前回書いた「甚五郎」に、うれしい感想をたくさんいただいた。予期したとおり、どうして小林先生は、外から見ただけでこの店はおいしいとわかったのでしょう、という質問も多かった。実は、回をあらためてそれを書こうと思っていたのだが、結論を先に言うなら先生の直観力である。そしてその直観力は、先生の日頃の鍛錬の賜物だったのである。
だが、そこへ行く前に、今回も注釈めいた話を先にしたほうがいいようだ。というのは、あれを読んでくれた読者の感想に、私もぜひ「甚五郎」へ行ってみたいと思いました、だけど、とても私たちの入れるような店ではないのでしょうね、という声が少なからず混じっていたからである。「甚五郎」は、小林先生のような人だからこそ入れる店、一般人には遠い店、そういう店を池田は見つけてきたと一部には受け取られたらしいのである。
とんでもない、ちがうのである。「甚五郎」は、あの日、小林先生がまちがいなく太鼓判を押した一流である。しかし、一般には高嶺の花というような、「世に言う一流」ではないのである。小林先生は、一市井人としての自分が自前で出入りできないような店は敬遠した。接待されても悦ばなかった。えてしてそういう店は頭で食わせようとしている、由緒や飾りや客のご機嫌取りに神経が行き、その日の素材を活かしきる神経が徹底していない、だからうまくない、と言っていた。「甚五郎」は、そういう店ではないのである。
小林秀雄は、文学でも音楽でも、一流だけを相手にした、二流以下には目もくれなかったと言われ、それはたしかにそうである。が、その「一流」が取り違えられ、小林秀雄は料理も「名のある一流」を好んだにちがいない、という思いこみが世間にはあるようなのだ。誤解である。小林先生にとっても読者にとっても、たいへん不幸な誤解である。
大阪から帰って、菅原國隆さんに「甚五郎」でのことを話した。新潮社で小林先生の係を務めた編集者は何人かいるが、前に紹介した齋藤十一さんに次いでよく知られた編集者が菅原さんである。小林先生、齋藤さんはともに寅年生れだったが、菅原さんも昭和元年(一九二六)の寅で、二十一年戌年生れの私からではざっと二回り上の先輩だった。戦後すぐに新潮社に入り、齋藤十一編集長の下、三十三年五月からは先生のベルグソン論「感想」を『新潮』に連載し、「感想」の後は「本居宣長」に道をつけるなどした大先輩である。
菅原さんは、私から、小林先生の「君、この店、うまいよ!」「どうだ、うめえだろう!」を聞くや、先生の周りでもほとんど知られていないがね、と前置きし、先生のいわば隠密行動を明かしてくれた。先生は、ふだん住んでいる鎌倉から東京、横浜などへ出たとき、時間が余ると独りで裏通りを歩く。そして、寿司でも蕎麦でも中華でも、外から見てこれはと思うとその店へ入り、気にいったとなると折々通って主人や板前と仲よくなる。しかし、誰にも言わない、誰も連れていかない。なぜかといえば、そこで誰にも邪魔されることなく独酌を楽しみたいからである。こうした先生だけの小体(こてい)な店は、いくつかあるらしいのだが、菅原さんにしても全部は教えられていないという。
なるほど、そうか……。「甚五郎」も、先生にとってはそういう店だったのである。それが外での「君、この店、うまいよ!」であり、二階に上がってからの「どうだ、うめえだろう!」だったのである。
「甚五郎」での先生と、菅原さんから聞いた先生、さらには別の機会の私の相伴経験も併せて、ことほどさように小林先生は食べることも好きであり、本を読んだり音楽を聴いたりするのと同じように熱心だったと、私は読者や友人に語ってきた。しかしいま、この「随筆」にそれらの顛末を書いてみて、「甚五郎」での先生は、単に食べることが好き、それだけではなかったのだということに思い当った。
うまい店は外見でわかるとは、よく言われることではある。ごくごく普通の生活人である私でさえ、そういう勘の的中経験はいくつかある。これは恐らく、人間誰にも備わっている直観力のなさしめるところなのであろう。だが問題は、この直観力を磨き、鍛えて、より鋭くより素早く、活かそうとするかどうかである。小林先生は、日常生活のあらゆる場面で直観力を磨き、鍛え続けていた、そこに思い当ったのである。
