鮎の季節がきた。春の桜が終わり、新緑の候となると、小林秀雄先生の心は西へ向かった。毎年六月、鮎漁が解禁となるや、真っ先に「平野屋」へ走った。
「平野屋」は、京都・嵯峨にある鮎料理の老舗である。愛宕山の麓、愛宕神社の一の鳥居のすぐ脇に茅葺の店を構えている。創業は江戸の初期、もともとは愛宕神社の参拝客向けに茶屋を開いていたが、江戸の後期に愛宕山麓の清滝あたりで買い求めた鮎を京都一円の料理屋に運ぶ鮎問屋も始め、そのうち茶屋で鮎料理も出すようになったのだという。四年前、小林先生の生誕111年と没後30年を記念して『芸術新潮』が特集を組んだとき、私もしばらくぶりで訪ねていって、第十四代の女将、井上典子さんにいろいろ聞かせてもらった。
小林先生は、春は桜の見頃に合せて自分の日常を律するというほどに自然の微妙な味わいを究め続けたが、夏の鮎も同じだった。先生の晩年、旅やゴルフに行を共にすることの多かった漫画家の那須良輔さんが、先生が亡くなってすぐに造られた『新潮』の臨時増刊「小林秀雄追悼記念号」に、「好食相伴記」と題して書いている、――鮎という魚は腹ワタを食わなきゃ何にもならないのだが、その腹ワタに砂をのんでいたのではもう鮎じゃない。岩につく水アカだけを食って育った鮎でないと駄目なんだ……。那須さんは、球磨川の鮎が全国的に知られる熊本の出身である。小林先生を球磨川へ案内して、大いに褒められたと事あるごとに自慢していたが、腹ワタのことは私も先生から直かに聞いた。
「平野屋」では、店の裏手を流れる愛宕山の湧水を引いて、敷地のなかに生簀(いけす)を造っている。近所で採れる硯石で周りを囲い、ここに釣られてきたばかりの鮎を放って一晩休ませる。こうすることで、鮎はのんでいた砂を吐き、生気を取り戻す。こうして「平野屋」では、六月の若鮎に始って七月、八月はまさに盛り、九月になると子持鮎、落鮎と続いて、季節は十月半ばまで及ぶのだという。
しかし、小林先生が、「平野屋」へ走ったのは毎年六月であった、六月でなければならない理由があった。先生の目当ては、若鮎だった。一般に、鮎と言えば丸々と育った大ぶりの鮎が好まれるが、先生は六月中旬から下旬にかけての頃の、三寸五分から四寸(十センチ強)といった大きさの鮎を好まれた。好むというより、はっきり狙いをつけていた。鮎はこの頃こそが食べ頃なのだと言っていた。あたかも桜に見頃があるようにである。先生は、これをいつも塩焼きで召し上がったそうだ。
私が小林先生の係を命じられたのは、昭和四十六年(一九七一)八月であったが、それからほぼ一年経った四十七年六月の今頃、お宅へ参上して相談したいことができ、そのための都合を聞かせてもらうべく電話をした。いつものように最初はお手伝いさんが出て、代って先生が出られるや、いきなり「昨日、京都へ行ってきた、今年も食ってきた」と言われた。私は意味がわからなかった。短く曖昧に受けると、「鮎はね、三寸ちょっとか四寸、これが一番うまいのだ、十センチかそこらだね」と言われ、「で、何か用か」と訊かれた。
その数日後、先生を訪ねて仕事上の相談をし、雑談となってから「京都の鮎」について聞かせてもらった。先ほど書いた「鮎という魚は腹ワタを食わなきゃ何にもならないのだが……」という那須さんの「相伴記」に見える話は、そのとき私も聞かされたのだが、球磨川ほどではないにしてもそこそこ知られた郷里の川で、丸々育って次々釣り上げられる鮎を郷里の誇りにしていた私は、先生の言われる「鮎は三寸ちょっとか四寸」がすぐには実感できなかった。
結局、先生には、それ以後「三、四寸の鮎」について聞かせてもらう機会はないままとなった。「平野屋」へ行って、私も実際に食してみれば話は早かったのかも知れないが、それもおいそれとはできなかった。先生が、それほどまでにして味わってこられた「平野屋の鮎」を、徒疎(あだおろそか)にも仕事の合間を縫って、などというあわただしさのなかで口にすることはできないという気持ちが強かった。
「平野屋」を訪ねて、「三寸ちょっとか四寸の鮎」の賞味に与ることができたのは、先生が亡くなった後だった。しかし、やはり、すぐには得心できなかった。なるほど、うまい、だが、なぜ先生は、あれほどまでに「三寸ちょっとか四寸の鮎」だったのか……。それからというもの、折あるごとに酒席の話題にしてみたりもしたが、いっこうに埒が明かなかった。
