本居宣長の学問は、その広大さと言い緻密さと言い、とても一言で括ることはできないが、本居宣長と聞いてまず浮かぶのは、「古事記伝」であろう。「古事記」は、奈良時代の和銅五年(七一二)、太安万侶(おおのやすまろ)らの手で成ったが、以来千年、安万侶苦心の漢字表記が、不幸にも誰にも読めなくなっていた。その「古事記」を、本居宣長が三十五年の歳月をかけて読み解き、「古事記伝」を著したのである。
小林秀雄は、昭和四十年(一九六五)の春から五十二年秋にかけて、「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27・28集所収)に専心したが、宣長との出会いは昭和十五年前後、三十代の後半であったと思われる。それまでは、フランス文学、ロシア文学一辺倒で、日本の古典にはまったく目を向けずにきた小林秀雄であったが、ある関心事に駆られて「古事記」を読もうとし、それなら「古事記伝」でと思い、読んだというのである。その「古事記伝」が、小林秀雄に、自分自身ですらはっきりとは意識していなかった小林秀雄を発見させた。
ではそれは、どういう小林秀雄であったか。早手回しに言えば、古代の「古事記」に全身で反射した本居宣長と同じく、原始、古代に反射する小林秀雄であった。さらには、明治の日本に近代人として生れ、青春期はフランス、ロシアの十九世紀文学に魅了されていたが、意識の底では原始、古代に反応し、原始、古代への回帰を希求する小林秀雄であった。この感性は、二十代の初め、志賀直哉と出会い、志賀直哉の小説に即してまず露(あら)われた。次いで、十九世紀フランスの詩人、ランボーに即して露われた。
大正十一年(一九二二)、二十歳の秋であった、小林秀雄は、同人雑誌に載せた小説「蛸の自殺」を人を介して志賀直哉に送り、賞讃の手紙を受け取った。以後、小林秀雄は生涯にわたって志賀直哉を敬愛し続けるのだが、志賀直哉の影響が明らかに読み取れる「蛸の自殺」を書くまでも、また「蛸の自殺」を褒められてからも、最初は小説家を志していた小林秀雄は志賀直哉の作品を綿密に読んでいた。そのうえで、「様々なる意匠」で文壇に出てすぐの昭和四年暮、作家論「志賀直哉」(同第1集所収)にこう書くのである。
――私は嘗て氏を評して古典的だという言葉を聞かないし、又、氏の原始性を強調した言葉を聞かない。恐らくこれは氏の全作が、比類なく繊鋭な神経をもって装飾されているが為だ、と私は思う。私は氏の神経の独自なる所以をあきらかにしなければならない。……
志賀直哉の神経の独自なる所以、それは、古代人の神経に匹敵する鋭敏さにあった。
――近代人の神経は病的であり鋭敏であると人は言う。成る程近代人の神経は健康ではないかも知れない。然し決して鋭敏ではないのである。古代人の耳目は吾々に較べれば恐らく比較にならぬ位鋭敏なものであった。……
そして大正十三年四月、数え年二十三歳の春、小林秀雄自らが言う「事件」が起る。ランボーとの出会いである。「ランボオⅢ」(同第15集所収)に書いている。
――僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。……
こうして出会った、というより、出会い頭に激突したランボーの、何が小林秀雄を叩きのめしたのか。これも一口では言えないが、やはりランボーの詩が発していた原始性がそのひとつだったとは言えるのだ。ランボーは、自分の詩作を「言葉の錬金術」と呼んだが、その錬金術から正銘の金を得たとして、小林秀雄は同じく「ランボオⅢ」で言っている。
――その昔、未だ海や山や草や木に、めいめいの精霊が棲んでいた時、恐らく彼等の動きに則って、古代人達は、美しい強い呪文を製作したであろうが、ランボオの言葉は、彼等の言葉の色彩や重量にまで到達し、若し見ようと努めさえするならば、僕等の世界の到る処に、原始性が持続している様を示す。僕等は、僕等の社会組織という文明の建築が、原始性という大海に浸っている様を見る。……
