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ロビンソン酒場漂流記

2024年12月13日 ロビンソン酒場漂流記

第13夜 フラれても好きな店

横浜市営地下鉄新羽駅 徒歩21分「仁屋」

著者: 加藤ジャンプ

加藤ジャンプさん「ロビンソン酒場漂流記」が、2025年1月4日(土)からBS日テレでテレビ番組としてレギュラー放送されることが決定! 詳しくはこちら

イラスト+写真:加藤ジャンプ(特記した写真を除く)

 雨模様なのだった。

  駅から遠いところにあるのがロビンソン酒場である。歩くだけでも相当の距離である。そのうえ雨。ふだん酒場で軟骨の揚げ物なんてたくさん摂取しているくせに、自分の膝の軟骨はすりへりっぱなしの私にとって、雨はこたえる。それでも歩いていく。それがロビンソン酒場である。

 今回目指した店は、コロナ禍の真っ最中にフラれたことがあった。三年半ほど前のことである。最寄り駅を間違え、今日行くよりもさらに遠い道のりを30分以上かけてたどりついたとき、目の前にはしばらく休業の旨を知らせる張り紙があった。30分歩いて店が閉まっていたときの中年の落胆。私の背中にはいつも緊張感が無く、何も語らないので知られている。だが、あの時、店の引き戸の前で呆然と立ち尽くした私の後ろ姿は、想像するだに小さく哀愁の塊だったはずだ。そんな曰くつきのロビンソン酒場へ行く。だのに、雨。モップスが聴きたい、そんな雨だった。

 編集のMさんと待ち合わせたのは、横浜市営地下鉄の新羽という駅である。人生のうち半分以上を横浜市で過ごしているものの、この駅で降りるのは人生で3回目である。初めての酒、初めての立ち飲み、初めての赤提灯、初めての縄のれん…人生において「初めて」を覚えていることは珍しいことではないが、2回目以降はたいがい忘れてしまっている。それだけ新羽に行くことは私にとって特別なのである。

 近くを車で通ることはよくあった。駅からすこし離れたところに鶴見川という川が流れていて、その川を渡るのに橋を通る。その橋のたもとに『とのさま飯店』という変わった名前の中華料理屋があって、私は長年その店を訪れたいと思っていた。どこかで評判を耳にしたわけでもなく、ただ、その店名に惹かれたからだった。一見無関係な言葉、それも外国語同士を結びつける『勝訴ストリップ』ないし『無罪モラトリアム』みたいな椎名林檎的なトーンもなくもないような、あるような、その店名ネーミングセンスがずっと気になっていたのである。しかも中華料理店で殿様待遇といったら、なにやら紅楼夢のような妄想まで浮かぶ。酢豚を食べ、マオタイをあおりながら、横浜の北の地で、元ヤンキーの楊貴妃とか虞美人の舞なんて見られる店だったらどうしよう、なんてこともちょっと考えたのだった。だが、私の前から『とのさま飯店』は突然姿を消した。理由は知らないがサヨナラも告げずに閉業してしまったのだった。で、新羽駅に降り立ったのは、その『とのさま飯店』に行こうと思ってフラれた時が初めてだった。そのつぎは、今回伺ったロビンソン酒場に行くために降りたのが2回目で、これが3回目、というわけだ。

 横浜市営地下鉄にはブルーラインとグリーンラインの二つあって、ブルーのほうが断然昔から走っている。Mさんには「市営地下鉄の新羽駅」とだけ伝えてちょっと困らせてあげようかしら、と小悪魔的な小細工も脳裏をよぎったものの、根が善人なのでちゃんとブルーラインの新羽駅と伝え待ち合わせた。あらわれたMさんはいつも通りサングラスをかけていた。Mさんのサングラスはかなりイケてるやつで、すっかり顔の一部になっている。それで一言褒めたくなったのだが、

