2008年には6人の田中宏和集会に増加
1994年にはじまった田中宏和同姓同名収集活動は、2003年に初めて別の田中宏和さんと出会い、一大転機を迎えた。30年を迎えようとするタナカヒロカズ運動史において、第一次ビッグバンと呼ぶゆえんである。
次のビッグバンに至るまでは、一年に一人ずつのペースで増えていった。まず二人の同姓同名の出会いが、朝日新聞の「こだわり会館」コーナーの館長、荒俣宏さんの目に留まった。こだわっている人を毎回取り上げるのだそうだ。
自他共に認める「収集家」の荒俣さんは、古今東西の稀覯本や福助の人形、深海魚まで集めておられる。「いろんなものを集めている人は知っているけれど、同じ名前を集めている人は珍しい」とご推薦を受けたのだ。期待に応えねばなるまい。せっかくだから朝日新聞にもう一人の田中宏和さんを紹介してもらおう。1999年の年賀状で取り上げた、「ポケットモンスター」の主題歌を作曲者たなかひろかずさんに会いたい。
しかし、お相手は田中宏和の中で最も有名な田中宏和さん。もちろん二人の田中宏和で、まるで面接を受けるかのような心持ちで会社を訪問した。まずは三人で名刺交換の儀式から。「田中宏和です」「田中宏和です」「田中宏和です。うれしい」
「今日のために『田中宏和のテーマ曲』をつくろうかと思ってたんですよ!」
ほっとした。なんと話が早い。さすが作曲家、ゲーム音楽界のマエストロ!
その思いは、5年後、わたしが作詞をすることで実現する。
2004年のご新規の田中宏和さんのあだ名は「作曲の田中宏和さん」となった。
2005年には、「WEB制作会社経営の40歳の田中宏和」との自己紹介をメールでいただいいていた田中宏和さんを加え、4人の田中宏和集会が実現した。
あだ名は「WEBの田中宏和さん」と決まり、「田中宏和のホームページをつくりましょう」との渡りに船のご提案を受け、田中宏和.comのウェブサイトが年末に立ち上がった。「田中宏和運動」のホームページと名付けた。
わたしは、ホームページのトップを飾るべく、意気揚々と「田中宏和宣言」を書き綴った。
(前略)
スローガンは、
『地球上の田中宏和さんたち! エンジョイ!!!』
そんなことで、
なにかの因果でこのページを発見してしまったみなさま!
「田中宏和情報」をお待ちしています。
田中宏和運動の情報受発信の拠点が出来上がった。
2006年3月、5人目の田中宏和さんからのメールを受信、他の3人の田中宏和さんとも日程調整をし、ニューヨーク出張から戻ってきたばかりの田中宏和さんを迎えて、5人で第4回田中宏和集会を行った。名刺でレコード会社にご勤務とわかり、あだ名は「レコード(仮)の田中宏和さん」に。(仮)としたのは、CDの時代に古めかしいからという理由だったが、
16年後の2022年にはアナログレコードの価値が再発見され、アメリカではCDの売り上げを再逆転することになるとは当時とても予想できなかった。そろそろ(仮)は取っても良い気がする。
この時、田中宏和だけの宴会もはじめて行った。そのセッティングについては、工夫を凝らした。
メールのやり取り段階で、新しい田中宏和さんについての詳しい個人情報を尋ねることは憚られるので、どこから田中宏和さんが参加しても良いように東京駅付近とした。信頼性を高めるために、東京駅に近い、「作曲の田中宏和さん」のオフィスに集合とし、懇親会の会場は、ベジタリアンでも、肉食オンリーでも何かしら食べやすい中華料理店にしよう。低額の中華のコース料理(飲み放題付き)を個室の円卓を囲んで食べた。全員が一体感を持って、気兼ねなく、心ゆくまで楽しめる演出である。
この田中宏和集会スタイルは、長く続くことになる。
2007年には田中宏和運動のシンボルが必要だと思い、アートディレクター秋山具義さんに田中宏和ロゴの開発をお願いした。漢字も同じ「田中宏和」は末尾が「ズ」で複数形なので、「S」と組み合わせて考えてもらえますかとオリエンテーションした。
力強く、お洒落な田中宏和ブランドロゴがこれだ。
