私が二十代だった頃、といえばもう四十年もそれ以上も昔になるが、当時、大人の間でも若者の間でも、「経験、経験、経験だ!」ということが盛んに言われ、それに煽られるかのように海外へ出かける日本人の数も年々鰻上りになっていた。戦後二十年が過ぎて、日本経済は急速に右肩上がりの活況を呈し、その象徴が昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックであり、四十五年の大阪万博だったのだが、敗戦からの二十年、身も心も重く閉ざされていた冬がようやく去り、待ちかねた春がきた、そういう時代の機運が、これからは何でもできる、しなければ損だとなり、何でもかんでも経験しておいた奴の勝ち、経験してさえおけば得することもある、という風潮を生んで、それが「経験、経験、経験だ!」という合言葉にまでなっていたように思う。そうやって誰も彼もが目の色を変えていた。
そんなある日のことだ、小林秀雄先生のお宅を訪ねて応接間で待っていると、先生が入ってきて言われた。
――困ったもんだね、みんな経験ということを履き違えている……。
私が着くまでの間、テレビを見るか新聞を読むかでもしていられたのだろう、そのテレビに映るか新聞に載るかしていたのだろう。
――経験だ、経験だと言って、近ごろの日本人はぽんぽん外国を飛び回る、ころころ仕事を変える、恋愛にしてもそうらしいな、目移りばかりしている……。
そして、しばらくおいて、言われた。
――経験とは、数の問題ではないのだ。正岡子規は、ずっとひとつところに寝たきりだったのだ、あれを経験というのだ……。
知られるとおり、正岡子規は、俳人、歌人である。生れは四国の松山だが、明治十六年(一八八三)に上京し、政治家、哲学者、小説家などを志したものの思いを遂げるに至らず、明治二十五年、詩人となることを決意して俳句の革新運動を起し、三十一年には「歌よみに与ふる書」を書いて短歌の革新に着手、さらには写生文による文章革新運動を展開して近代文学の扉を大きく押し開けた。
しかし、それらの活動は、ほぼすべて結核との戦いのなかで行われた。明治二十一年、突然喀血、二十二年五月、二十六年二月にも喀血、二十八年四月、日清戦争に従軍記者となって赴いたが、五月、帰国の船上で喀血、そしてその年十月以降、病床に臥す身となった。脊椎カリエスであった。俳句、短歌、口語文と、今なお息づく日本人の情操生活を創ったとまで言っていい子規の文学活動は、身動きもできない脊椎カリエスの病床で行われたのである。
その傍ら、というより並行して、随筆風に病床記を綴り、死の前年、三十四年一月からは社員として籍をおいていた新聞『日本』に「墨汁一滴」を発表しはじめ、死の年の五月からは「病牀六尺」を連載、これらと併せて「仰臥漫録」を手控えとした。その「病牀六尺」「仰臥漫録」はいま岩波文庫で読める。次から次と襲う激痛、そのたびごとの絶叫、号泣、自殺の衝動、いずれも健常人の想像を絶する。「仰臥漫録」から引けば次のような容体だ。
――腸骨の側に新に膿の口が出来てその近辺が痛む、これが寝返りを困難にする大原因になって居る。右へ向くも左へ向くも仰向けになるもいずれにしてもこの痛所を刺激する、咳をしてもここにひびき泣いてもここにひびく。……
――繃帯(ほうたい)は毎日一度取換える。これは律の役なり。尻のさき、最も痛く、僅かに綿を以て拭うすらなお疼痛を感ずる。背部にも痛き箇所がある。それ故繃帯取換は余に取っても律に取っても毎日の一大難事である。この際に便通ある例で、都合四十分乃至一時間を要する。……
「律」は、子規の実の妹である。「病牀六尺」の最後の回が『日本』に載ったのは明治三十五年九月十七日であった。翌十八日、子規は律らに助けられて筆を手にし、画板に貼った唐紙に書きつけた、――「糸瓜(へちま)咲て痰(たん)のつまりし仏かな」、痰を切り、「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」、一息入れて、「をととひのへちまの水も取らざりき」……。その後、その日、昏睡に陥り、翌十九日午前一時、三十四年の生涯を閉じた。