 「そのトム…」

 と言いかけて、トム・クランシーとトム・ハンクスしか思い浮かばなくなってしまい、そのまま口ごもったために、私のMさんに向けた称賛の言葉は雲散霧消してしまった。がらにもなくそんなアッパーな言葉をMさんに言いたくなったのは、Mさんが数ヶ月前から手負いで、このそぼ降る雨のなかでは治りかけの部分が疼くのではないかと考え、ちょっと気分を盛り上げてもらいたかったからかもしれない。そのくらい、その日の雨は、世界の鬱陶しいを集めたくらいに鬱陶しい雨だったのである。だが、だからこそ、この先に待っているロビンソン酒場の良さは際立つ、というものだ。ほんとうに嫌になったらタクシーGO…ダメ、絶対。

 「今日はどこで飲むんですか?」

 なんて聞かれるとき、

 「レッドウィングです」

 と、答えたことが何度かある。つまり赤羽で飲むという意味だ。これだとダイレクト過ぎるかと思い、

 「アイリッシュセッターです」

 と、言ってみたら全く通じなかった。飲みやすい、読みやすい、わかりやすい…世は「やすい」に溢れていて、それは時にかなりの不快感を生じさせる。さりとて捻りすぎもいただけない。

 そして赤羽がレッドウィングなら新羽はニューウイングやね、北ウイングっていい歌だよね、成田空港の北ウイングって南方に行く飛行機が多くて、逆に南ウイングのほうが欧州の航空会社とかが多く乗り入れてたよね、などとひとしきり、おじさんの心の表面を癒すタイプの話しを交わしながら、その日のロビンソン酒場の道ゆきは始まった。新羽駅から件のロビンソン酒場までは太い道が一本。ただただ真っ直ぐ歩いていくだけだ。神奈川県道・東京都道140号横浜町田線という幹線道路の一部で港北産業道路(新羽駅前から西へ向かう途中から緑産業道路)という道である。

 駅を出て件の産業道路を歩くとほどなくして園芸用品などを扱う大きな店がある。『ヨネヤマプランテーション』という店で、私は以前、ここでメダカを4匹購入して、それぞれにジョン、ポール、ジョージ、リンゴと名付けて飼ったことがある。広大な地所に縦方向ではなく横方向に広い店で、さらに、店と仕切りなくつながった敷地に大きな邸宅がある。見ると表札は店と同じ名前で、店を通り過ぎてからも、同じ名前が何軒もある。おそらくこの土地に昔から暮らしておられる一族なのであろう。そして、この状況で私たち昭和40年代生まれが歌う歌は『南の島のハメハメハ大王』である。同じ名前の表札を集中的に見たときこの歌を歌ってしまうのは、この歌を幼い頃にすりこまれた私たち世代の業のようなものだ。念の為、昭和30年代以前生まれや平成っ子のために書くが、この歌の歌詞には、南のある島の住民が、みんなハメハメハという同じ名前という愉快な一節があるのだ。

 「作曲は森田公一さんなんですよ」

 「青春時代の?」

 サングラスを左手ですこし持ち上げて驚くMさん。私はしたり顔でつづけた。

 「ええ、そして青雲の広告とか、大竹しのぶさんの「しゃかりきパラダイス」とか」

 私は微妙に知識の豊富さを誇示しつつ同世代トークを繰り広げ、Mさんはそれをほどよく聞き流しながら歩を進めのだが、またすぐに二人して立ち止まった。

 「いやあ、驚いた、こんな素敵な、鬼平に出てくるような寺が、こんな、フツーの場所にあるんですなあ」

 そこには石を敷き詰め渋い山門を構えた古寺があった。入り口のところに謂れを記した看板があって、鎌倉幕府が成立する以前にできた寺で、元は鎌倉の笹目というところにあったという。その後、(鎌倉の)極楽寺を経てこの地に移ったという。そのとき、ご本尊は船でもって川沿いに運んだらしい。国の重文だという。近くにいながら全然知らなかった。世の中、住宅街とか観光地じゃないところにひっそりと大切にされている重要文化財がたくさんあるのだろう。そういうものを探してまわって近くの酒場で飲んで歩きたい…。

