僕には、「学校の先生」に限定しても、忘れられない先生が何人もいる。忘れられないだけの経験をさせてくれたということだから、幸せなことだ。そのうち何人かの先生たちに登場願う。話は昭和30-40年代の栃木県足利市上渋垂町という北関東のある町で起こったことである。
まずは幼稚園の先生。青春記に幼稚園の先生が出てくるのか。許せ。幼稚園のころだって青春だったのだ。好きな先生いたし。TT先生。でも好きだったのかな。強く意識したことは確かだ。意識せざるを得なかったのだ。昭和30年代、水洗便所はまだない。ぼっとん便所だ。僕は幼稚園で催してしまい、通常避けていたことだが大のほうをしていた。力んだあげく、気がついたら世界が黄色くなっていた。息ができない。立ち上がった。息ができた。幸いそこまで深くはなかった。つまり、落下したのだ。昭和30年代には、幼児用の和式便器などなかった。大人と同じだ。今と違ってやせっぽちだった僕は、力み方、手の位置、呼吸その他もろもろの要因が合致し、結果として落下していた。お尻からだ。
その後の記憶はない。たぶん咆哮したのであろう。気がついたら井戸で洗われていた。そして、その後の記憶もない。気がついたら家についていた。問題はここからだ。全身黄金にまみれ着替えもない僕は、TT先生の着替えを借りて帰ってきたのであった。大人の服なので、上着のシャツの下は、パンツのみであった。TT先生は女性であったので、そのパンツは女物であり、当時はパンティと呼ばれていたものであった。僕は4歳にして女装したのである。しかし、昭和38年という時代には、女装を文化とみなす余裕はなかった。僕は便所に落ちたことより女装して帰ってきたことについて、父からも母からも祖父からも祖母からも叔母一同からも、要するに一族郎党、そのころ家族は11人、その全員から、嘲笑を浴びたのであった。この経験は、どう考えても僕の人格形成に影響を与えている。それについてはおいおい述べることになろう。
そして12年がすぎ、あるとき高校の帰り道、TT先生にばったり会った。12年たったのに、お互いをよく覚えていた。僕はパンツを貸してくれた先生として、彼女は便所に落ちた愚かな小児として。TT先生の面影は、まだうっすらと僕の心にフリル付きで残っている。あのパンツ、返したのかなあ。返されても困るよなあ。
JS先生。小学5、6年の担任であった。授業初日、僕たち悪ガキは入り口の引き戸に黒板消しを挟んでおいた。JS先生は当然のように左手で引き戸をあけ、右手で黒板消しを受けた。拍手が起きた。この先生が担任でなかったならば、僕は今研究者でいなかったかも知れない。小学5年の僕は、自分がとてつもなく体育ができないことに悩んでいた。いわゆる、運動神経がない、ってやつだ。ボールがとれない、走るのが遅い、逆上がりができないの三重苦であった(これらは今もそうで、8歳の娘とかけっこして負けるし、サッカーして負けるし、逆上がり教えてと言われて教えられない情けない父親だ)。だから、体育の時間はとてもつらかった。いつもは仲良い友達たちも、体育の時間は僕と同じチームに入ると嫌そうな顔をした。ところがJS先生は、1学期の最後に通知表を渡すとき、「おめえは勉強できるんだから体育が1(5段階評価の最底辺)でもいいんべ」(栃木弁)と言って渡してくれた。僕はこれで、開き直ることができたのだ。実際、そのときの僕の通知表では体育が1であった。「ひとりくれえ1つけなきゃしめしつかねんだから、しょうがねんだよ」とJS先生はおっしゃったが、僕はこの言葉にJS先生の優しさを感じた。
このように、JS先生は僕にとっては良い意味で非常識だった。家庭訪問で僕の家に来て「今度の理科の授業で月の満ち欠けについてやるんだけど、教え方一緒に考えてくれ」と言われたことを覚えている。家庭訪問なのに、僕が先生の相談に乗ってあげてしまった。スポンジのボールに懐中電灯を当てて、ボールを持ちながらゆっくりと懐中電灯の回りを回ると、月の満ち欠けが表現できた。また、ある日、テスト中、早めに終わった僕がぼーっとしていると、「ひまだべ。これ読め」と、模型飛行機の雑誌を渡してくれた。僕はそのころ10mほどのワイヤーを2本つないで、昇降舵を制御し、エンジンで飛ばすUコンという模型飛行機に夢中になっていた。先生が渡してくれたのは「Uコン技術」という、この模型飛行機の専門誌であった。それから僕のテスト時間の半分は、「Uコン技術」を読む時間になった。
当時僕は、他の2人の生徒と共に水中微生物に興味を持って、その種類を図鑑で調べていた。だがJS先生は、それは研究ではないと言う。JS先生は、自分の目でみないと駄目だと言って、理科の専門教員であることを良いことに、僕たちのためにカメラ付き顕微鏡を買ってくれた。僕たちはそれで、どういう水たまりにどういう水中微生物がいるかを調べる「研究」をした。だが先生はそれでも研究ではないと言う。「仮説を作るんだよ」と先生は教えてくれた。仮説を作って、それにもとづいて実験をして、仮説に合うかどうか試すのが研究だと。昭和40年代に仮説演繹法を習っていた小学生は僕たちくらいじゃないだろうか。でもそのころの僕にはどうしても「仮説」を作ることができなかった。申し訳ないと思った。だから僕は、今、研究の中でたくさんの「仮説」を作っているのだ。
JS先生は、道徳の授業で「概念くずし」という話をしてくれたことがある。生徒は先生の態度によって、同級生への評価を作ってしまう。だから、時々そのような「概念」をくずすように、俺はわざと意表を突くことをやるんだ、という概要の話だった。そのような、教師としての内幕を話すことからして、JS先生は非常識だった。でも、僕はJS先生の非常識さによってとてつもなく体育ができず、体育の時間は仲間はずれになってしまう自分を受け入れることができたのだろう。体育が5段階評価の「1」である通知表は、記念に手元に置いてある。
たった二人で一回分書いてしまった。次回も先生の思い出を書くことになる。中学・高校編になるので、前回出てきた漢字親父BT先生と英語の先生NT先生は必ずや出てくると思うよ。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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