アーティストとは、 「働く友情」を育むことにしている vol.3
著者: 考える人編集部
世界50カ所での開催を試みる「ロバートフランク展」が、ついに東京でも11月11日から開催だ。世界で11カ所目、すべてがボランティアの手による展示だというから驚いた。そのプロデュース準備に来日していたゲルハルト・シュタイデル氏に、展示への情熱とロバート・フランクへの思いを聞いた。
――どうやって利益を生む本とそうでない本のバランスをとっているのでしょうか。
バランスは考えていません。一冊の本の製造コストがいくらかなんて私は知りたくないんです。だって、何が高いか高くないかは、カンに頼るとしか言いようがないでしょう。最初から製造コストばかりを心配していたら、質の高い本を作るのは到底無理です。私の中に住む「内なるアーティスト」は、砂場で遊ぶ子供と同じで、余計なことは考えたくないんですよ。砂場で遊ぶ子供が「遊ぶのにいくらかかるかな」なんて考えずにひたすら遊ぶのと同じです。
この複雑な市場で45年もの間やってこられただけでも、幸運なことですね。すべては、ビジネス上のカンで、本能的な判断です。ビジネスや金策について会議なんてしたこともありませんし。
最初に聞かれた、「シュタイデル」の変化について話を戻すと、最近、展示会が増えたことも変化のひとつです。本作りと展示は似たところがあるんです。白紙に向かってレイアウトを考えるのは、ある意味では、本の形で展示をするようなものです。
本は、家に持ち帰れるプライベートギャラリーとも言える。そう考えると、美術館やギャラリーの白い壁に向かって、何を掛けるかレイアウトを考えるのはとても楽しいんです。ふだんの仕事の延長線上にあるんです。
現在、世界中で年間およそ20の展示会をキュレーションしています。場所をロケハンし、セッティングし、オープニングスピーチやカクテルパーティをまとめるのは、楽しいことです。「シュタイデル」と仕事をするアーティストにとっても展示は意味があります。ビジュアルブックを出す(打ち合せや印刷もゲッティンゲンのシュタイデル社で行う)ためにゲッティンゲンにやってくるアーティストについては、展示も刊行と合わせてやれば効率がよく、コスト削減にもなります。
――日本でも展示を手がけていらっしゃいますね。
日本では2016年6月に、東京でポーランド人写真家の展示をやりました。トマシュ・グゾバティ (Tomasz Gudzowaty)はポーランド出身のドキュメンタリー写真家で、製造中止になった、「Polaroid TYPE 55」の展示会を開いたのですが、好評でした。
「Polaroid TYPE 55」は、写真撮影時の確認のための副産物と認識されていたインスタント写真で、普通はそのまま捨ててしまう事が多いのですが、ISO50と感度は低いものの、現像の手間を省いてネガが手に入るので重宝されたんです。すでに生産は中止となっていますが、8×10のラージサイズで、大判カメラを使う写真家たちに愛用されていました。時間とともに化学反応を起こして予測不能な形で変化していく部分に繊細な芸術があるため、このアナログプロセスの美を披露しました。写真集のタイトルは『PROOF』です(プルーフとは、証拠、ゲラなどを表す英語)。
世界ツアーの始まりです。東京からスタートして50カ所で、2017年3月末まで世界をツアーしていきます。
――そしてついにロバート・フランク展ですね。
<11月11日から写真家ロバート・フランクの写真と映像作品を中心に紹介する展覧会が、東京・上野の東京芸術大学で開催される。タイトルは「Books & Films, 1947-2016」。世界50カ所で、シュタイデル社がボランティアでプロデュースしている世界ツアーで、各地の教育機関などと組み、利益を追求しない姿勢だという。東京展では、東京藝術大学の学生が重要な役割を果たしている。カタログは、ドイツの日刊紙「南ドイツ新聞」の特別エディション。定型のフォーマットで再生新聞用紙に印刷されておりドイツから直送された。世界中でおよそ5ドル、東京展では500円(税込で540円)という低価格で販売されている。>
――展示を始めたきっかけを教えてください。
フランクの作品への関心は若い世代の間でも高いのに、見られる機会はどんどん少なくなっています。オリジナルプリントを展示するとなると、ビンテージプリントですから、抑えた照明で1日数時間しか見せられないんです。予算を考える前に所有者がダメだと言う。そして、保存の観点から海外に行くことはなく、アメリカのみでしか見られない。フェルメールやゴッホの展示と同じようになってしまいました。
でも、あれだけすばらしいフランクの作品から、若者が離れてしまうのはほんとうにもったいない。そこで、利益のためではなく、ボランティアで一切を行う事にし、無料にして誰でも見られるようにしました。
展示は、写真を、アクリルインクジェットで新聞紙に印刷して、3×4メートルのバナーとしてテープやピンで壁に留めました。「南ドイツ新聞」の協力を得て、日刊紙に使う新聞紙以外の、特別な場合に使うプレミアム紙のあまったものを使わせてもらっています。カタログについても、新聞紙をリサイクルして低コストにしました。また、巡回展ではなく、印刷は毎回行い、それぞれの空間に柔軟に対応して開催することにしたんです。ですから、どこの会場でも、最終日になると、壁から展示物を降ろして必ずすべて古紙として破棄することにしています。だれもなにも持ち帰ることはできません。展示作品に市場価値はないものとするんです。だれもが気取らずに彼の作品を見ることができる。それがフランクの望みですから。
――展示の打ち合せに参加させていただきましたが、無駄のない充実したものでした。
東京藝大はとても伝統的な大学だと聞きますが、学生たちはオープンでとても優秀ですね。日本での展示は、東京藝大の学生がボランティアでやってくれることになり、今日以外にも、過去に2回のミーティングをしており、一緒にやれてうれしいです。
展示自体はロバート・フランクと、私というヨーロッパ人の目線によるものですが、彼らには彼らの考え方があって、今回は、別の日本文化の視点を持つことができています。すでにドイツやアメリカなど10カ所で行ってきましたが、欧米以外の国では初めてです。今回初めてやったことで、次の展示でも続けたいアイディアがあります。紙の後ろからビデオ・プロジェクションを投影させることですが、これがすばらしいんです。展示の構造もすばらしく、紙の繊細さが伝わってくるものですし、鉄のフレームも、展示内容のシンプルさに合っていて完璧です。
――日本と欧米の違いでいえば、縦書きと横書きでしょうか?