 「『となりの重文、そのとなりの酒場』なんてルポどうですか?」

 「『ロビンソン酒場』がスピードアップできたらやりましょう」

 Mさんのリアルな言葉を前にして、私はそれ以上、突発的に思い浮かんだ新企画を売り込むのをやめた。

 道は長い。途中、何軒ものヨネヤマさんの家を横目に、私たちは歩いた。緩やかな登り坂がつづき、両側は斜面という道がつづく。いわゆる切り通しで、こういうところを通ると、なぜか反射的に私たちは『天城越え』を歌ってしまう。これも業みたいなものである。途中、作業服屋さんのワークマンに立ち寄り、ほとんど何も考えずに「水陸両用」を謳ったTシャツを買ってしまった。ガンダムが好きで、なかでもズゴック、ゴック、ゾックといった水陸両用のモビルスーツが好きだったおじさんは、この言葉に滅法弱いのである。そんなガンダム好きの反射的行動は、まるで次に訪れる出来事の序曲のようだった。そこからすこし歩いたところに、滝口模型という模型店があるのだ。半世紀近い歴史のある店で、このタイミングでここに寄らないなんてガンプラに踊らされた世代の沽券に関わる。

「いらっしゃい」

 店主が明るい声で中年デュオを迎えてくれて、すぐに鉄道模型のレイアウトに電気を通してくれた。シャーっと音をたてて走るロマンスカー。たまらない。昔、親が乗っていたセドリックのミニカーがあったので躊躇なく購入した。とても若々しい店主だが、開業から半世紀近いというので、不躾ながら後継者についてうかがったらお嬢さんが継がれるという。安心して店をあとにした。

 ただ真っ暗な道とか住宅だけが並ぶところとか、ロビンソン酒場への道のりはいろいろあるが、今回は見所が多くて余計にたどりつくまでに時間がかかる。道草を食いながら、それでも、新羽駅を出発してから1時間弱でいよいよ、愛おしい看板が見えてきた。繁華街でもなんでもない、駅から遠い場所にたっている酒場、ロビンソン酒場、仁屋である。近くに第三京浜道路の港北インターチェンジがあり、IKEAやスーパー銭湯の看板が見える。傍を多くの車が走るがあまり歩いている人はいない。ちなみに、時間のせいもあるだろうが、ここまでの道のりですれちがった人は5人だった。

 格子戸のガラスからなかの灯りがほのかに見える。入り口の周りには丹精された植木鉢が並び綺麗な暖簾がかすかにたなびいていた。この雰囲気、清潔感があって仕事が丁寧で旨い店の証左だと私は思っている。

 勢いよく引き戸を開けて中に入った。外はまだ明るく口開けからそれほど時間が経っていないのに、すでにいい感じに仕上がっておられるご婦人の三人組がいた。店主が奥から顔を出し、いらっしゃい、と気持ちいい声で迎えてくれた。黒いタイル張りの床に一目見て良い材とわかる木をふんだんに使った、いわゆる純和風の造り。長いL字型カウンターの真ん中あたりに二人で腰をおろす。何年ぶりだろうか、この店に来たのは…。

 生ビールを頼む。美しくの霜のついたジョッキが運ばれてきて、すぐさま、ゴクリ。黄色い麦汁の濁流は清涼感とかすかな苦味をともなって体内を一気に駆け抜ける。口から胃までが一本の道で繋がっていることをことほどさように感じる瞬間があるだろうか。そして、その心地良さ。大袈裟ではなく、生きている! と実感する。といっても、こんなことを感じられるのは、仁屋のビールが、手入れのゆきとどいたサーバから、上手に注がれた澄んだビールだからこそなのである。

 レギュラーメニューはカウンター上にあるお品書きあり、その日の旨いものは壁に手書きの短冊が貼られている。本鮪、ひらめ、ほたて…普段から優柔不断な私にとって、この贅沢な選択の自由地獄。こうなると奥の手、

 「お刺身を盛り合わせていただけますか」

 完全に身を委ねることにした。もう、好きにして。

 「じゃあ、今日のおいしいところをやりますね」

 奥に引っ込んだ大将を見送り、私たちはすぐにお通しの巻貝の炊いたのにとびついた。小鉢にはいったそれは黒っぽい斑目の平たい貝である。

 「こりゃあダンベイキサゴではあるまいか」

 私はもてるすべての知識を動員してなんとかこの推測にたどりついた。小さい割にみちっと身が詰まっていて、この身が歯ごたえがあって、そのむにゅっとする噛みごたえの先にじわっと磯のいい香りを漂わせた出汁がある。こういう珍しいものをお通しにさらっと出す。この店がいかに腕のたつ店かどうかがわかる。こうなると

