田中は京都に掃いて捨てるほどいる
わたし、田中宏和は、昭和44年、1969年の1月21日に京都市に生まれた。生家は、南北に走る木屋町通り沿い、二条通りと御池通りの間にあった。
小学校時代は、街全体が遊び場だった。全国的には警泥(ケイドロ)と呼ばれることが多いらしい鬼ごっこは、地元では泥巡(ドロジュン)と呼んでいた。いざはじまると、通りだけでなく、木屋町通りの東西を挟んで流れる高瀬川や鴨川に入って逃げまわったり、時には空中戦にもなる。家からよじ登って軒を連ねる屋根伝いに歩いて飛んで、御池と二条の間を追いかけたりもしたものだ。さらにこの地域の特徴として、多数の狭い路地(「ろおじ」と発音する)が東西方向にありながら、「通り抜けられる路地」と「通り抜けられない路地」がある。この遊びにおいて重要なのは、路地が通り抜けられるかどうかを把握しておくこと。自然と街並みの表札や屋号の看板を気にすることになる。子供ながらに思ったのは、周りに「田中」が多いな、である。確かに1学年1クラス50人学級には、二人は「田中」がいた。それが男女だったりすると、「夫婦?」とからかわれた。同級生には「白波瀬」という和歌にも詠まれそうな風情のある名字や、「北條」という将軍と同じ名を持つ女の子もいたし、街中には「冷泉」だの「近衛」だの「大徳寺」だのと、やんごとない苗字もあるのに、よりによって自分は「田中」。「元田中」という地名があるくらいだから、「田中」が多いのは当たり前か。
母の瑞子は、「田中」の名字を「百円均一で売っているような名前ですねん」「石を投げたら田中に当たる」というように自虐的な笑いに変えて説明するのがうまかったが、子供にはその余裕は無い。その表現、さすがにどうかと思ったのは、「田中は京都に掃いて捨てるほどいる」だ。
この「田中」に組み合わされたのが、「宏和」である。「カズヒロ」と間違えられやすい。「ヒロ」ってどんな字と聞かれる。しかし、「宏」の字は、小学校では習わない。「宏」は、「広い」の意味だとわかると、「田んぼの中で、広く平和を願っております」とは、日本的そのものではないか。
とりわけ「日本のものはおしなべてダサい」という雰囲気の80年代に洋楽を聴く思春期を送っていた身には辛かった。普通過ぎる上に、格好悪い。自分の名前が嫌いだった。
一方、母はそれなりの感のある「浮田」から「田中」に変わった自分の名字を嫌っているようではなかった。家から歩いて行ける「京の台所」、錦小路に数々の食の専門店が並ぶ中、出汁巻き卵専門店の「三木鶏卵」と「田中鶏卵」は一軒挟んで隣同士、そして母はもともと頑なな三木派だった。しかし、わたしが中学に上がり同級生に「田中鶏卵」の娘さんがいると知り、田中派に転向。これは意外だった。保護者会で話して、名前が同じというだけの親近感がそうさせたのか。「田中」つながりだけで買い物の習慣を変えるほど共感できるのかと強く印象に残っている。今では気分で選んでいるようだ。
鶏の絵で高明な伊藤若冲が生まれた錦市場で巻き起こる出汁巻き卵の戦いはさておき、京都における「田中」のボリューム問題に戻る。
大学入試の共通一次試験の時に事件は起きた。初日の午前中の科目を終えたタイミングだった。試験会場の京都大学の大教室の入り口に見知った男が現れた。高校で3年間同じクラスだった玉田だ。声から体から何からナニまでがデカイ奴。その空気を読まないガサツさが苦手な人もあれば、チャームポイントと思う人もいた。総じて憎めない野郎だ。
きょろきょろしているかと思いきや、わたしと眼が合うなり「たぁーなかぁーーーっ!」と手を振りながら叫びやがった。その時、200人はいたであろう教室の大半が、自分のことと思って視線をその発声源に向けたのだ。席割りが五十音順だったのだろう。すぐ脇の方で、ぽつり聞こえた「この教室、田中が多いな」の呟きとともに、くすくすと笑いがさざ波のように広がっていった。
今から思えば、きっと自分の前後の席には「田中宏和」がいただろうに、惜しいことをした。