……これが、小林先生の言われた「子規の経験」である。しかし、注意が要る。子規のこの闘病は、子規にとってはまさに凄絶な経験であったが、先生は、その闘病の凄絶さを知れ、激痛、絶叫、号泣に思いを致せと言われたのではない。先生が言われる「子規の経験」とは、子規が七年もの間わずかに六尺、ということは畳一枚ほどの寝床に臥し、そこから外には一歩も出ないでその場に身を置き続けた、そのことである。
つまり、小林先生の言われる「経験」とは、何年も何十年も同じ場所に身を置き、来る日も来る日も同じものと交わり続ける、その時間の長さと交わりの深さである。子規は、七年かけて、自分の身体と交わった。そうすることで、自分の命のかたちや目方を感得した。それが、「病牀六尺」「仰臥漫録」からまざまざと読み取れる。子規は、一日一日、そういう「経験」を積んで、俳句、短歌、文章の革新に身体を張ったのである。
小林先生に、「物質への情熱」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第2集所収)という文がある。昭和五年(一九三〇)十二月の発表であるから、「様々なる意匠」で文壇にデビューして一年すこし、二十八歳の文である。その「物質への情熱」は、こういうふうに始まる。
――正岡子規に「歌よみに与ふる書」という文章のある事は誰でも知っている。そのかたくなに、生ま生ましい、強靱な調子を、私は大変愛するのだが、読んでいて、病牀に切歯する彼の姿と、へろへろ歌よみ共の顔とが、並んで髣髴と浮んで来るには少々参るのだ。……
その最後は、こう言う。
――「足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石の如し。僅かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫、女媧氏未だこの足を断じ去つて、五色の石を作らず」(子規、「病牀六尺」百廿五)と。見事な言葉である。これこそ作家の勇躍する物質への情熱だ。……
「足あり、仁王の足の如し……」は、死の五日前に『日本』に載った文である。自分の足は腫れに腫れて仁王様の足のようだ、自分の足とは思えない、他人の足のようだ、大きな岩石のようだ、指でちょっとふれただけでも天地が震動し草木が泣き叫ぶほどの痛みが走る、女媧もこの子規の足を切り取ってはくれない……の意である。「女媧」は、中国の伝説に出る人頭蛇体の女神、天の支柱が折れて空が崩れようとしたとき、五色の石を練って空の割目を繕い、大亀の足を切って天の支柱にしたという。
小林先生の言う「経験」とは、こうして子規のように長年じっとひとつところにいて動かず、そこでおのずと胸中に湧き上がる直観、認識によって敢然と事をなす、それであった。しかも、子規が身を置き続けたところは自ら望んだ場所ではなかった、運命に強いられた場所であった。先生は、昭和十年九月、三十三歳で書いた「新人Xへ」(同第6集所収)ではこう言っている、――確かなものは覚え込んだものにはない、強いられたものにある。強いられたものが、覚えこんだ希望に君がどれ程堪えられるかを教えてくれるのだ……。「物質への情熱」の五年後である、あるいはこの言葉も、子規の「経験」を念頭において言われたのかも知れない。
そういう「子規の経験」の前では、あちらこちらと飛び回り、あれやこれやと手を出し、誰彼かまわず友達になる、そんな連中の「経験」は、とても「経験」と呼べるものではない、なぜならそこには、たとえば子規の俳句のように、短歌のように、後世に残る何かを生みだすのに必要な知識や体験、それらが熟成して人知を超えた力となるだけの時間がかけられていないからだ……、昭和四十年代の日本を見て、先生はそう言いたかったのである。
あれからほぼ五十年、平成現代の若者諸君の間ではどうなのだろう。「経験だ、経験だ」は鳴りをひそめているのだろうか、それとも、ネットやスマホの時代となって、また別種の意味を帯びて幅をきかせているのだろうか。
(第二十一回 了)
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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