 「お酒ください」

 と、なるのが自然の流れ。まずは一合、あまり濃厚過ぎずさりとてさっぱりし過ぎないのがあったので、これの冷たいのをもらってキュッとやることにした。で、刺身を待ちながら追加の注文を吟味する。なにより気になったのは、メニューのなかにある

 「エビフライ(2本)」

 の表記であった。

 私は45年ほどエビフライに執着している。最初の記憶は玉川高島屋の食堂のエビフライだと思う。そのときから私はエビフライに取り憑かれている。そういうことだから、どこで会っても食べずにいられない。もう好きだとかそういうことではない。食べなくてはならないのだ。

 というわけで、エビフライ、はまぐりの酒蒸し、焼き鳥の盛り合わせを注文した。忘れていた、もう一つ揚げ物。カキフライも頼んだ。そんなに頼んで大丈夫かと思われる向きあるだろうが、旨い店だから大丈夫。旨いものはいくら食べてもいいのだ。

 しかしいい設えの店である。照明の具合も明る過ぎず、ちょっと陰影ができる。この感じが老眼で、蛍光灯ギラギラが最近とみにしんどい私には嬉しい。酒場でこそ陰影は礼賛したいのである。黒い床もまた落ち着いた雰囲気だ。木材もいい色になっている。カウンター。カウンターの後ろ、いわゆるバックバーにあたる棚、柱。年月をへなくては出すことのできない、木の、水をまとったような艶がいい。

 「もう店は昭和43年に開いたから五十年以上になるけど、この店は立て替えたんですよ。道路拡張があってね。だからこの建物になってから、まだ、三十年にはならないねえ」

 店主の角田仁(まさし)さんは言った。黒いTシャツのせいもあるかもしれないが、背筋がぴっとのびていて七十代とは思えない。てきぱきとした動き。かといって、せわしいところは全然ない。

 「はい、今日はね、鮪とひらめとかんぱちとホタテとしまあじです」

 黒い皿に、本鮪の木瓜の花みたいな美しいピンク色が映える。たまらずパクッといく。自分の歯が切れ味抜群の柳刃になったみたいに、ほとんど噛むという努力をせずに、すうっと身が切れて、断面からほどよい脂が舌に広がる。ほんのりと甘く、身から出る味わいと一緒になって脳天まで一気に鮪が駆け上っていく。旨いなあ。こうなったら、黒い皿の上に咲いた刺身の花の蜜を吸いまくってやると、春さきの虫か鳥が花に体ごと入り込んで何かを吸っているかのように、箸を休めることなく、次々に頬張る。ホタテの、塊のような出汁感、しまあじのキュッという歯ごたえと上品な甘み、かんぱちの野趣ある味わいと豪快な脂。たまらない。

 「北部市場から仕入れてるんですよ」

 学校を卒業してから角田さんは東京でバーテンダーになった。新橋界隈など、東京の盛り場で数年バーテンダーを経験した後、地元にもどって、仁屋を開いた。料理も仕入れも基本、全部、独学だ。

 「旨いもの食べたり、おもしろい料理を知ったら、自分で再現してみたりって、そういうことの繰り返しですよね。市場だって、自分の舌でどういうものがどの状態のとき旨いか、それは失敗しながらおぼえていくし、市場に通うことで知り合いを増やしていく。そうやってきただけですよ」

 酒場の人の、こういう話を聞いてると酒がグッと旨くなる。もうすでに何本か空にした徳利をのぞきながら、つぎの日本酒の銘柄を思案していたら、

 「はいカキフライ」

 と、これまた大粒の旨そうなのがやってきた。それまで日本酒のことしか頭に無かったのが、また再び、

 「ビールください」

 まるで昔の日本の冬には当たり前だった、霜柱を踏んだときにみたいに、カキフライは噛んだときシャクシャクといい音をたてた。衣は薄く、すぐに歯と舌がなかのはち切れそうにふくれたカキにふれる。ふわっと磯の香が広がったと思うと、海のミルクは大波になって押し寄せてくる。しびれるではないか。

