シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

村井さんちの生活

 長くてハードな翻訳作業が続いている。指折り数えつつ考えてみたら、半年以上、切れ目なく作業を続けているようだ。自由業(になるのか?)には週末もへったくれもないから、とにかく、長距離走が延々と続いているような状態である。鉄人レースか? 地球一周しちゃうんじゃないの? とにかく、体力を使う作業だ。丸一日、翻訳から完全に離れる心の余裕も度胸もないから、結局、ほぼ毎日、わずかな時間であっても本に向き合うという生活は続く。私みたいに根気のない人間が延々と作業を続けられる理由は、モニタの向こうから睨んでいるに違いない担当編集者が怖いこともそうだが、私自身が一読者として本にのめり込んでしまっているからでもある。

 特に、今年の春先から訳していた『黄金州の殺人鬼 凶悪犯を追いつめた執念の捜査録』の作業は、体力的にも精神的にも、相当厳しかった。いわゆる鈍器本(分厚く、重い)と呼ばれるたっぷりとしたボリュームのノンフィクションであると同時に、私が今まで読んだ本のなかで間違いなく、トップ3に入るほどの恐ろしさだったのだ。その恐ろしさたるや、本を閉じてモニタの前から逃げ出したことは、数回どころの騒ぎではない。しかし、著者の執念が私を、必ず本の前に引き戻した。作業を長らく中断する勇気が出なかった。この先を確認せねば、謎を解き明かさねば、私は今夜眠れない! というギリギリの精神状態が、本も終盤にさしかかると続くようになった。きっと著者も同じような思いで、夜な夜な資料を読みふけっていたのだろう。

 文字をひとつも落とすことなく翻訳していこうとすると、どうしたって本のすべてを読むことになる。そんなの当然ではないかと思われるだろうが、私たちは、読者として、ほぼ無意識に、苦手な一文や怖すぎる段落なんてものを、ひょいと読み飛ばしているものなのだ。しかし本を訳す場合、読み飛ばして難を逃れることができない。むしろ隅々まですべて読んで置き換え作業をしなければならない。日本語に置き換えていく過程で、詳細は、生々しく、においや熱まで伴ってこちらに迫ってくる。モニタに映る文字の向こうに、髪をかきむしりながらラップトップに向かう著者の姿や、逃げ惑う被害者の恐怖に歪んだ顔が見えるような錯覚に陥る。車のエンジン音、排気ガスのにおい、犯人の吐く白い息。すべてが鮮明に浮かんでくるのだ。

 私は完全にパラノイアになった。玄関の施錠を何度確認したかわからない。サッシの窓についた指紋に悲鳴が出そうになったこともある。著者が「いつも喉の奥に悲鳴が張りついている」と記した場面では、遠くから、細く、途切れ途切れに聞こえてきていた「…ヒィィィ…」という小さな声が、私の耳元でつんざくような「キャアアアアア!!!」という悲鳴に変わったような気がした。慌てて、インタフォンのカメラで外の様子をうかがう。寝る前は家中の窓を確認する。それでも不安が払拭できず、作業の合間に防犯グッズを調べ尽くしていたら、本が終わる頃にはすっかり防犯システムに詳しい人間になってしまった。

 そんなこんなで、翻訳作業とは、特殊な読者体験でもあるのだと思う。本好きな私としては、なんともありがたいことだなと考えつつも、思わず「しんどいわ」と口から出そうである。それでも、一冊が終わって数日経てば、次の一冊のページをめくるのだから、私も相当な変態だなと薄々気づきはじめた。

 ここ数ヶ月は、とある女性の人生の物語を必死に訳す日々だ。過酷な記述にダメージを受けつつ、一人の女性としての私が全身で著者に共感している。学びの大切さを再認識している。結局のところ私は、辛い、厳しい、眠い、腹が減ったとわめきつつ、様々な人生、様々な思いを、本を通して日々追体験しているのだろうと思う。もう無理、来年には辞めますと言いつつ、もしかしたら少しは楽しめるようになってきたのかもしれない。それでもやっぱり、来年は少しスローダウンしたい。南の島で、カクテルを飲みながらゆっくりしたい。本はなしでお願いします。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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