2018年の帰国時、チケットを予約した瞬間からわたしはツレに宣言していました。「今回の血糖値はすべて『オ・グルニエ・ドール』で消費するから」。
カガク的に正しい表現でないことは承知していますが言葉の意味は理解していただけるでしょう。実際、決意というか意気込みというかは我ながらすごいものがありました。桜の時期のフライトをめざし1月後半から約2ヶ月、甘いものに目のないわたしが砂糖をほぼ断ってシュガーレベルをできる限り低く抑えたくらいです。
西原金蔵シェフ率いるパティスリー・オ・グルニエ・ドールは京都が、いや日本が誇るフランス菓子の名店。それがその春17年の幕をおろすことになっていました。予てよりシェフが公表されていた通り、65歳の誕生日に。前々回イギリスから帰ってきたときご本人にマニフェストの履行を確かめてあったので躊躇なく金蔵詣を開始。結局週一ペースで洋菓子のエスプリを結晶させた奇跡の味覚を堪能させていただきました。
本当は、もう少し足繁く通いたかったんですけどね。最後のひと月は万博の月の石か石油ショックのときのトイレットペーパーを求めるひとたちのような行列ができていました。差し入れ(お好きらしいので和菓子)だけ置いて帰ったことも。
それでもオープン当初からの誼で、いろいろ便宜は図っていただきました。まずはわたしとツレとの20周年記念ケーキ。ファン有志のみなさんが御つくりおきをオーダーしてくれたのです。日本に戻るたび30人ほどの集会を開催するんですが、そのなかにはそもそも西原シェフを紹介してくれた方も混じっているので、迷惑を承知でお願いすることにして快く了解いただきました。
普段こちらで誕生日などのお祝い菓子を注文すると、チョコレートでメッセージを書いたプレートを載せたサンバの女王、カーメン・ミランダのターバン(carmen miranda turbante)みたいなフルーツてんこ盛りのケーキが定番。今回はちょっと特別だからさぞかしド派手なタルト・フリュイが登場するだろうなーと想像していたのですが、それはいい意味で裏切られました。
オペラ。オペラだ。巨大オペラ。一人サイズに切り分ける前の丸ごとオペラ。初めてみました。
チョコレート、オレンジリキュールのシロップを染ませたビスキュイ・ジョコンド生地、ガナッシュ、モカのバタークリームを7層に重ねた銘菓。フランス菓子を代表するケーキのひとつだから当然オ・グルニエ・ドールでも開店当初から扱われていました。そして売り切れ率も常に一、二を争っていました。ゆえにいつでも食べられるわけではなく馴染みのケーキではありましたが、いまだに対面するとテンションがあがります。
聞けば、オペラにしましょうと提案してくださったのは西原シェフ御本人だったそうで、もはやツレとの20年なんかどうでもいいところに吹っ飛んじゃった(ひどい。笑)。「覚えててくれはったんや」と思いました。件のファンの方に連れてっていただいた初回に食べたオペラに感激して書いたエッセイが収録された本(『京都人だけが食べている』)を進呈したのが〝響き合った〟始まりだったからです。
味の具体的な説明や甘ったるい形容詞を一切省き、近代製菓史の符号と、西原シェフがこの古典的ケーキにプラスした小豆粒の存在価値について考察した短文を喜んでくださったとのちに人づてに教わってたいそう感激したものです。わかりやすい客寄せの文章じゃなかったのに。
お店をしまわれるこのタイミングで、わたしのお祝いの席に提供してくださったお菓子がオペラだったのは、あの文章に込めた気持ちを忘れていませんよというメッセージだと考えるのはうがちすぎでしょうか。プライベートのつきあいがあったわけではないけれどシェフのケーキは折々にわたしの人生を彩ってくれました。まるでここのオペラに散らばる小豆のように。
この日の特製はおめでたい席ゆえ薄いチョコレートの花や唐草で職人技の極致みたいなデコが施されていましたが、通常は天辺になにがしかの金色を置くだけで装飾のない四角いケーキ。オペラ座の建築を模して考案されたと言われますが、パリの洋菓子店「ダロワイヨ」の元祖をいただいたとき、その削ぎ落された潔さが花鳥風月をミニマルに表現する和菓子のようだと感心しました。
ところで西原シェフのもうひとつのスペシャリテも建築物に由来してるんですよね。建築家イオ・ミン・ペイがデザインしたルーブル美術館のガラスのピラミッドにインスパイアされた同名のケーキがそれ。
この落成記念パーティーの料理をサービスしたのはアラン・シャペル。当時のフランスには錚々たる料理人が犇めいていましたが、氏は「料理界のダ・ヴィンチ」と呼ばれていましたからルーブル=モナ・リザってこともあって選ばれたんでしょう。で、西原シェフは当時この三ッ星レストランの製菓長を務めていました。間近に観るピラミッドの美しさは忘れがたく創造の動機となったという話でした。
が、ちょっとフランス料理史を知る者ならば、この命名がいかに勇気のいることかが判っていただけるでしょう。「ピラミッド」というのはリヨン近郊ヴィエンヌにあるレストランの名前でもあるからです。
料理人だけに限らずフランス人にとってこの店のシェフであるフェルナン・ポワンという人は特別な存在。ポール・ボキューズ、トロワグロ兄弟など。あまたの三ッ星シェフを輩出。アラン・シャペルもピラミッド出身です。この名をケーキに冠するというのは、それこそ和菓子に「利休」と名づけるようなもの。形がピラミッド状だというだけでは決して与えてはいけない名称なのです。まして西原シェフがそれを解らないわけはない。
ポワンの言葉に、こういうのがあります。曰く「素晴らしい食事は交響曲のように調和がとれていなければならない、ロマネスク様式のように構築されていなければならない」。わたしがオ・グルニエ・ドールのピラミッドをいただくとき、いつも感じていたのは現代建築的な美もさりながら、まさにこのロマネスク建築の古雅玲瓏でした。たとえばパリならばサン・ジェルマン・デ・プレ教会の塔なんかを思い出していました。