なにしろ、その時には同姓同名の存在なんぞ意識していなかった。中学生の時に近所の渡辺医院の受付で、「田中さんと同じ名前の患者さんがいてはりますえ。名字も名前も一緒の人が一人いはりますよ」と聞いた記憶がうっすらあるだけだ。
近鉄バファローズからドラフト1位指名される
そのまま大学時代を過ごし、劇的に白鳥家に養子に入ることもなく、「田中宏和」という名前で1991年に就職した。新入社員の自己紹介写真で、会社至近の料亭「米田中」(現在はない)の看板を背景にし、「凡庸な名前には工夫が必要です。」とコメントを書き添えたことをよく覚えている。180人くらいの同期に「田中」は3人いた。しかし、「佐藤」も3人いた。全国一の「佐藤」の存在感をはじめて身近に感じた。
「田中」は誰もが読めるし、覚えてもらいやすいが忘れられやすくもある。同期の田路圭輔は 、新人研修でまわった部署の自己紹介の挨拶で、先輩社員から「変わった名前だね」と言われ、「僕も正直自分で読めませんでした。」と飄々と答え、大爆笑を取っていた。そんなひねりが「田中」には微塵もない。
凡庸名前人生の最中、歴史的事件は向こうからやってきた。1994年秋のプロ野球ドラフト会議。
「第一回選択希望選手 近鉄 田中宏和 投手 桜井商業」
23時からのフジテレビ『プロ野球ニュース』で、そのアナウンスを聞いた瞬間、雷が我が身に落ち、血液が逆流するような喜びを感じた。小学生時代は、毎日のように鴨川の河川敷で野球に明け暮れたものだ。行く河の流れは絶えずして、流れゆく水没ボールを追いかける時間のほうが長かった、そんな昭和の中途半端な野球少年にとっても、プロ野球でドラフト1位指名は夢! 夢がついに叶ったような、この勘違いと思い込みが、すべてのはじまりだ。名前が同じというだけで、他人の人生を生きられる気分がするとは、何だか面白いぞ。
しかも、雷は続けざまに落ちてきた。1ヶ月ほど後、文芸誌『文学界』の新年号をめくっていたら、書籍広告が眼にとまった。
『文芸読本』田中宏和 ¥二〇〇〇
田中宏和の本『南方熊楠 ラビリンスのクマグス・ランド』¥一五〇〇も好評発売中
プロ野球選手にも、敬愛する南方熊楠研究者にもなっていた。この同姓同名現象は、愉快過ぎるぞ。
この瞬間、わたしは同姓同名運動家となった。年賀状のネタにしたのは1995年のことだ。ちょっとしたアイデアと軽はずみな行動力。この一枚の年賀状が無ければ、なにも生まれなかっただろう。
1996年の年賀状は、94年の書籍広告で見つけた「著者の」田中宏和さんをモチーフにした。文面は、このようになった。
あけましておめでとうございます。
昨年の賀状で紹介した、私を「クニ田中さん」と分類していた家族経営の洗濯屋さんは、残念ながら都の区画整理のため潰れてしまいました。それからは、別の近代的なクリーニング店にお願いしています。一つ一つの衣類にバーコードを付ける間違いのない店です。そう思っていた矢先、私のズボンが行方不明になりました。問い詰めると、店員さんから「マル田中さんだから・・・」とのつぶやき。「またしても!」の思いで、尋ねたところ、田中には、マル、シカク、サンカクなどいくつかの分類が行われているとのこと。店員さんにとって、私は「マル田中」だったのです。「田中間違い」はこれからもきっと起こり続けます。そして、同姓同名「田中宏和」間違いすら、起こります。
1997年の年賀状は、前年の思いも寄らぬ出来事がネタになった。
96年から差出人として住所のみ表記し、名前は記さない年賀状にしてみた。ま、本文に嫌というほど「田中宏和」と書いているのだから、誰からだかわかるだろうという思いであった。田中宏和にしかできない挑戦だ。
そして、石の上にも3年ではあるまいが、この同姓同名年賀状シリーズも周りに定着してきた。すると、田中宏和情報が入るようにもなってくる。
もはや、田中宏和同姓同名収集のアニュアルレポートと化した年賀状。郵送先の人たち全員が、田中宏和大捜査網の一員状態。
朝、出社すると後輩からいきなり「テレビに出てましたよ!」と声をかけられる始末。もちろん出ていたのは、自分ではない田中宏和である。
