フランスの漫画、バンド・デシネ(BD)が元気です。二〇一二年に亡くなった巨匠メビウスや鬼才エンキ・ビラルに続く新世代の作家たちが活躍しています。
今号の特集でも、個性あふれるBDが二作品登場します。M=A・マチューの不条理冒険譚『夢の囚われ人』は、主人公が夢から目を覚ますシーンが唐突に現れ、夢の話だったことを知らされます。場面展開の合図なのですが、いったいどこからが夢だったのだろう? 読者は最後まで煙に巻かれるのです。起承転結が当然というストーリーマンガへの挑戦のようで、夢の荒唐無稽さが迫ってくる展開がとても新鮮でした。
もう一つのBD、スクイテン&ペータース『闇の国々』は、壮大なパラレル・ワールドを描きます。原正人さんのエッセイにあるように、歴史や建築デザインの知識によって設計された世界には、重厚さが漂います。
BDは線画の美しさと書き込まれた哲学を読み味わう作品といえるでしょう。ひとコマの情報量がずっしり重いところに、BDの魅力があります。世界観が深く、哲学が緻密に敷き詰められているので、読者は時間をかけて情報のシャワーを浴び、作品の世界、登場人物の人生に吸い込まれてゆくのです。読みながら、脳がフル回転しているように感じます。
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脳研究者の池谷裕二さんに、興味深いお話をうかがいました。睡眠中、脳は猛スピードで記憶を再生し、保存しなおす定着作業を進めています。この「記憶の再生」が夢です。でも、夢の本質的な役割はほかにある、無意識の深い眠りが「ひらめき」を生むというのです。とはいえ、「ひらめき」は過去の記憶の延長線上にあり、何もないところからは生まれない――記憶の再生=夢は、実は創造的な行為につながっているのでした。
飛躍と創造――もしかしたらBDを読んでいる感触は、夢を見ているときに近いのではないでしょうか。特集で取り上げた以外にも、老いを描く『皺』や、七〇年代ニカラグアの革命を語る『ムチャチョ』などおすすめです(邦訳あり)。きっとあなたの脳を、そして眠りと夢を刺激してくれることでしょう。
私たちは自転する地球の上に生を享け、昼と夜、陽と陰が対をなす世界に暮らしてきました。昼と夜の間で、振り子のような動きを繰り返しながら、一日の三分の二を昼の世界の論理で、残りの三分の一を夜に生きる生物として、いうなれば「昼の夢」と「夜の夢」をともに追いかけながら生きてきたわけです。
しかし、現代社会ではともすると、太陽の論理がまさり、夜は劣勢に立たされてしまいます。昼の活動が夜の時間帯を侵食し、眠りの領域を圧迫するのです。かくいう私自身が「慢性睡眠不足患者」のひとりであり、「睡眠負債」を溜め込んでしまっているのが現状です。
夜があり、眠りがあり、そして夢見ることが、地球上の生物に与えられた創造と自己回復のための条件であるにもかかわらず――。
古来、眠りと夢をめぐる文学には、多くの名作があります。近代以降に限っても、夏目漱石『夢十夜』、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』、川端康成『眠れる美女』、安部公房『笑う月』、プルースト『失われた時を求めて』、そしてカフカやボルヘスの短編など……。
「眠れなくなって十七日めになる」というのは、村上春樹さんの『ねむり』の主人公です。彼女はその間、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を何度も読み返しながら、昼はいつものように暮らします。眠れないということを除けば何も変らない毎日です。ところが、いつの間にか肌には艶が生まれ、若返ってきたことに気がつきます。あたかも幽体離脱するかのように現実世界から自分自身を解放し、別の空間へと人生が拡大していくのを実感します。さらには奥まった小さな部屋の扉を開けて、自分だけの不思議な暗い世界へと導かれていきます。
作家が目覚めながら夢見るように(夢を見るために目覚めるように)、主人公は日常の壁を抜けて、未知なる自分に出会いに行きます。『ねむり』は「めざめ」の物語です。
今号では、私たちもその扉の前に立ち、静かに中へ入ってみました。子どもの頃に抱きしめていた眠りや夢。昔の人たちが物語ったその神秘性。科学が解明する本質や根源、さらなる謎――。夜の奥深い世界を探訪しました。
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考える人編集部
2002年7月創刊。“シンプルな暮らし、自分の頭で考える力”をモットーに、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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