小林秀雄先生は、講演会が夜になるときは、会場の近くで徳利を傾けながら出番を待たれると前回書いたが、これにも付言しておきたいことがある。先生自身、ある講演のなかで、ちらっとそういうことを言っているからでもあるのだが、そこを短絡してか人づてに聞いてか、小林秀雄は酔っぱらって演壇に上がるんだってね、と、暗に不真面目だとでも言いたげな口ぶりで私に話題を振ってくる人がいるのである。むろん、そうではない。
小林先生の酒は、日によって、席によって、がらりと変わる。前回引いた「東京」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第23集所収)に、「元来、私は酒の上で癖が悪く、それは、友達が皆知っているところだが、本当は、独酌が一番好きなのである」と書かれているとおり、三人とか四人とか、酒席に相手がいるとたちまち先生の独演会となって盛り上がる、だがそれが、往々にして「癖が悪い」酒になる。からむ、などという生やさしいものではない、誰かひとりをつかまえて、こきおろすのである。相手の仕事や仕事ぶりを俎上に載せ、完膚なきまでやっつけるのである。これに対して、独酌のときは、「徳利をかかえて空想したり、考え事をしたり」しながら黙って飲む。選りすぐりの酒を、ゆったりと飲む。
家にいるときは、夕方六時からが晩酌の時間だった。量は二合と決めていた。酒飲みにとって晩酌の楽しみは言いようがないが、先生の場合は楽しみと同時に昼間の仕事の仕上げという意味もあった。昼日中考え続けて疲れた頭を、酒でほぐすのである。したがって、先生の晩酌は、先生の批評活動の大事な一環であったとさえ言えるのであり、講演の出番を酒を飲みながら待つというのも、先生にとっては欠くべからざるならわしで、あえていえば、厳粛な独酌の時間だったのである。
さて、ここから先も、前回を承けてである。昭和五十二年(一九七七)十一月、「本居宣長」の刊行にあたって、大阪で催すことになった講演会は、堂島の毎日ホールが会場だった。そして、小林先生の楽屋としての飲み屋は、五年前、先生が私を伴って行かれた「丸治」にするはずであった。ところが、「丸治」は店を閉めていた。先生に、「丸治」に代る店はありますかと訊いたが、ないな、君に任せるよと言われ、私は急遽、難題を背負うことになった。「丸治」に代る店が、そう簡単に見つかるとは思えなかった。一計を案じ、大阪に仕事先を持っている先輩や、日頃から大阪の新聞社、広告代理店と行き来のある広告部などに頼んで、店を推薦してもらった。四、五軒の店が挙げられてきた。が、そのうちのどこがいいかは、見当がつかなかった。私自身で下見に行ってみるほかなかった。
たかが一晩、それも一時間ほどの楽屋ではないか、なにもそこまでしなくても……と思われる読者もおいでだろう。たしかにそうなのである。ふつうならそこまではしないのである。しかし、私にはまず、痛い前科があった。あの五年前の名古屋と大阪のとき、名古屋で私は失態を演じていた。小林先生の係になってほぼ一年、講演旅行の随行は初めてだったとはいえ、先生にとって「楽屋」がどれほど大切か、それが呑みこめていなかった。名古屋に着いて、夕方、宿泊先のホテルの中ならまちがいなかろうと思い、先生に相談すると天ぷらにしようと言われた。講演会場への迎えの車がきて、車に乗りこむなり先生が訊かれた、「いくら取られた」。これこれでしたと私が答えるや、「詐欺だね、あれは天ぷらではない」、先生はそれだけ言って、後はずっと会場まで無言だった。大阪の「丸治」は、その翌日のことだった。
これぞという著者に、これぞという作品を書いてもらおうとするなら、これぞという舞台と環境を準備する、それが編集者の務めであるとは、あれから五年の間に私もしっかり叩きこまれていた。そして、小林先生においては、講演も作品であるとは、私自身、五年前の名古屋と大阪ではっきり聞きとっていた。ましてや今回は、先生が十二年半もの歳月をかけられた大仕事、「本居宣長」を記念し宣伝する講演会である。名古屋の失態は繰り返さない……、「丸治」が使えないとなってただちに胸にきたのがこの決意であった。
推薦してもらった店の地図を握りしめ、大阪へ下見に向かった。最初に入った店は、堂々たる風格だった。二軒目も甲乙つけがたく、三軒目、四軒目も引けをとらなかった。だが、どの店も、よし、ここだ、とはならなかった。ひとことでいえば、眩しすぎるのである。「丸治」と違いすぎるのである。これでは「楽屋」は見つけられないかもしれない……私は、焦りを覚えていた。とうとう、最後の一軒になった。神仏にすがるような気持ちで、その一軒の前に立った。
大阪駅の南側、桜橋交差点から四ツ橋筋を堂島方面へ向かい、新地本通りを左へ入ってすぐのところだった。古い町家のような二階建てで、「甚五郎」と肉太の筆文字を浮き彫りにした看板が上がっていた。「丸治」よりは小さめの印象だが、「丸治」を髣髴させる佇まいだ。一縷の望みをかけて、店に入った。構えは「丸治」と同じでない、しかし、気配は同じだ、においは同じだ、ここだ、と思った。
昭和五十二年十一月十四日の夕刻、「本居宣長」刊行記念講演会の楽屋として予約した「甚五郎」へ、小林先生を案内した。行ったことはないと先生は言われていた。名古屋の失態から五年、「丸治」のほかにも二、三、鎌倉や横浜で、先生行きつけの店へ連れられて行っていた。果たして、「甚五郎」を、気に入ってもらえるか……。
中之島から乗ってきたタクシーを、桜橋交差点で降り、「甚五郎」の前に着いた。
「ここです」
先生は、さっと見わたし、二階を見上げ、見上げたままで、
「君……、この店、うまいよ」
言うが早いか戸を開け、私より先に中へ入って、
「小林です!」
予約は私の名前でしてあった、あわてて後ろから「池田です」と名乗った。
女将が「ようこそ、どうぞお二階へ」と言い、私が女将と二言三言交わしているうち、先生はもう靴をぬいで左手にある階段を昇られていた。
用意されていた部屋は、表通りに面した十畳の間だった。酒が、そして刺身が運ばれてきた。刺身の皿には、鯛と鮪と烏賊が盛られていた。先生は、すぐさまその一切れを口に入れ、私が呑み込むのを待って言われた。
「どうだ、うめえだろう!」
どちらが案内してきたのかわからなかった。もう何年も来慣れているかのような先生の得意顔だった。
「丸治」と同じく、「甚五郎」も、また行きたいなと折にふれて言ってもらいながら、先生とはあの日の一度きりになった。先生が七十五歳、私は三十歳の秋だった。私ひとりで通うようになって、主人から聞いた、先生が召し上がった刺身は、主人の最初の切り札で、常に鯛と鮪と烏賊の三種盛を出すのだという。店は昭和四年からだという。
今では、すぐ近くをJRの東西線が走っている。北新地の駅へは四、五分だ。つい最近も電話で話した。主人も女将も元気である。
(第十回 了)
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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