小林秀雄の名講演のひとつに、「信ずることと考えること」(「新潮CD 小林秀雄講演」第二巻所収)がある。この講演は、昭和四十九年(一九七四)八月、鹿児島県霧島での「全国学生青年合宿教室」に出向いて行われたが、小林秀雄は、毎年八月、九州で行われていたこの合宿教室に、昭和三十六年から五十三年にかけての間、五度赴き、全国から集った三、四〇〇人の若者たちに朝の八時半から二時間にわたって講義、そのあと小休止を挟んで約一時間、今度は若者たちの質問に答えた。その若者たちの質問と小林秀雄の応答とを本にしたのがこの一月、新潮文庫に入った『学生との対話』であるが、「信ずることと考えること」の講義後には、ひとりの学生がこう質問した。
――人間は、どんなに考え続けても、考えているだけでは信ずることには到達しないのではないかと思うのです、信ずることと考えることは、ずいぶん違うのではないかという気がしています、そのことを伺わせて下さい……。
これを承けて、小林秀雄は、私が前回ここで紹介した「身交う」についてまず話す。
――「考える」ことを、昔は「かむかふ」と言った。最初の「か」には意味はなく、ただ「むかふ」ということだ。この「む」は「身」であり、「かふ」とは「交ふ」です。つまり、「考える」とは、自分が身をもって相手と交わることだ。……
続いて、こう言った。
――だから、考えるとは、つきあうことなのです。ある対象を向こうへ離して、こちらで観察するのは考えることではない。対象と私とがある親密な関係に入り込む、それが考えることなのです。人間について考えるというのは、その人と交わることです。そう思ってみると、信ずることと考えることは、ずいぶん近くなってきやしませんか……。
そして、身交う、交わるの達人が、私たちの親、わけても母親だという。
――「子を見ること親に如(し)かず」というだろう。親は子どもと長いあいだ親身につきあっているから、子どもについていちばんよく知っているのです。この「知る」は、学問的に考えて知るのではない。本当の「知る」ということ、「考える」ということは、そういうことなのです。……
学問的に考えて知るとは、あるひとつの観点を設けて、その観点に立って対象となるものを観察し、解釈する、そういう知り方である。しかしこれでは、その観点のフレームの中に入ってくるものしか観察できない。フレームのすぐ外に前代未聞の現象や物体が現れていてもそれをそうと見てとることはできない。何であれ物事を本当に知るためには、観点など取り払わなければ駄目なのである。
――母親は子どもに対して、観点など持っていません。彼女は科学的観点に立って、心理学的観点に立って、子どもの心理を解釈などしていません。母親は、子どもをチラッと見たら、何を考えているかわかるのです。そういう直観は、交わりからきている。交わりが人間の直観力を養うのです。……
現代の学問は、科学的観点というものを競いあっているように見える。しかし、科学の分野でも、優れた発明をした人、発見をした人は、観点などというものにとらわれず、みな長い時間をかけて、対象を本当の意味で考えてきた、自分の実験している対象、観察している対象と、深く親身につきあい交わってきた、科学的真理もそれを本当に知るためには、浅薄な観察では駄目である……、小林秀雄は、そうも言っている。日頃、科学畑の本や雑誌を手にとることはほとんどないと言っていい私だが、そうか、優れた科学者は、自然というものと身交っているのかと、頭では即座に理解できた。
それが一昨年、化学者の大村智さんがノーベル生理学・医学賞に決まり、大村さんの研究歴がテレビで詳しく報じられるのを見て、なるほど、これが科学者の身交うということなのだと合点した。大村さんは、学会であれゴルフであれ、行く先々でその土地の土をわずかずつだが掬い取って持ち帰る、そして研究室で土の中の微生物が産みだす天然有機化合物に神経を集中する。この、土の蒐集と観察は四十五年余りにもなり、こうしていままでまったく知られていなかった四八〇種以上の新規化合物を発見、これによって感染症などの予防、さらには撲滅、そして生命現象の解明に大きく貢献したのだという。大村さんが、土の中の微生物のことを、まるで人間の子どもに目を細めるかのように話し、微生物にいくつもいくつもいろんなことを教えてもらっていると語るのを聞いて、まさにこれが「身交う」ということだと思ったのである。
だが、いまはもう、大村さんのような科学者は、減っていくいっぽうであるらしい。ある観点を設えて、ある方法に従って、ある方向に対象を解釈する、それがいまの学問であり、そこで言われる「考える」は、一定の観点をセットし、一定の方法を編み出し、一定の解釈を誇示する、そういう一連の行為である。「考える」という言葉が、日々そういう意味合いで飛び交っている大学に身を置いていれば、九州の合宿教室で、信ずることと考えることはずいぶん違うのではないかと訊いてきた学生の言もよくわかる。しかし、小林秀雄に「考える」は「身交う」だ、親身に交わることだと言われてみれば、なるほど、考えることは信じることと近い。信じることがまずなければ、親身に交わることはできない、家族、学校、職場などの人づきあいを通じて、私たちはよく知っているのである。
ではいったい、いつから「考える」は、ある観点をセットして、ある方法に従って、ある方向に解釈する、そういうことになってしまったのか。小林秀雄は、同じ学生の質問に答えていくなかで、こう言っている。十七世紀フランスの思想家パスカルに、「人間は考える葦である」という有名な言葉があるが、
――「考える葦」というパスカルの言葉について、僕は書いたことがあります。パスカルは、人間はいろいろなことを考えるけれども、何を考えたところで葦のごとく弱いものなのだと言いたかったわけではない。人間は弱いものだけれども、考えることができる、と言いたいわけでもない。そうではなくて、人間は葦のようなものだという分際を忘れて、物を考えてはいけないというのが、おそらくパスカルの言葉の真意ではないかと僕は書いたのです。……。
この言葉は、さらに続く。
――物事を抽象的に考える時、その人は人間であることをやめているのです。自分の感情をやめて、抽象的な考えにすり替えられています。けれど、人間が人間の分際を守って、誰かについて考える時は、その人と交わっています。……
そしてこの後、ここではすでに述べた「子を見ること親に如かず……」が、物事を抽象的に考えることの対極として語られるのだが、こういうふうに読んでみると、ある観点をセットして、ある方法に従って、ある方向に対象を解釈するという現代学問の「考える」は、まさに人間は葦のようなものだという分際を忘れているということだろう。
パスカルの「考える葦」について、僕は書いたことがあります、と言っているが、それは昭和十六年の七月、八月、三十九歳の夏に書いた「パスカルの『パンセ』について」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第14集所収)をさしている。もうその頃から、小林秀雄は学者や文化人の、人間の分際を超えた物の考え方や物の言い方に対して腹をすえかねていたのである。
次回はそこを読んでいこうと思う。人間が、というよりこの私が、いつのまにやら人間の分際を超えてものを考えるようになっていて、ということは、物事を抽象的に考えるようになっていて、もはや人間であることをやめてしまっているとする、にもかかわらずそのことに気づかず、思慮分別十分ありげに振舞っているとしたらお笑い種であろう、人生がとっくに空洞になっているのに、それを知らない裸の王様だからである。
(第十六回 了)
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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