2008年の田中宏和集会は、6人となった。日本人なら誰もが知っているだろうお菓子メーカーの社員の田中宏和さんだ。お勤め先の代表的なお菓子ブランドの有名なキャッチコピー「やめられない、とまらない」から「やめとまの田中宏和さん」と呼ぶことになった。
せっかく田中宏和ブランドロゴができたのだから、オリジナル商品を作りたくなるのが人の性だ。ラルフ・ローレンもYOHJI YAMAMOTOも人の名前ではないか。ポール・スミスにいたっては同姓同名が多そうだぞ。
「やめられない、とまらない」田中宏和運動としては、まずはブランドロゴを前面にあしらったオリジナルTシャツを作り、ホームページで売り出してみた。
なんとさっそく2枚購入の申し込みが入った。「妻がペアルックにしたいと申しております。」とメールをくれた大型新人「社労士の田中宏和さん」とは、翌年会うことになる。
2009年、田中宏和運動第2次ビッグバンが起きる
毎週金曜日の深夜0時40分〜、V6がMCを務めるT B Sテレビの番組『新知識階級クマグス』からメールをもらった。「クマグス」とは、南方熊楠からのタイトルで「ひとつの分野を極めるために人生の全てを捧げる、いわば『新知識階級ともいうべき研究者』を指す造語」らしい。ラーメン、生島ヒロシ、混浴温泉、ジェットコースターなどなど特定の趣味を究めた人をゲストに呼んでいて、「一度、『田中宏和さん』を探す事について田中さんにお話しを聞いてみたくメールしました」とある。
ならば、「ちょうど1週間後に今年の田中宏和集会を行うから、カメラを持って取材にきたらどうですか」と返信してみた。
場所は市ヶ谷に引っ越された「作曲の田中宏和さん」のオフィスに。この日は、Tシャツを買ってくれた唯一の顧客の「社労士の田中宏和さん」と映像作家の「映像の田中宏和さん」が初参加となり、「やめとまの田中宏和さん」は、「当日、急に上司に業務を命じられた」とご欠席で7人の田中宏和集会となった。
番組で取り上げることが決まったので、スタジオ収録になり、後日、V6の面々とご対面した。
もちろんジャケットの中には田中宏和Tシャツを着用し、興が乗ってきたところでジャケットを脱ぎ、メンバーへのプレゼントとして6枚の田中宏和Tシャツを渡した。もはやテレビ出演で恥ずかしがってはいられない。田中宏和さん情報収集のチャンスだ。
「あなたにとって田中宏和とは?」の質問には、「自分に一番近い他人」と堂々と答えた。
収録の模様は、6月19日に「No.49 田中宏和クマグス 田中宏和」としてオンエアされた。
Googleの検索急上昇ワードでトップテン入りも果たした。
「ルパン三世」「金曜ロードショー」「財津和夫」「安藤美姫」などに混じって8位にランクインの快挙である。これが今日的に話題になるということか。結局、この番組には都合6回出演することになった。収録のスタジオでV6メンバーに会うたびに、岡田准一さんから「田中宏和Tシャツ、着てますよ」とか、井ノ原快彦さんから「田中宏和さんは何人になりました?」とか、声をかけていただいたのは本当に心強かった。V6には足を向けて寝られない。
おかげさまで放送後から多くの田中宏和さん情報がメールで寄せられ、すぐに東京中日スポーツの記者から取材依頼が来た。
「『名前』という、本人の意志とは関係なく授かったものを、こんな風に楽しむというのは、まさに『人生を楽しむ』ことに直結するのではないか、と感銘を受けました」
新橋の喫茶店で会った記者は、田中宏和運動の面白さ加減を実によく理解されていた。「お土産があります」と、社内の記事データベースで「田中宏和」を検索してきましたと結果を出力して来られた。東海地方を中心とする7人の田中宏和さん情報が手際よく次々と繰り出され、頭の血流が沸騰しそうになった。
記者によると、「名前負け同盟」というような、ネットのコミュニティがあると言う。初耳だった。「名前負け」については、幼い頃から家元や老舗が多い京都の家庭でよく用例を耳にしていた。「○○はんとこの後継ぎ、名前負けしてはるな」つまり、京都名産の「いけず」な批評語としてである。しかし、「名前負け」で「同盟」とは、どういうことか。
