越しはるか遠くに行ってしまった。そして僕の車はエンジンがかからない。ハマっちまった。暗くて、デカい穴にハマって、動けなくなったんだよ、僕は。

 ああまったく情けないなあ、トーマス。問題はお前なんだよ。こういう悩みは、いわゆる自己陶酔型のもので、本当に心配しなくちゃならない様々なことがらに比べれば、笑っちまうぐらいちっぽけなものだ。次の食事の心配をしなくていいんだから、ありがたいことさ。でも、それがどんな悩みだとしたって、僕の悩みであり、今となっては悩みの方が僕を心配するまでになってしまった。

 こんな浮き沈みする様々な心配事に、この地球上のすべての人も悩まされているのだろうか。いなくなったと思ったらまた戻って来て、手痛い目に遭わせたりするのか? 僕のおいっ子は四歳と少しだけれど、彼は死について悩んでいる(実際に死ぬことだけではなく、死が存在するということに悩んでいるのだ)。ママもパパも自分も、そしてすべての人が、いつか必ず死を迎える(それを知ったばかりだとすると、相当ショックな事実だ)。それじゃ、われらが女王はどうなんだろう。エリザベス女王の悩みってなに? 最も名誉があり、尊敬される人生を送っている人じゃないか。それなのに、彼女が不安に思うことってなんなのだろう? 伝統の重み? 後に続く王族への期待とか?

 もちろん、女王にだって悩みはあるさ。だって、人間の仕事は悩むことなんだから。

 でも、ノギン(犬)を見てくれ。そりゃ、あいつにだって好き(道路に落ちている食べ物)と、嫌い(留守番)はあるだろうし、近い未来に対する欲望もあるだろうが(あそこに行って、道に落ちているものを食べたい、とか)、ノギンに「悩み」があるとは、僕には到底思えない。ノギンと女王は、大まかな点で同じだ。食べ、眠り、排泄はいせつし、コミュニケーションを取り、道具を使う(相当なバカ犬のノギン自身が使うっていうんじゃない。ヤツのいとこにあたる犬が、テーブルを引っ張ってきて、脚立きゃたつとして使ったことがあるらしいよ)。それでも、ノギンと女王だったら、悩むのは女王だけだ。

ノギン(悩まない)
女王陛下(悩む)

 この事実から得た結果に基づき、何かについて悩むためには、まずはそれが起きるのか、起きないのかについて想像する必要があるのだとの考えに僕は行き着いた。これは、未来について心配するためには想像しなければならないということだ。今現在の僕は、将来について多くのことを想像している状態であり、そして今のところ、その本来なら実現可能な未来を想像することが難しいと思いはじめている。これは決して、僕自身の見通しの甘さだけが理由ってわけじゃなく、世界の未来がすごく危惧きぐすべき状況にあるからに違いない。ニュースを見れば、僕らの住む世界が非常にまずい状況になっていることは、はっきりとわかる。貧富の差はよりいっそう開いてきているし(どうか僕も金持ちの側にいけますように)、地球は六回目の大量絶滅期に突入しているし(僕のせいでもあり、君らのせいでもある)、生態系の危機は限界点に到達しているし、例のテロリストのヤツらも存在している。彼らは身の毛もよだつような殺し屋だが、多くの人間が彼らの活動に参加しているんだぞ! そこに気候変動が加わって、何もかも悪くなっちゃって、僕達はすっかり破滅状態だ。破滅さ。ほんと、心配なことは山ほどある。

 こういう人間特有の悩みっていうのを、数週間だけ消しちゃうって楽しそうじゃない? まさに、今その時だけを生きるんだよ。自分がしでかしちゃったことを悩んだりとか、自分が何をすべきかなんてことに頭を痛めるなんて、ヤメだ。社会だけでなく、文化や、それまでの生きかたなんてものから生み出される、束縛や期待からまんまとトンズラして、本能だけで生きるって楽しそうじゃないか? 自分の人間性に関する悩みからも逃げちゃうってどう? 世界中のややこしいことから少し距離を置いて、仕事から(もしあなたに仕事があったらね)、暮らしから、そして自分自身から、お休みを取っちゃわない? 人間をお休みしちゃうってどうだろう? 人間の世界のややこしい物事から逃げて、本当に必要なものだけで生きていく。文明のわなに陥ることや、複雑なものごとはすべて捨てちまえ。地球上を軽やかに歩き回るんだ。血まみれの苦しみなんて、おさらばだ。地球上の緑の植物から、喜びとともに栄養を得るんだ。身近な環境に同化し、少しの草を食べ、地面で寝る、それだけでいいじゃん? 山々を移動し続けること、それは自由だ! 少しの間、動物になれたら、すごくない?