 つづいて 焼き鳥の盛り合わせが来る。大きめの粒を、良い塩梅に焦げ目をつけて焼き上げてある。香ばしく、ジュワッと汁気をたくわえたハツ、レバーもコクの塊だし、ネギマのネギなんて、一つ食べたら二年くらい風邪をひかなくなりそうなくらいに甘く爽やかな刺激にあふれて、やめられない。

 常連客の女性の方に

 「どっかで見たことあるんだよねえ」

 と、言われたので、

 「こういうの、そのへんによくいるんですよ」

 と、答えたら

 「いない、いない」

 と爆笑されて、なんだか嬉しくなってしまった。まあ、珍獣の類いなのだと自覚はしている。

 そんなとき、現れたのが、件のエビフライだった。

 「大きい、良いのが入ったときしかやらないんですよ」

 角田さんが言うと、奥の常連の女性から、

 「運がいい!」

 と声がかかる。大向みたいだ。思わず見得を切りたくなる。

 そして、このエビフライ。秋鮭の白子の生みたいに太くて長い。一本が全面に顔を出し、それをもう一本がささえている。2本で完璧な皿を構成している

 その姿は、エビフライ界のペットショップボーイズみたいだ。

  黄金色の海の棍棒に思い切りかぶりつく。表面のパン粉の突起が唇から舌まで心地よい刺激をくれる。その突起がはらはらと崩れながらエビの味を吸った衣がほどける。香ばしさに目を瞑る。その刹那、エビがプチッと音をたてて歯の先で弾ける。一気に旨みのジュースがほとばしる。なんだ、これは。旨い、旨い。

 シメに焼きそばと煮込みうどんというのを食べたら、これまた「飲兵衛が、それなりに飲んだときに欲しい炭水化物」という命題をすべて解決するかのようだった。すいた小腹をキュッと埋めてくれて、だからといって腹一杯にし過ぎない。そのうえ、残っていた酒のアテになるくらいの程よい塩気。

 「でも、今でこそ、周りに家がたくさんあるけれど、半世紀前はだいぶ風光明媚だったですよねえ」

 「そうですね。畑とか田んぼとかね。ここで、店を開くって言ったら、みんな「バカか」って言いましたよ」

 「近くに家が少なかったとなると、遠方からのお客さんもいたんですか」

 「昔はねえ、インターがあるから車で、この店に来てね。なんかお忍びみたいな人も多かったですよね。スマホも無かったし、ここらへんで誰かに見つかるってこともなかったろうから」

 と笑う、角田さん。ここ何年かは、陶芸にこっていて、今は自分で窯を拵えているところだ。手先が圧倒的に器用なのだろう。見せてくれた急須や湯呑みもいい雰囲気だ。

   ごちそうさまを告げて外に出ると、もう雨もあがっていた。最高の雨宿りになった。それにしても、仁屋みたいな店が近くにあれば、と一瞬考えたのだが、近所にあったら日参してしまって、日々泥酔してしまうので、やっぱりロビンソン酒場であってくれてよかった。そんな勝手なことを思いつつ歩く帰り道は、腹が一杯で体重は2キロくらい増加していたはずなのに、往路よりも余程、軽かった。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

加藤ジャンプ

かとう・じゃんぷ 文筆家、イラストレーター。コの字酒場探検家、ポテトサラダ探求家、南蛮漬け愛好家。割烹着研究家。1971年東京生まれ、横浜と東南アジア育ち。一橋大学法学部卒業。出版社勤務をへて独立。酒や食はじめ、スポーツ、社会問題まで幅広くエッセーやルポを執筆している。またイラストレーションは、企業のイメージキャラクターなどになっている。著書に『コの字酒場はワンダーランド』(六耀社)など。テレビ東京系『二軒目どうする?』にも出演中。また、原作を書いた漫画『今夜はコの字で』(集英社インターナショナル)はドラマ化された。

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