例えば女性で「美」という漢字が入った名前の場合に、「自分は美しくない」と卑下してしまう「名前負け」。その名前がゆえに卑屈な真情を吐露しあうことで生まれる連帯感がコミュニティを支えているのだと言う。
「田中」は、名前負けしない。できることなら名前負けするくらいの名前でありたかった。でも、普通な名前のおかげで、名前で遊べている。「名前負け同盟」で繰り広げられているであろう会話を想像するに暗澹たる気持ちになった。それ、続くのかな? お互いに嫌であることだけを確認するだけの場にいたいと思うのかな。
一方、われわれは同じ名前を背負わされた運命をともにする同盟として、この人間関係を楽しむ場にできている。記者が関心を寄せてくれた理由がわかった気がした。
さらに記者は別れ際にこんなエピソードを話してくれた。
「実は、ぼくが新入社員で県警番の記者だった時代に、50過ぎた男性が、自分の名前がずっと気に入らなかったと、父親を殺害した事件に遭ったんです。そこまで人を駆り立てる名前って何だろうって、それから気になっているんです」
戦慄した。命名が理由で起きた親子殺人事件。世界の神話やギリシア悲劇には父殺しの題材はよくある。しかし、名前がその動機とは初めて聞いた。自分たちは名前で人生を楽しんでいるのに、名前のせいで父を殺す息子。その半世紀もの間、恨み辛みを溜め込んだとは。衝動的な殺意を名前のせいにしたのではないか。そう思ったのだが、2000年に起きた事件は、親が命名した漢字が難しい上に、読みが女の名前みたいだと思い続けた息子が、大人になって一度は改名したものの、やはり「人生がうまくいかないのは名前のせいだ」と80近い父親を包丁で刺したという。懲役14年の判決を言い渡した裁判長の判決理由を聞いた息子は、自分に与えられた名前の価値を初めて知り後悔したそうだ。
名前は、人の命にも等しいものなのではないか。よく親が子にできることは、名前をつけることくらいだと言う。しかし、子どもへの命名は、名前に託した意味もしっかり子どもに伝え、自分の名前に誇りをもって堂々と生きる後押しまでしないと、子どもにとっては親を殺める原因にまでなる。迂闊に独りよがりな自分の思い、わかりにくい意味だけで名づけてはならない。名前とは、名付け親を殺すほどに人を束縛するものなのだ。
この記者とは以来、最古の田中宏和運動の番記者として今もお付き合いをしている。
ともあれ「いろんな田中宏和さんがいても、誰ひとり同じ人はいない。人って生きているだけで個性的だと分かった。」とまとめてくださった取材は、7月に紙面記事となった。駅のキオスクで買って車内で広げたら、記事の大きさに目を見張り、思わず周りをキョロキョロして新聞を閉じた。
「集まれ!! 田中宏和」の見出しが強烈過ぎる。
オリジナルソング『田中宏和のうた』をリリースする
同じ7月の熱帯夜の23時過ぎ、ふと「田中宏和は田中宏和と会う」という歌詞が、まさに降りてきた。でき上がるまでものの5分。
田中宏和のうた
自分で選んだわけじゃない
気づいた時には呼ばれてた
田中宏和は田中宏和を知る
同姓同名 世界にたくさん この世界にひとり
田中宏和 この名前で会いましょう自分が見つけたわけじゃない
同じ名の人呼んでいた
田中宏和は田中宏和と会う
同姓同名 世界にたくさん この世界にひとり
田中宏和 この名前で集まろう自分で求めたわけじゃない
同じところに呼ばれてた
田中宏和は田中宏和と集う
同姓同名 世界にたくさん この世界にひとり
田中宏和 この名前を続けよう
この名前で会いましょう
「作曲の田中宏和さん」に、「学校の校歌のようなオリジナルソングをつくりたい」という想いも添えて、歌詞を送信した。
その後も取材依頼が続き、次に朝日新聞の社会部記者からも依頼が来た。せっかくなのでご新規の田中宏和さんを呼んで、急きょ田中宏和集会を開催して取材を受けよう。
9人目の田中宏和さんは、電機メーカー勤務で営業職、売っているのは工業用のランプだという。
「では、『ランプの田中宏和さん』でお願いします。これで田中宏和だけの野球チームをつくれますね」