ところが、ようやく埒の明く日がきた。ある会でこの話をしたところ、食味ライターのGさんが、『魯山人味道』という中公文庫を持ってきてくれた。「魯山人」とは、北大路魯山人である。明治十六年(一八八三)に生れて昭和三十四年に亡くなった人であるが、中公文庫のカバーには、「書をよくし、画を描き、印を彫り、美味を探り、古美術を愛し、後半生やきものに寧日なかった多芸多才の芸術家」とまず紹介され、その魯山人が、「終生変らず追い求めたのは美食であった。折りに触れ、筆を執り、語り遺した唯一の味道の本」、それがこの『魯山人味道』であるという。
一読、これだと思った。魯山人は、『魯山人味道』のなかで、「若鮎の気品を食う」と題して、大意、こう言っていた。
――若鮎は、まず姿のよさに魅せられる。気品の高さというものがある。その気品の高さは一人前の鮎に較べて問題でないまでに調子の高さがある。口贅沢を極めた後に初めてわかる味である。……
若鮎は、口贅沢を極めた後に初めてわかる味……。いくら「平野屋の鮎」であるといっても、私ごときが一、二度食してその場でわかるというものではないらしい。
――鮎は頭から尾先まで余さず、一口か二口に食う。鮎のわたの苦味はまた格別の風韻が口に美しく残る。……
小林先生が言っていたワタである。魯山人もワタのことは、他でも強い口調で言っている。
――若鮎も三寸五分、四寸となると、いよいようれしい姿になって、一目見ただけで矢も楯もたまらず食指は動く。
小林先生が言っていた、あの「三寸ちょっとか四寸」である。
――鮎は大きさの加減でも獲れ頃でも味が大いにちがう。京都あたりで言えばまず六月中、大きさでなら五、六寸がよいようだ。八寸も九寸もになったのでは面白くない。若鮎から子持ちになるまでの間、肉の分子が細かくなめらかな間が美味いのである。……
「美食家魯山人」と言えば、「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)である。「星岡茶寮」とは、魯山人が主導して、大正・昭和の文壇、政界、財界と、各界にわたってあまねく歴々を魅了した料亭であるが、小林先生にはその「星岡茶寮」と魯山人に格別縁の深い友人が二人いた。秦秀雄と青山二郎である。昭和十三年、三十六歳の頃から先生は狐がついたと自ら言うほど骨董、特に焼物に打ちこんだが、その道の達人として名の高かった秦秀雄はかつて「星岡茶寮」の支配人を務め、同じく青山二郎は昭和の初めから魯山人のもとに出入りするなど、二人は魯山人を知り尽くしていた。先生は、この二人から、あるいは二人を介して直接に、魯山人の話を聞くことがあったのだろうか。それとも、魯山人とは別に、先生独自の若鮎開眼があったのだろうか。経緯はどうあれ、先生が「三寸ちょっとか四寸の鮎」に惚れこんだ理由は、魯山人が記しているところとほぼ同じであったであろう。
ただし、先生が、「三寸ちょっとか四寸の鮎」に惚れこんだ理由が魯山人の言うところとそっくり同じであったとしても、先生が魯山人の話を鵜呑みにしたということではけっしてない。先生は、舌であれ目であれ耳であれ、自分の五官が首を縦にふらないかぎり何事もよしとはしなかった。ましてや世評が高いというだけでは、そこへ足を運ぶということは絶対にしなかった。何度も何年も足を運ぶということは、とことんそこが気にいっているか、気になってしようのないことがあるのにそれがどうしてだかわからないとか、そういう理由によってのみであった。「平野屋」は、とことん気に入って、全幅の信頼を寄せていたのである。
この連載の第四回で、「微妙という事」について書いたが、小林先生の人生態度は、日々の折々、四季の折々、「微妙なもの」との出会いとその味わいを身体にしみこませるということ、そこに尽きていたと言ってよい。なぜなら、自分はなぜ生まれてきたのか、どうすれば幸せになれるのか、そこを自力で見てとり感じ取って、しっかりそれを生きるよすがとしようとすれば、その手がかりはすべて微妙なところに潜んでいる、あるいは微妙な現れ方をする、否むしろ微妙な現れ方しかしない、からである。毎年六月の「三寸ちょっとか四寸」の鮎、それも腹ワタの風韻、これもまたこの世の微妙の最たるもののひとつであろう。
小林先生が、それを自然のままに時季を逃さず食し、味わい続けたということは、むろん味覚という人生最高のよろこびを余すところなく享受するための具体的な行動であったのだが、それは同時に、この世に生きていることによって直面するありとあらゆる事象に対して、常に的確に、柔軟に対応する全身体の直観力の馴致でもあったのである。
(第十八回 了)
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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