 いやはや。ウェルコムトラスト(医学研究支援等を目的とする英国の公益信託団体で、僕の今回のプロジェクトに資金提供をしている)への申請書の返信メールの件名を見て、期待感はめちゃくちゃ高まった。「提出物のレベルはとても高かったのですが」とか、「注意深く検討した結果」なんていう、使い古された不採用のフレーズが見当たらないことも、僕は確認した。ほんの一分ほど成功の感覚を味わった後、ふと不安な気持ちになって、数週間前に提出した申請書の内容をもう一度読み始めたんだ。僕は一体、何をしようとしていたんだっけ? これはこれは。さすがの僕も引いたわ。

 僕がやりたいと言ったのは、人間の五百万年の進化を元に戻し、二足歩行から四足歩行に適応する外骨格を製作するということだった。そして同時に、草を食べて消化できるような人工胃腸を開発したいと希望していた。そのうえ、視覚、聴覚も適応させ、五感を一新するとした。そして経頭蓋けいずがい磁気刺激を使って、脳内の将来計画と言語中枢ちゅうすうのスイッチを切って、象の視点から人生を体験したいなんて書いちゃってるよ。そして、象の外骨格を身につけ、象になりきった僕が、アルプスを越えるんだってさ。

 まったく、僕ってほんとにバカだよな、こんな約束しちゃって。ハッタリに相手が乗っちゃったじゃん(マイナス1)。僕にはこのプロジェクトを最後まで推し進める力なんてないよ(マイナス1)。なんてったって下らないアイデアだし、意味もねえし、真面目まじめなプロジェクトでもねえよ(マイナス1)。がん治療のために寄付できたかもしれないお金を無駄にするのかよ(マイナス1)。アルプスの冬が終わるまでに、このプロジェクトをまとめるなんて絶対に無理だし、「トースター・プロジェクト」みたいにキッチン用品で四苦八苦して、それで満足してりゃよかったんだ。


でもさ、実現できたら、すごいことだと思うんだけどなぁ…。

次の回へ進む

イグノーベル賞受賞! 世界があきれた爆笑実験の数々!

 

ハロー! ぼくはトーマス・トウェイツ、33歳。いい年して父親と同居、銀行からも口座の開設を断られちゃった。仲間はキャリアを得て、人生上向きなのに、今の僕には何もない。そして、これから先も…。こういう人間特有の悩みっていうのを、数週間だけ消しちゃうってどうかな!? 本能だけで生きるって楽しそうじゃない!? 人間をお休みしちゃって、少しの間、動物になれたら、すごくない!?

全部本気マジでやってみた! 

四足歩行で歩きたい→ヤギを解剖して人の骨格との相同関係を研究!
草から栄養を摂りたい→草に含まれるセルロースを糖に変える装置を開発!
何も考えたくない→脳に電気ショックを与える(※よい子は真似しちゃダメ!)

世界があきれた爆笑実験の数々! 抱腹絶倒サイエンス・ドキュメント!

トーマス・トウェイツ、村井理子訳『人間をお休みしてヤギになってみた結果』

2017/11/1

公式HPはこちら

トーマス・トウェイツ

トーマス・トウェイツ

Thwaites,Thomas デザイナー。2009年、英ロイヤル・カレッジ・オブ・アートを卒業。大学院の卒業制作として行ったトースター・プロジェクトは「ワイアード・マガジン」「ボストン・グローブ」「ニューヨーク・タイムス」「王様のブランチ」など各国メディアで話題となった。

村井理子

むらい・りこ 翻訳家。訳書に『ブッシュ妄言録』『ヘンテコピープル USA』『ローラ・ブッシュ自伝』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『子どもが生まれても夫を憎まずにすむ方法』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『サカナ・レッスン』『エデュケーション』『家がぐちゃぐちゃでいつも余裕がないあなたでも片づく方法』など。著書に『(きみ)がいるから』『村井さんちの生活』『兄の終い』『全員悪人』『家族』『更年期障害だと思ってたら重病だった話』『本を読んだら散歩に行こう』『いらねえけどありがとう』『義父母の介護』など。『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』で、「ぎゅうぎゅう焼き」ブームを巻き起こす。ファーストレディ研究家でもある。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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