この日に合わせて、作曲の田中宏和さんが『田中宏和のうた』のデモをつくって、ラジカセで聞かせてくれた。ゲーム音楽と通じる愉快なポップチューンに拍手喝采だ。
『田中宏和のうた』の歌詞の抜粋とともに紙面記事になり、朝日新聞のTwitterでもフィードされ、はじめてTwitterのダイレクトメッセージにご新規の田中宏和さんからの「はじめまして」の連絡を受けることになった。
2009年10月に代々木のレコーディングスタジオに集まったのは、11人の田中宏和さん。ご新規は3人。「田中宏和」が胸焼けするほど多くなってきた。ここからは、もうあだ名だけで紹介する。
「理科さん」は、理系の研究者で「理科」が名前に含まれる名門研究所に所属の博士号ホルダーだった。「レーザーさん」は、まさにレーザー機器を売っているお仕事にちなんで名付けた。Twitter経由で連絡をくれたのは、「エンジニアさん」。Java言語の著作もある凄腕プログラマとして、現在も田中宏和運動をIT面からしっかり支えてくれている。
せっかくのオリジナルソングのレコーディングなので、1986年にグラミー賞を受賞したチャリティソング『We Are The World』のようなミュージックビデオをつくりたいと、「映像さん」に制作をお願いした。レコーディングのディレクターは、もちろん「作曲さん」。指示にしたがって、まずは合唱の練習、続いて合いの手を入れる田中宏和さんとそのパートを録音。11人の田中宏和での合唱を録音した。
当日は中国四川省への出張のため参加できなかった「ランプさん」も含めて、レコーディング費用を12人で均等割りとし、全員が原盤権を持つということにした。やり直しを経て完成した『田中宏和のうた』は、ラフな躍動感が加わったグルーヴに満ちていた。さすがプロフェッショナルの仕事だ。
着うたやiTunesなどの音楽配信サイトで販売、「作曲さん」の知名度のため海外の音楽サイトから英語でのインタビュー取材も受けた。
念願の田中宏和だけの貸し切りバスツアーを決行する
次なるチャレンジは、いつか実現したかった田中宏和だけの旅だ。長野県在住の二人の田中宏和さんに会いにいく、田中宏和だけの貸し切りバスツアー企画をTBS『新知識階級クマグス』のスタッフに相談したら、「それは面白いから協力しますよ」となった。
2009年12月12日の土曜日の朝、新宿西口に集合。
行き先は、信州は須坂の田中本家博物館だ。館長は、田中本家十二代当主の田中宏和さんだ。
道中は、サロンタイプの後方座席で途切れぬ雑談に興じた。
「このバスが崖から落ちたりしたら、しゃれにならないですよね」「ニュースの扱いは、9人の田中宏和さん行方不明。警察は身元の確認を急いでいる。」「遭難も避けたいですね」「田中宏和さん(9人)が遭難。捜索本部では、訪れた家族の混乱を治める対応に追われている」「警察の検問にあっても、説明がややこしいよね」
あっという間に4時間経過で、田中本家博物館に到着。敷地3,000坪に建ち並ぶ20の土蔵の壁も迫力があり、一行は、江戸時代にタイムスリップした。
こちら田中本家の起源は、享保18年(1733年)に遡る。初代新八が、須坂藩の御用達の商売をはじめ、名字帯刀を許される大地主へと成長。三代と五代は幕末には士分として藩の財政に関わる重責も果たし、その財力は須坂藩をも上回る北信濃屈指の豪商となったと言う。そのため博物館のキャッチフレーズは「豪商の館」。
上品で快活、当主の風格がありながら物腰柔らか度ナンバーワンの田中宏和さん。あだ名は「豪商さん」に即決した。
一行は、須坂藩の藩主に供されたという「やまどりのお雑煮」をいただきながら殿様気分になり、「ここは自分の土地であり、すべて自分の持ち物なのだ」と一日館長気分で勘違いしながら、館長の「豪商さん」から説明を受けた。
「近世の正倉院」と呼ばれるという衣装、漆器、陶磁器など素晴らしい展示品のひとつひとつも「自分の物」に見えてくる。田中本家の家訓は、「忠孝第一・堪忍・慈悲・正直を専らに、世とよくおし移り、云々」これは田中宏和運動の理念にしたいと思った。
ご自宅の畳の間に10人の田中宏和は移動し、全員で「同姓同名」の習字にもトライした。
