あれは黒川創の最初の本『〈竜童組〉創世記』が出版されたときだったろうか。とすれば刊行が1985年12月だから、たぶん翌年のはじめごろ、市ヶ谷の私学会館(現・アルカディア市ヶ谷)で出版記念のあつまりが持たれた。同志社大学を卒業した黒川さんが東京にやってきてまもない時期だったと思う。
 そこで私が祝辞かなにかをのべたら、人混みを縫ってバタバタ駆け寄ってきた鶴見俊輔氏(初対面か、それに近いころだった)がこういった。
「津野さん、あの本はだせません!」
 とっさのことで、なにをいわれたのかわからない。「は?」と聞きかえすと、
「梅棹忠夫は私の友人なんですよ。だから、あの本はだせないんです」
 その何年かまえ、私はある雑誌に「国家デザイナーとしての知識人」という梅棹批判の文章を書いた。鶴見さんの話によると、その文章をふくめて思想の科学社から津野の評論集をだそうと、編集部のどなたかが提案してくれたらしい。
 でもそんな事情はまったく知らなかったからね。だいいち、京大人文科学研究所以来の鶴見さんと梅棹さんとの親密な関係についてはとうに耳にしていたし、のちに読んだ鶴見さんの本(『読んだ本はどこへいったか』)にも、「私は梅棹と会ったことが京都へ来た最大の収穫と思っている」という1行がある。とうぜん私から「だしてください」などというわけがないのだ。
 それにしても、あのときの鶴見さんの勢いにはおどろいたな。あまりにもおどろいて、大きく目を見張ってこっちにバタバタ突進してくる人――という鶴見像が私の脳にしっかり焼き付いてしまったくらい。
 そしてもうひとつ、この鶴見像をいっそう堅固にした小事件をあげておくと。
 いまのできごとから8年ほどたった1993年に、鶴見さんの姉、和子さんの『きもの自在』という語り本を、藤本和子に話し相手になってもらって晶文社から刊行した。その縁で、国立小劇場で開かれた和子さんが属する一門の舞踊の会に招いてもらったときのこと。休憩時間にロビーで知人と話していると、やはり人混みを縫ってまっすぐ突進してきた鶴見さんが、私のまえでパタッと停止し、「あなたの連載はいいね」と大きな声でいった。
「ライプネス・イズ・オールだよ。人は50歳になっても変わることがあるんだな」
 あなたの連載とは、そのころ『思想の科学』ではじまっていた「歩くひとりもの」という私のコラムをさす。そして ripeness is all (成熟がすべて)は、よく知られたシェークスピアの『リア王』にでてくることば。
 で、こんどはすこしさかのぼって――。
 ある日、しばらくまえから『思想の科学』の編集にかかわるようになっていた黒川創から電話がきた。「青山南さんの連載が終わるので、そのあとを書いてくれませんか」という依頼だった。まえに『歩く書物』という著書があるから、こんどは「歩く読書」といった感じでというのが黒川さんの最初の提案で、「いいですよ。でも、どうせなら『歩くひとりもの』にしない?」というのが私の答えだったと思う。
 ――まもなく50歳というのに、いまだに結婚せず、たぶんこのまま年老いていくのだろうと思いさだめた男の、わびしい日々の感想をつづっていくとかさ。
 前任の青山南さんのコラムが、はじめて生まれた赤ん坊の楽しい育児日記のようなものだったので、向こうを張って冗談のつもりでそう答えたのが、思いがけず現実となって開始されたのがこのコラムだったのである。

『思想の科学』の連載をまとめた
津野海太郎『歩くひとりもの』思想の科学社、1993年、
書影はちくま文庫、1998年
 

――ははァ、いま鶴見さんが口にした「成熟」という語の底には、以前、私の梅棹批判文をむりやり読まされた鶴見さんの苛立ちのごときものがあるのだろうな。
 すぐにそう感じた。
 私のかつての梅棹論にまったく理がなかったとは思わない。でもそこに、すでにじぶんでも気づいていた梅棹さんの多面的な魅力をあえて無視し、狭くしぼって批判をいそいだ面があったのはたしかなのだ。おそらくそこに鶴見さんは「成熟」の反対にあるもの――「折衷性」をきらい「純粋性」にしがみつく偏狭な若さの残滓を見て、うんざりさせられたのだと思う。
 その純粋主義のまじないに雁字がらめになっていた男が、なんだか急に変わりはじめたように思える。それがこの「成熟がすべて」ということばになったのではないだろうか。
 もちろん鶴見さんが実際にそう考えていたというのではないですよ。
 むしろその10年ほどまえ、はじめて読んだ鶴見さんの青春の書『アメリカ哲学』で知った「マチガイ主義」の考え方(絶対的な真理などというものはない。私たちはマチガイを何度もかさねながら、マチガイの度合の少ない方向にむかってすすむのだ)に揺さぶられ、じぶんの「純粋主義=マチガッテハイケナイ主義」からどう抜けだそうかとジタバタしていた私の内心が、そういう解釈をひきよせたといったほうが正確だろう。
 それにしてもその変化を、こともあろうに「成熟」などという気恥ずかしいコトバでいってくださるとはね。そんなこと当時の私は考えてもいませんでしたよ。