リヨン周辺地域にはいまも聖モーリス教会や旧聖ランベール教会など数多くのロマネスク寺院が残っています。ポワンの言葉の背景にあったのは、それらの幽玄な建築群だったでしょう。装飾過多に傾きつつあったフランス料理の皿上風景をロマネスクのあとにくるこてこてのゴシック様式に擬えての皮肉も混じっていたかもしれません。西原シェフのピラミッドはまさしくポワンが愛したシンプリシティの優美です。
それにしても、こういう流れというか水筋というか――京都式にいうならまさしく【ご縁】――の連鎖にはしばしば驚かされます。ポワン→シャペル→西原のご縁が機能して遂にはピラミッドのごとき銘菓が誕生するわけですが、そういう余禄はないもののオ・グルニエ・ドールの17年以前にもわたしはずいぶんシェフと交差しているんですよ。さっき「人生を彩る」なんて大袈裟な物言いをしたのもそれがあるからです。
これははっきり断言できませんがわたしが「アラン・シャペル」で食事をしたのは丁度パティシエをしてらした88年。それ以前にもシャペルの神戸ポートピアホテル支店で働いておられた80年代半ばにはずいぶん食べに行かせてもらいましたから、きっとデセールを口にしているはずです。件のピラミッドが生まれたのは90年代頭の資生堂パーラー「ロオジエ」で総製菓長を務められていた頃なので、やはりここでも楽しませていただいた可能性が高い。
もちろんオ・グルニエ・ドール閉店は淋しいです。ちょっと迷子になっちゃうような心細さすらある。しかし、西原シェフからいただいてきた彩りがすっかり消えてしまうわけじゃないのもわたしは知っています。つまりは先ほど述べたような流れがあるから。そのクリエイションは姿を変えながらも澱むことなく続いてゆくのです。
今回の閉店は新たにふたつの潮流となりました。
ひとつは「パティスリーナンポルトクワ(pâtisserie N’importe quoi)」。シェフの息子さん、西原裕勝さんがオ・グルニエ・ドールの向かいにオープンされる店。
シャペルを始めレストランで供される食後のデセールを作ってこられたお父様とは異なり、裕勝さんはパリの「ピエール・エルメ」など王道を本場で学んでこられた経歴をお持ちです。同じケーキを製作しても依って立つ文法が違う。いかなる洋菓子を「なんでもあり」という名の店で食べさせていただけるのか愉しみでなりません。
もうひとつは「ラ・クラシック(La KLASSIQUE)」。西原シェフの元で12年間勤めてこられた加藤雅也さんが出されるお店。
「彼にはね、僕の味を全部教えてある。僕だけだったらいいんですが、僕が教わってきたシャペルさんや、そのシャペルさんが教わってきた先人の味がそこにはあるわけで、もちろんすべてではないけれどそれらを引き継いでもらうことになってます」。そう話しておられたシェフの嬉しそうな顔。店の名前にも決意が表れている気がします。どんなに惜しまれても公約を翻さなかったのは彼のような右腕があったからでしょう。
ただ、ただそれでもやはりわたしはオ・グルニエ・ドールで出会った味覚を夢想します。その記憶はこれからの人生でもきらきら瞬くでしょう。古くなるほど酒は甘くなると申します。過去の幸福はいつだってより甘美なものです。それがスイーツの想い出であればなおのこと。
テイクアウトの定番は木の実のタルトでした。朝の〝おめざ〟としても最高だった。日保ちもしたので何度もお土産に使わせてもらいました。シェフが研究を続けておられた「生果実を使ったケーキ」の最高峰、日向夏のタルト。完成したその日に偶々居合わせていたわたしにマダムが「自信作です!」と出してくださいました。どこそこ産の高級品ではなく量産品のKIRIのを使用したレアチーズケーキも印象に残っています。西原シェフはなんの偏見もなく素材に向き合う人でした。
そういえば、わたしが生まれて初めてお願いした御つくりおきはケーキでしたね。京都で最初に【リアル】なフランス菓子を、それこそパリの街角にあるパティスリーみたいなスタイルで売りだされた「童夢」。あるとき、まだ当時は珍しかった様々なドライフルーツの到来ものがあって、持て余した挙句にシェフの本川恵子さんのところへいきなり持ち込んだのでした。
焼きあがったケーキをほおばったときの感激は未だ鮮やか。いまにして思えば御つくりおきという行為そのものの悦びを象徴するみたいな味でした。ああ、マルセル・プルーストが「失われた時を求めて」の冒頭で記憶の触媒としてマドレーヌを用いたのはこういうことか。
関連サイト
パティスリーナンポルトクワ(pâtisserie N’importe quoi)
https://www.facebook.com/Nimportequoi2018/
ラ・クラシック(La KLASSIQUE)
https://www.facebook.com/La-Klassique-195582931042823/
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入江敦彦
いりえあつひこ 1961年京都市西陣生まれ。多摩美術大学染織デザイン科卒業。ロンドン在住。作家、エッセイスト。主な著書に、生粋の京都人の視点で都の深層を描く『京都人だけが知っている』、『イケズの構造』『怖いこわい京都』『イケズ花咲く古典文学』や小説『京都松原 テ・鉄輪』など。『秘密のロンドン』『英国のOFF』など、英国の文化に関する著作も多数。最新刊は『読む京都』。(Photo by James Beresford)
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
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