小林秀雄の人生の道筋を、出立地点で早くも指し示した志賀直哉とランボー、その双方に、小林秀雄は原始、古代を感じ取っていた。ということは、小林秀雄の体内に、彼らの原始、古代に感応する原始、古代が埋(うず)まっていたということだ。「古事記伝」は、小林秀雄に、この自らの原始性、古代性に気づかせ、振り返らせたのである。
昭和十年一月、小林秀雄は「ドストエフスキイの生活」の雑誌連載にかかり、これを十四年五月、単行本として刊行する。「古事記伝」を読んだのは、それも、本腰入れて読んだのは、この後と思われる。志賀直哉とランボーによって煽られた原始、古代の火が、「古事記伝」を読むことによって音を立てて燃え上がるさまを、はっきり自覚したであろう。大正十五年十月、ランボーを初めて論じた「ランボオⅠ」(同第1集所収)にはランボーの原始性への言及はないが、「ランボオⅢ」は昭和二十二年、「古事記伝」を読んでからの文章である。八百万(やおよろず)の神々に感じて神々に名をつけ、同時に歌を詠み始めた日本の古代人を生き生きと想い描いた「古事記伝」を読むことによって、いっそう深くランボーの言葉の本領を感受したであろう。
この、自らの内にある原始性、古代性の自覚に立って、昭和十七年六月、「無常という事」(同第14集所収)に「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ」という、小林秀雄読者にはよく知られた歴史観の言葉を記し、昭和二十五年二月、四十七歳の冬には、奈良の石舞台を訪ねて書いた「蘇我馬子の墓」(同第17集所収)を次のように結んだ。
――私は、バスを求めて、田舎道を歩いて行く。大和三山が美しい。それは、どの様な歴史の設計図をもってしても、要約の出来ぬ美しさの様に見える。「萬葉」の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分達の感覚や思想を調整したであろう。取り止めもない空想の危険を、僅かに抽象的論理によって支えている私達現代人にとって、それは大きな教訓に思われる。……
人間は、身体的にも精神的にも、原始、古代にもう完成していたのだと小林先生は言っていた。「志賀直哉」で示した古代人の耳目の鋭敏、「蘇我馬子の墓」で偲ばせた萬葉人の感覚調整、これらを思い併せれば、原始、古代こそは、人間が最も健康な時代であったとさえ小林先生は見ていたと思われる。
ところが、人間には、身体と心に加えて、頭という便利にして厄介なものが与えられていた。この頭の使い方を、人間たちは、わけても近代の人間たちは誤った。便利に任せて物事すべてを頭で組み立て、頭で割り切ろうとし、その結果、「取り止めもない空想の危険を、僅かに抽象的論理によって支え」ていく人間社会にしてしまった。
私たちがこの世に生れてきた意味は、一人ひとりが頭を捏ねまわすより先に、たとえば大和三山の美しさに打たれて目を見張るといった、生活経験の微妙を身体と心で感じ取り、その後にその微妙な感触、感動を頭で認識していく、それが順序であるとも小林先生は言っている。そうであるなら、まずはいま私たちを右往左往させている「歴史の設計図」といった空想や抽象的論理、すなわち頭の辻褄合せは誰もしていなかった原始、古代に還るに如(し)くはない。だが、どこをどう辿っていけば還れるのか。小林先生の「本居宣長」は、あの若き日、ランボーの詩に見た今なお世界の到るところに持続している原始性を再び見出し、原始人のように、古代人のように生きる生き方を模索する仕事であった。
頭寒足熱、一番あたりまえのことで、一番大切なことじゃないか……、僕の身体が治ろうとしているんだ、僕が協力すれば治るんだ……という、前回紹介した小林先生の言葉は、とりもなおさず自分の身体の「あたりまえ」をよく知って、空想や観念に走ることなく生きていた、原始、古代の人たちの生活信条、生活態度そのものであった。
(第八回 了)
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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