 それ以前はともかく、私にとっての鶴見俊輔は、このころから徐々に黒川創という存在と分かちがたいものになっていった気がする。その黒川さんの『鶴見俊輔伝』が昨2018年11月に新潮社から刊行され、おなじ月、おなじ出版社から、この「最後の読書」連載の既発表分をおさめた私の本がでた。冒頭の1章が2015年になくなった鶴見さんの文字どおりの「最後の読書」についての感想。もとより偶然の一致なのだが、なんであれ、黒川さん、あれはうれしい偶然でしたよ。

シリーズ鶴見俊輔座談(全10巻)は1996年1月から毎月刊行された。書影は第1回配本の『日本人とはなんだろうか』、第8回配本の『民主主義とはなんだろうか』いずれも晶文社


 私が鶴見さんと立ち話以上の話をするようになったのは、90年代なかば、『鶴見俊輔座談』(全10巻)と『期待と回想』(上下2巻)を、あいついで晶文社から刊行したころからだった。70歳直前になった鶴見さんが「もうろく帖」という備忘録をつけはじめ、まもなく小脳梗塞や大腸癌で倒れたのが90年代前半だから、そのしばらくあと――つまり私の鶴見さんとのつきあいは氏の晩年の20年間だったことになる。
 そのかぎりでいうと、さきの「大きく目を見張ってこっちにバタバタ突進してくる人」イメージもそうだが、鶴見さんのふるまいにはいつも、どこか奇人めいて突拍子もないところがあった。
 たとえばこの時期、鶴見さんはそれまであまり触れようとしなかったみずからの少年期について、ようやく積極的に語るようになった。その語りの中心にあったのが、「まごうかたなき正義の人(マチガッテハイケナイの人)であった母に折檻されつづけ、それに抵抗して不良少年(マチガイダラケの人)になった」という、よく知られた物語である。
 ――よく知られた?
 と思いますがね。というのも私的な雑談の場だけでなく、書くものや、インタビューや講演や対談などの公的な場でも、この時期の鶴見さんは異様なほど情熱的に、これとおなじ物語を、おなじ口調で落語のようにくりかえし語るようになっていたからだ。しかも「ワハハのおじさん」式の明るい哄笑つきで。そうなるといきおい、お母さんのことはともかく、中学を放校された14歳の少年がバーの年長の女性といい仲になったなんて、どこまで本当にあったことなのかねと、眉に、いや耳たぶに唾して聴かざるをえなくなってしまう。
 そしてその点では黒川さんも同様だったらしい。
 2010年、黒川創を聞き手とするロングインタビューが、テレビ放映ののち、『鶴見俊輔みずからを語る』という DVD として、テレビマンユニオンから発売された。そこに、この「不良少年」問題をめぐって、あくまでも事実を追求してやまない黒川さんと、かれの追及をのらりくらりはぐらかす鶴見さんとの切迫したやりとりがでてくる。

黒川 10代のとき、生身の女性と接するのはどうやっていたんですか? 

鶴見 はじめはね、東中野にノンシャランというバーがあって、そこで昼間、酒を飲まないからプレーンソーダとか紅茶を飲んで……彼女とある程度の男女関係があったことはたしかだけど……。

黒川 男女関係といったって、実際には、どういうものだったんですか?

鶴見 まァ14歳15歳でも性行為はできるね。

黒川 相手はどういう人ですか? 女優さんとか?

鶴見 うーん、女給とか、水商売の人ね。

黒川 どこでするんですか? 女の人の家に行って?