実際『クマグス』のオンエアでも、オリジナルソング第一弾と第二弾の『名前さえあればいい』の2曲を歌い上げる一行の様子が紹介され、全員から拍手喝采の大好評となった。V6メンバーから「いい曲!」「歌いたい」との声が挙がるほどだったが、それは実現することなく、グループも解散になってしまったのは残念だ。
その後も、このオリジナルソング創作欲はとどまることなく、『同姓同名ガンボ』『田中宏和音頭』と合計4曲の制作にいたった。
バスツアーの帰り道には、長野県佐久市の田中宏和さんのところへ。指定された地元の信州蕎麦の名店にバスを止めると、家族4人で手を振って出迎えてくれた。なんと全員にご実家で収穫されたりんごの手土産を用意して。すんなり、あだ名は「りんごさん」と決まった。
「りんごさん」の奥様は、われわれを見て、ずーっと笑いつづけていらっしゃる。変なキノコでも食べたのかなと心配になるくらいに。
前日に初対面した「豪商さん」は、奥様に「こちら全員田中宏和さん。あなたの旦那さんですよ」とにこやかに紹介され、一方それを受けた館長夫人はとても怪訝な顔をされていた。たぶん不気味だったのだと思う。名前が同じというだけの特殊詐欺集団がやってきた。それくらい訝しがられてもおかしくない、尋常でない事態だ。しかし、りんご夫人の場合は、自分の旦那が急に10人に増えたように思えて、あれこれ想像したら面白さが止まらなくなったのではないか。わたしが、この田中宏和の一人と浮気でもしたら、この人を何て呼ぶんだろう。もしその浮気が旦那に見つかったら、なんと説明するのだろう、とか。
われわれが集団行動すると、思わぬところで、思わぬツボで、非=田中宏和さんたちに非日常の体験をさせてしまうのだ。そんな学びのあった貸し切りバスツアーのあとには、新たな集団行動が待っていた。
(次回に続く)
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田中宏和
コミュニティ・ディレクター/クリエイティブ・ディレクター。一般社団法人「田中宏和の会」代表理事(通称「ほぼ幹事の田中宏和」)。国際同姓同名連盟(International Same Name Association)共同設立者。東北ユースオーケストラ事務局長。 渋谷のラジオ・プロデューサー兼『渋谷のタナカヒロカズ』MC。ほぼ日刊イトイ新聞『田中宏和同姓同名観測所』で長期連載中。著書『響け、希望の音〜東北ユースオーケストラからつながる未来〜』(フレーベル館)、共著『田中宏和さん』(リーダーズノート)、編著『くらしのこよみ 七十二の季節と旬を楽しむ歳時記』(平凡社)など。1969年京都市木屋町生まれ、東京都渋谷区在住。Twitter:@tanakahirokaz Instagram:@tanakahirokaz
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 田中宏和
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コミュニティ・ディレクター/クリエイティブ・ディレクター。一般社団法人「田中宏和の会」代表理事(通称「ほぼ幹事の田中宏和」)。国際同姓同名連盟(International Same Name Association)共同設立者。東北ユースオーケストラ事務局長。 渋谷のラジオ・プロデューサー兼『渋谷のタナカヒロカズ』MC。ほぼ日刊イトイ新聞『田中宏和同姓同名観測所』で長期連載中。著書『響け、希望の音〜東北ユースオーケストラからつながる未来〜』(フレーベル館)、共著『田中宏和さん』(リーダーズノート)、編著『くらしのこよみ 七十二の季節と旬を楽しむ歳時記』(平凡社)など。1969年京都市木屋町生まれ、東京都渋谷区在住。Twitter:@tanakahirokaz Instagram:@tanakahirokaz
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