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随筆 小林秀雄

 人間にとって、「あたりまえ」とは何かを知って、「あたりまえ」に還れ、それが人生いかに生きるべきかを考えるための第一歩だと小林秀雄は教えた、そしてその還るべき故地として小林秀雄が見ていたのは、原始、古代であった…、と書いてきたが、ここで念のために言っておきたい、だからといって小林秀雄は、竪穴住居に憧れたり、狩猟・漁労を趣味道楽にしたりしていたなどというのではないのである。原始人のように、古代人のように生きるとは、天から授かった人間として生きるに最小限必要な身心のはたらき、それを最大限に活かして生きる、そういう意味である。

 昭和四十七年九月、小林先生七十歳、私は二十五歳の秋であった。円地文子さんの「源氏物語」訳を新潮社から出すにあたり、記念の講演会を名古屋と大阪で催すことになって、小林先生にも「宣長の源氏観」と題した講演を行ってもらったことは先に書いたが、名古屋に続いた大阪での夜のことである。
 先生は、講演会での出番はいつも最後で、たいてい夜の八時頃になる。それでそのつど、そのときの主催者が会場近くの店に先生の席を用意し、先生はそこでかるく徳利を傾けながら出番を待たれるというのが通例だったが、その日は、先生のほうから僕の知ってる店へ行こうと言われ、夕方、チェックインしていた中之島のホテルを出た。御堂筋を心斎橋方向へ歩き、裏通りへすこし入って、ここだよ、と先生が言われた建物は、酒や料理の店といった風情ではまったくなく、古い町屋風の玄関口に「丸治」と表札があるだけだった。
 もう五十年ちかくも前に、それも一度きり、小林先生に連れられて行っただけだから、記憶に若干、誤りがあるかも知れないが、中へ入るといきなり長方形の土間が広がり、そこに分厚い白木の卓が置かれていた。土間の広さは十畳ないし十二畳といったところだっただろうか。白木の卓はそこにその卓ひとつだけ、どっしりと置かれているのである。後で知ったが、それは欅の一枚板で、土間には板石が敷きつめてあったらしい。
 先生は、入ってすぐの一隅に腰を下ろし、「酒、それとグジをくれ」と、しょっちゅう来られているかのような口ぶりで注文された。グジとは福井の若狭湾で獲れる甘鯛で、主に京都での呼び名である。私も先生に倣った。やがて、燗をつけた酒がきた。先生は、酌をしたりされたりは嫌いだった。すぐさま右手で徳利を持ち上げ、卓の上の盃につぎ、徳利を置いて盃を取り、口に運び、おもむろに含んで飲み下す、それをゆっくりと繰り返し、そっと小声で私に言われた。
 「あそこに、爺さんがいるだろう」
 私たちの真反対の一角で、老人がひとりで飲んでいた。夕方だったが他に客はいなかった。
 「あの爺さんの顔と飲み方、よく見ておくといい。不機嫌そうな顔で、つまらなそうに飲んでいるだろう。あれがほんとうの酒飲みだ。酒の味のわかる酒飲みが、満足して飲んでいるときの顔があれだ」
 それだけ言って、また黙って徳利を傾けられた。

 そろそろ、という時間がきて、「丸治」を出た。大人の酒席に連なり始めてまだ二年余り、酒の経験は浅いというよりないに等しかった私は、大きな欅の一枚板と酒とグジ、それだけと言っていいほど簡素な「丸治」で覚えた豊饒さを、どう言い表してよいかわからなかった。講演会場のある堂島へ向かって夜道を歩き始め、「ありがとうございました、初めて知りました」と、私は辛うじて言った。「ああいう店、君ンところのまわりにはないかね」、先生が問われた。
 むろん、心当たりはなかった。が、そのとき、私はふと思い出して、あらぬことを口にした。京都にその頃、店開きして間なしであるにもかかわらず、文壇人、出版人が東京からも出かけていき、噂しあっているという会席料理の店があった。私は先輩たちから聞かされていただけで行ったことはなかったが、ご存じですかと先生に訊いた。先生は、知らない、どういう店だい、と応じられた。
 「なんでも、料理を座敷へ運ぶ、並べる、といったあたりに、京都を印象づける趣向が凝らされているそうでして、それが評判になっているらしいのですが…」
 私がそう答えるなり、先生は即座に返された。
 「君、その店、まずいよ、行くことないよ。食欲というのはね、最も原始的な欲なんだ、それをあれこれ、頭で飾り立てる料理屋がうまいわけないじゃないか…」
 さらに先生は、一呼吸おいて続けられた。
 「食う方も食う方なんだ。このごろは皆、頭で食っている、舌で食ってない…」
 食欲は、人間の最も原始的な欲…。小林先生の口から、「原始」という言葉をじかに聞いた最初だった。鼓膜に、というより腹に響いた。そのときまでははるかに遠い、それこそ抽象的な言葉であった「原始」に具体的な血が通い、体熱が感じられる思いがした。

 ―元来、私は酒の上で癖が悪く、それは、友達が皆知っているところだが、本当は、独酌が一番好きなのである。この習慣は、学生時代からで、独酌に好都合な飲み屋は、戦前までは、東京の何処にでもあったのだ。料理も出ないし、女もいないが、酒だけは滅法いい。そういうところには、期せずして独酌組が集まるものらしく、めいめい徳利をかかえて空想したり、考え事をしたりしていた。ああいう安くて極めて高級な飲み屋が広い東京の事だ、まだ一軒くらいありはしないか、と時々思う。
 小林先生の、「東京」と題された文章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第23集所収)の一節である。「料理も出ないし」と言われている「料理」は、手のこんだ料理、の意である。昭和四十七年秋の大阪には、東京にはなくなった、「安くて極めて高級な飲み屋」があったのである。
 それから五年、昭和五十二年の十月に小林先生の「本居宣長」が出ることになり、記念の講演会を和歌山と大阪で催すことになって、先生と私の間では「丸治」再訪も大阪行きの大きな目的のひとつになった。
 講師には、水上勉さんにも加わってもらった。「丸治」は、水上さんも古いなじみで、小林先生よりも古いかも知れないという。「予約は僕がしておくよ」と、水上さんも大よろこびだった。ところが、二、三日して、水上さんから電話がきた。「丸治」は、店を閉めたそうだ、年をとって、十分なことができなくなりましたので、ということのようだ…、水上さんの落胆は大きかった。
 小林先生がお好きだったグジは、繊細このうえなく、これを焼くには練達の腕が要るのだという。先生に、電話で知らせた。そうか、「丸治」らしいな、そういう亭主なんだよ…先生は、動じることなく言われた。

(第九回 了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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