鶴見 どこでって、(そのころ通った渋谷の)百軒店(ひゃっけんだな)あたりだったら、そういうところがいくらもあるんです。

 このあとも、バーに行く金はどう工面したのか、久我山に部屋を借りていたとおっしゃるけど、14歳の少年にそんなに簡単に貸してくれるものなのか、で、その部屋に彼女を連れこんだんですか?……などなど、その追及のしつこさに、親愛する俊輔翁あいてに、黒川さん、よくそこまでやるなァ、と感心した。

DVD『鶴見俊輔みずからを語る』テレビマンユニオン


 日ごろ鶴見俊輔は「私は自伝は書かない」と言明していた。その唯一の例外といっていいのが、さきにあげた『期待と回想』という語りによる思想的自伝なのだが、そのまえがきにこんな一節がある。「私の中で持続しているつよい偏見によって、私の出会った出来事がゆがめられていることもあり……」などとあって、

 私の側からの物語りは、自分の感情の系列にそうてはなす場合には主観をそのまま出すことになり、学問についてはなす場合には私の外にある実在との関係でテストできる側面をもっているが、そのどちらの場合にも、物語りであるという点では一つのものであり、両者は耄碌もうろくによる単純化をとおして合流しているように、読者としての私には見える。回想が自分の思いこみによって色づけられている傾向がつよくあるのは、私が偽学者であることによる。

鶴見俊輔『期待と回想』朝日文庫
 

 みずからの過去についての語り方には、どうなるかわからない未来にむけて迷ったり、気負ったり、さんざんまちがったりしていたときの「期待の次元」と、いま到達した段階に合わせて過去をすっきり変造してしまう「回想の次元」とがある。しかし、もうろくした偽学者であるところの現在の私は、そのあたりの区別があいまいになり、「私の側からの物語り」も「学問についてはなす場合」もひっくるめて、ともすれば「回想の次元」だけで語ってしまいがちなのだ。そのことはこころえているつもりなので大目に見てほしい。そういう意味なのでしょうな、これは。
 そして、もしそうだとすれば、ここでの黒川さんの追及のしつこさは、以前の『期待と回想』という思想的自伝では、もうろくゆえに「回想の次元」の外におかれてしまった「期待の次元」でのできごとを、いまのうちに、すこしでも掘り起こしておこうという意図があってのことだったのではないだろうか。

 この推測がかならずしも大きなまちがいではなかったことを、こんど私は『鶴見俊輔伝』の著者あとがきで知ることになった。そこにこんな記述があったからである。

 ……とはいえ、私は、これを書く過程で、関係者らに証言を求めて回ったりはしなかった。むしろ、そうした手法とは、ある程度の距離を保つことを意識した。そして、「事実」として扱う事柄の典拠を明らかにしながら、これを検証し、積み上げていくという方法を採っている。つまり、歴史学で言う一次史料と、それをめぐる史料批判を重く見た。
 さきに鶴見の方法として述べた、歴史における「期待の次元」と「回想の次元」の区別を明らかにしておく、という手立てに、ここで私自身も立っている。つまり、一〇歳の鶴見俊輔は、未来の彼がなにものになるかといったことは一切知ることなく、ただ生まれてから一〇年のあいだの知見だけを手に、そのときを生きている。伝記作家は、この彼を書く。同じように、一五歳の彼、二五歳の彼のことも、そこまでの知見だけに立っている存在として、書いていきたいと考えた。