先生の「本居宣長」は、昭和四十年の六月から『新潮』に連載された。私が先生の係を命じられたのは四十六年八月で、連載は七年目に入っていたが、そのころ、文壇では、いつ終るとも知れない先生の筆づかいが取り沙汰されていた。というのは、新聞小説でも雑誌の連載でも、期間は一年、延びても二年、例外的に三年というのが当時の相場であり、五年どころか七年目に入っても先が見えない先生の連載は、内容とは別にその悠長さが揶揄されるところともなっていた。
先生と親しい作家たちは、それを先生の前で口にして、「いつまでやってんだ」「そんなに書くことがあるのか」などと、むろん親愛の情をこめてだが挨拶代りに言ったりしていた。それに対して先生は、「なに言ってんだ、余計なお世話だ。僕はふつうに歩いているのに、君らが車に乗ったり飛行機に乗ったりして、おい小林、いつまでぐずぐずしてんだなどと言ってるだけなんだ。君らの仕事が速すぎるんだ。宣長さんは『古事記』に三十五年もかけたんだ。その宣長さんを読んでいる僕が、五年かかろうと十年かかろうと、どうということはないのだ」と言っていた。
そういう先生の係になって五年、という頃のことだ。「本居宣長」は、連載十年を過ぎていた。鎌倉のお宅を訪ねて応接間で待っていると、先生が片手で髪をかき上げながら入ってきて、苦笑まじりに言われた、「ゆうべ、また言われちゃったよ」。それだけで私にはわかった。「また、いつまでやってんだ、ですか?」、私は、先生が向かいの椅子に腰を下ろすのを待って、言葉を継いだ、「宣長の像が変ってきているのですか?」。先生の口許が険しくなった。「いや、そうではない」。語調も厳しくなった。
「……宣長さんの像は、書き始めたときから少しも変っていない。宣長さんという学者は、こういう学者だ、きっとそうだ、最初に『古事記伝』を読んでぴんときたこの直観は、今もまったく変らない。変るのではない、精しくなるのだ、最初に閃いた直観の裏付けをとろうと思って読んでいると、読めば読むほど宣長さんの像が精しくなるのだ。それが何年もかかっている理由だ、それだけだ……」。
直観……。今にして思えば、「本居宣長」だけでなく、先生の仕事はすべて直観から始っていた。先生は、別の日にこうも言っていた、――最初にあるのは直観だ。だが天才はいざ知らず、僕らのような凡才は鍛錬が頼りだ。僕は鍛錬している。見るもの聴くもの触るもの、あらゆる物を相手に毎日直観力を鍛えている……。
菅原さんが話してくれた裏通りの店探しは、むろん、うまいものとは何かをよく心得た店を見つけてうまいものを食べたい、その一心からであったのだが、それは同時に、直観力の鍛錬でもあったのだ。うまい店を外からうまいと見て取る視覚、中に入って出されたものを食べて、間違いない、この店は本物だと納得する味覚、この永年にわたって鍛えられていた視覚・味覚一丸の直観力が、「甚五郎」を目にしてとっさに閃いた、その瞬間の叫びが「君、この店、うまいよ!」だったのであり、その直観の正しさをじかに確かめえた快哉の声が「どうだ、うめえだろう!」だったのである。
小林秀雄は、知の人と思われている。だからいきなりこういう比喩を用いると、突拍子もないと顰蹙を買うかも知れないが、「甚五郎」を目にした瞬間の先生の直観は、本居宣長に初めて出会ったときの直観と同心円を描いていた、と言っていいのである。そして、「甚五郎」の刺身をうまいと感じた味覚のよろこびは、「本居宣長」を書き上げ、宣長という人はやはりこういう人だったと得心できた知のよろこびと同じだった。小林先生にあっては、読むこと、見ること、考えること、聴くこと、飲むこと、食べること、これらの間に区別はなかった。すべては小林秀雄いかに生きるべきかを考え工夫する行為であり、これらの行為を通して得られた感性の認識は、すべてがいかに生きるべきかに収斂していっていたのである。
(第十一回 了)
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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