そうなんです。そこはとても大事で、上手く変形させないといけません。そういった違いは、考え方にも及ぼす事だと思います。大事なことです。
――ロバート・フランクについてお聞きしたいのですが。いつもどんな気持ちで彼とは会うのでしょう?
彼自身は、90歳を超えても(1924年、スイス生まれ)いまだ少年のような人で、毎日新しいアイディアを思いつくんです。だから、彼は過去を振り返って懐古的になるようなことはまったくなく、いつも前を向いていて創造的です。私が彼に会うときは、というよりも、私はアーティストや作家に会うときに、誰であれ友情といった個人的な感情を抱かないようにしているので、休日に会ったりバーに出かけたりということはありません。だから、ロバートとも、いうなればいつも「働く友情」(ゲルハルトは「working friendship」と言った)を感じるんです。一方で、友好的に一緒に働く環境が長年続いていて、これは仕事に効果的です。彼は私の働き方を知っているし、私は私で、彼の創造性ややり方を熟知していますから。
彼と初めて会ったのは、スイスの「SCALO(スカロウ)」という出版社でした。日本で1972年に最初に発売された『The Lines of My Hand 私の手の詩』(邑元舎刊。限定1,000部で、デザインは杉浦康平氏、編集は元村和彦氏)、英語タイトルが『The Lines of My Hand』という作品のヨーロッパバージョンが、この出版社から出ていたんです(ほかの彼の作品の刊行も手掛けており、ニューヨークにギャラリーを開くなど、一時代を築いた)。シュタイデルで、SCALOの印刷をすべて手掛けていたこともあり、ロバートは、私に会いに行った方がいいと助言を受けたようで、1989年に初めて私のところにやってきました。最初は『The Lines of My Hand』の印刷のためでしたが、その後数限りなく一緒に仕事をするようになりました。
その初めて会った時の印象は今も変わりません。彼はなにをすべきか、しなくてはいけないかをわかっていて、妥協すべきところはするし、新しいアイディアにもオープンで柔軟です。
――ボランティアですべて展示をやっていらっしゃいますね?
本の出版の延長にあり、実験でもあるからです。自分の心を開いて、別のプロジェクトに心を向けると分野が広がり、アイディアがわいてきます。こういった実験的な仕事というのは、「パンの上に載せるバターと塩」です。自分の世界を広げてくれるものだから、ボランティアでいいんです。
――この後の展示の予定は?
12月にオーストリアのザルツブルク、1月に上海、2月にアメリカに出かけてバークレー、3月にはモスクワでやります。その後も続いて、来年は10カ所で開催されると思います。50カ所を終えるまで、あと4年間は続くでしょう。ドキュメンタリーをその後まとめて作ります。
ロバートもこの展示のことをとても嬉しく思ってくれていて、スイスでやったときは、「これは人生でやった中でいちばんいい展示だ。90歳になったのはこれを見るためだったんだね、こうして、自分のアイディアの理想の形が実現されるのを90年間待っていた気がする。元気になったよ」って言ってくれましてね。スイスは彼の出身地で1年に一度休暇で必ず出かけるそうで、5月のオープニングに来てくれたんです。彼とまさにその場で話ができたのは幸せなことでした。
To be continued
(text and photographs by Kangaeruhito,Maho Adachi)
<シュタイデルニュース>
10月某日、シュタイデル氏は来日し、「Steidl Book Award Japan」(第8回The Tokyo Art Book Fair)の応募作品540点ほどを、一堂に並べて審査を行った。一挙に、しかも丹念に見るシュタイデル氏。
結果は最終候補者8人の全員受賞!
それぞれの刊行と同時にひとつの箱におさめて「ジャパニーズ・ボックス」として売り出すことも考えたいとのこと。来年の秋の刊行を目指すそうで、今から楽しみだ。
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考える人編集部
2002年7月創刊。“シンプルな暮らし、自分の頭で考える力”をモットーに、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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