黒川創『鶴見俊輔伝』新潮社
 

 あとでまた触れることになると思うが、子どものころから黒川さんは鶴見さんのかたわらに身をおき、鶴見さんの家族とともに死にいたる過程につきそった。
 したがって、そうした特権的な立場(だからこそあれほどしつこい追求ができたのだろう)を生かして、かれにしか書けない伝記を書くことだっていくらもできたはずなのだ。しかし黒川創はその方法をとらなかった。かわりに「歴史学で言う一次史料と、それをめぐる史料批判」という禁欲的な手法をえらんで、93年におよぶ鶴見俊輔の生涯を、そのときどきの「期待の次元」に即して客観的に再現してみようとこころみ、それをやりおおせたのである。
 そして、もっといえば、これはまた敗戦9年後の1954年に開始され、のちに『転向』全3巻としてまとまった共同研究で、リーダーの若い鶴見自身がえらんだ手法でもあった。
 戦中戦後の大変動期に、おおくの学者や文学者や政治家や宗教家が国家権力による強制や世間の空気に押し負けて、じぶんの思想を変えていった。この人びとの「転向」プロセスを当人へのインタビューに頼らず、いまも残っている史料を読みこむことによって――つまりは「回想の次元」ではなく「期待の次元」に徹することで、かれらの列伝集を編んだ。おそらく黒川創のうちには当初から、この転向研究の手法をひきつぎ、それによって鶴見自身の伝記を書こうという心づもりがあったにちがいない。
 もちろんその点ではさきの「不良少年」問題も例外ではない。
 晩年の鶴見さんの回想では、満鉄総裁や外務大臣を歴任した大政治家、伯爵・後藤新平の孫としてそだった俊輔少年の行状は、いつも「ワッハッハ」という陽気な笑いをともなう語り口のせいもあって、かなり誇張された、あえていえば小さな道化のように感じられてしまう。
 でも黒川創の本はちがう。かれの採用した「慎重にえらんだ典拠にもとづいて事実と見なせると判断した事柄を丹念に積み上げていく」手法によって、老人の回想につきもののもや(鶴見さんの自己分析はあまりにも明快なので、それが逆に事実をぼんやりとおおう靄になってしまう)がとりのぞかれ、そこに家庭でも学校でもうまく人間関係をきずくことができず、孤立のままに万引きや陰惨ないじめや授業放棄などの非行をかさねる、とことん暗い生身の少年がすがたをあらわす。
 しかも俊輔少年の行状は通常のレベルをはるかに超えてはげしいものだった。なかで印象にのこった箇所を二つあげておくと――。
 まずは鶴見さんいうところの「男女関係」――思春期の少年が否応なしに直面させられる「性欲」の悩みを、14歳の中学生だった俊輔少年は「女給とか水商売の人」との「性行為」によって正面突破しようとこころみ、そのことでかえって深みにはまってしまう。このいきさつを黒川創は史料によって淡々と跡づけ、そこから、「自分の存在に罪があり、胸を張って生きられないという感覚」(『読んだ本はどこへいったか』)にとりつかれた少年の息づまるような苦しみが、なまなましく浮かび上がってくる。
 そしてその一方で、短い期間ではあったが、中学を退校した少年は、両親に内緒で麻布にあった後藤一族の大邸宅のそと――渋谷・吉祥寺間を走る帝都線(現・井の頭線)の久我山にみつけた物置小屋をじぶんのこづかいで借り、ひとり暮らしをはじめる。「固形燃料で火を焚き、簡単な食べものを何か暖めて食べ、本を読んで暮らす」(『鶴見俊輔伝』)といった日々だったという。ただし「そこに彼女を連れ込んだり」はせず、ひたすら大杉栄訳のクロポトキン『革命家の思出』などの本を読んでいたというから、この小屋はいってみれば、じぶんの「罪」をじぶんで罰する牢獄みたいなものだったのかもしれない。
 こうして一方では年長の女性たちとの情事、他方ではボロ小屋での目に障害がでるほどの集中的読書、しかもそれに前後して2度の自殺未遂と3度の精神病院への入院を繰りかえしていたというのだから、この14歳の少年の生がいかに極端で異様なものだったかがわかるだろう。
 この本に当時の鶴見家の家族写真がおさめられていた。
 父の鶴見祐輔を中心に、母と姉、幼い妹と弟――そしてその端に黒い背広にネクタイをしめた俊輔少年がふてくされた姿勢で映っている。そのカメラを睨む反抗的な目つきがものすごい。この不穏な目つきに日ごろの行状がかさなれば、困りはてた父親が15歳になった息子をアメリカに送りだす決意をしたのも、しごく当然と思えてしまうぐらいのものなのだ。
 ――なるほど、ようやくわかりましたよ、鶴見さん。のちにあなたが「私は不良少年だった」「悪人だった」と繰りかえし大声で語っていたのは、あれはただの誇張表現ではなかったのですね。(この項つづく)


 

黒川創『〈竜童組〉創世記』亜紀書房、1985年/ちくま文庫、1988年
黒川創『鶴見俊輔伝』新潮社、2018年
津野海太郎「国家デザイナーとしての知識人――梅棹忠夫論」『新日本文学』1982年6月号
きもの自在』晶文社 、1993年/ちくま文庫、2016年
鶴見俊輔『読んだ本はどこへいったか』潮出版社、2002年
鶴見俊輔『アメリカ哲学』世界評論社、1950年/こぶし書房、2008年ほか
鶴見俊輔『期待と回想』上下、晶文社、1997年/朝日文庫、2008年
鶴見俊輔・黒川創『鶴見俊輔みずからを語る』DVD・テレビマンユニオン、2010年
思想の科学研究会『共同研究 転向』上中下、平凡社、1959~62年/東洋文庫版、全6巻、2012~2013年