2000年は、田中宏和情報不作の年だった。Windows95以来、インターネット検索が急速に普及していたが、ネットでの「田中宏和」エゴサーチは禁じ手にしていた。周りにも好評で続けてきた同姓同名年賀状シリーズもそろそろ潮時か。
そんな年も暮れて12月14日、母から訃報が入った。おじいちゃんの浮田七朗さんが米寿を迎える直前に亡くなったのだ。子供の頃は月に一回将棋を指す相手として家に来てくれるのが楽しみだった。急きょ母方の実家に向かい、送り出す棺を担いだ時に思った。来年は喪中葉書を出して、また同姓同名シリーズを続けるかなと。
たぶん、このお世話になった祖父の死がなければ、タナカヒロカズ運動は生まれなかったはずだ。
2001年は、新世紀の始まりとともに、ネット検索を解禁した。Googleに触れて、未来がここにあるとゾクゾクしたことをよく覚えている。この流れに逆らう理由は無いと確信した。
そこで生まれた21世紀初の2001年の年賀状だ。
この頃から、元旦になると家族から「今年の田中宏和年賀状は?」と楽しみにされているという声を聴いたり、前年に奥様を亡くされた会社の先輩コピーライターから「うちは喪中なんだけど送ってくれる?」と言われるようになっていた。
2002年は、会社の同期から「田中宏和の家を見つけたぞ!」との通報を夏に受けた。なんでもお子さんの通う幼稚園の前に「田中宏和」の表札を掲げた豪邸があると言う。ということは、その豪邸に赴き、ネクタイでも締めて礼儀正しくドアホンをピンポンし、名刺でも差し出しながらご挨拶すれば、田中宏和さんとの未知との遭遇が叶うということではないか。結局ピンポンする前に「取り壊されて、田中駐車場になっていた」との悲しい知らせが届いたが、ここで引き下がっては、シリーズは続かない。ことの顛末を翌年の年賀状にすることにした。
この後、思わぬことから、田中宏和さんとの対面への道が開かれることになる。
(次回に続く)
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田中宏和
コミュニティ・ディレクター/クリエイティブ・ディレクター。一般社団法人「田中宏和の会」代表理事(通称「ほぼ幹事の田中宏和」)。国際同姓同名連盟(International Same Name Association)共同設立者。東北ユースオーケストラ事務局長。 渋谷のラジオ・プロデューサー兼『渋谷のタナカヒロカズ』MC。ほぼ日刊イトイ新聞『田中宏和同姓同名観測所』で長期連載中。著書『響け、希望の音〜東北ユースオーケストラからつながる未来〜』(フレーベル館)、共著『田中宏和さん』(リーダーズノート)、編著『くらしのこよみ 七十二の季節と旬を楽しむ歳時記』(平凡社)など。1969年京都市木屋町生まれ、東京都渋谷区在住。Twitter:@tanakahirokaz Instagram:@tanakahirokaz
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 田中宏和
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コミュニティ・ディレクター/クリエイティブ・ディレクター。一般社団法人「田中宏和の会」代表理事(通称「ほぼ幹事の田中宏和」)。国際同姓同名連盟(International Same Name Association)共同設立者。東北ユースオーケストラ事務局長。 渋谷のラジオ・プロデューサー兼『渋谷のタナカヒロカズ』MC。ほぼ日刊イトイ新聞『田中宏和同姓同名観測所』で長期連載中。著書『響け、希望の音〜東北ユースオーケストラからつながる未来〜』(フレーベル館)、共著『田中宏和さん』(リーダーズノート)、編著『くらしのこよみ 七十二の季節と旬を楽しむ歳時記』(平凡社)など。1969年京都市木屋町生まれ、東京都渋谷区在住。Twitter:@tanakahirokaz Instagram:@tanakahirokaz
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