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おんなのじかん

2020年7月15日 おんなのじかん

20. ダイエット・ア・ラ・モード

著者: 吉川トリコ

 ダイエットをはじめてかれこれ20年近くになる。
 しかし、一向に痩せる気配がない。それどころか年を追うごとに体重・体脂肪ともに右肩あがりの第二の成長期(俗に中年期ともいう)に突入している。
 漫然とジムに通い、漫然と糖質制限をしながら、三日にいっぺんぐらい"がんばった自分へのご褒美"にケーキを食べたりビールを飲んだりカップ焼きそばをほとんど噛まずに貪り食ったりしてるんだから、客観的に見たらそりゃ痩せるはずもないだろうが、本人はいたって大真面目に「ダイエット中」の看板を掲げている。もう長いことずっと「ダイエットをしていない時期などない」ぐらいの認識なのである。昨日は夜の九時過ぎにビールの大瓶を二本飲み、台湾ラーメンとチャーハンをかっ食らったけど。

 思えば子どもの頃から、痩せていたことが一度もない。いつもだいたい平均体重かやや肥満気味。もともと筋肉がつきにくく脂肪をためこみやすい体質だったのと、運動嫌いなのと食いしん坊なのと怠惰な性格があいまって、愛のままにわがままにすくすくと育ってしまった感がある。
 「お菓子ばかり食べてないで、ちょっとは運動しなさい」
 母にはよくそう言って叱られた。
 小食で太りにくい体質の母は、ぱんぱんに肉の詰まったソーセージのような娘の肉体がとにかく不気味だったんだろう。妹二人は大食いのわりに背が高く痩せ型で、ちんまりころころしているのは私だけだった。自分が産んだはずなのに、自分とはぜんぜんちがう得体のしれない生き物がソファに寝そべってもぞもぞと休みなくなにか口に入れていたら……と考えると母の気持ちもわからなくはない。女子高生の姿をしたザムザみたいなものだもんな。
 「ぶくぶく太ってみっともないったら。あのお尻見てよ、牛みたいでしょ」
 近所のおばさんが家に遊びにくると、聞こえよがしに愚痴ったりもしていた。現在の感覚からすると、十代の子どもにそんなことを言って摂食障害にでもなったらどうするんだとひやひやしてしまうが、さいわいなことに私のメンタルは鋼のように強く、痩せたいよりも食べたい気持ちのほうが、がぜん強かった。
 「まあまあ、心配しなくても大丈夫だって。年頃になれば女の子は自然と痩せるから」
 そのとき、近所のおばさんがフォローするように口にしたその言葉を、ある時期まで私はそのまんまの意味で丸ごと信じ込んでお守りにしていた。そっかそっか、いまはホルモンバランスのせいで太ってるけど、もうちょっと年をとれば自然と肉も落ちるんだね、やったねハッピー♪ と安心しくさっておおいに食っちゃ寝した。私が摂食障害に陥らずに済んだのは、もしかしたらこの言葉のおかげもあったかもしれない。単に屈託がなさすぎただけかもしれないが。
 まさかそれが、「まあまあ、心配しなくても大丈夫だって。年頃になれば女の子は恋をして、きれいになろうと努力するものよ。そのうちダイエットに励むようになって自然と痩せるから」の意味だとは思ってもみなかった。「自然と」ってなにかね? 「自然と」って! いくらなんでも無責任すぎるだろ! 子どもが鵜呑みにしたらどうするんだ! といまからでも殴り込みにいきたいぐらいである。
 いざ年頃になってもまるで痩せる気配のないまま、いくつか恋などをし、その相手から「もう少し痩せたほうがいい」だの「これ以上太ったらアウトだよ」だのといった心ない言葉をぶつけられるようになってようやく私は、「自然と」に含まれていた真の意味を知ることとなる。あれだけ母から痩せろと言われてもまったく聞く耳を持たなかったくせに、男の子たちからの評価はそのまんま自分の価値なのだと思い込み、「痩せなきゃ愛されない」「これ以上太ったら抱いてもらえない」等々、ここに書くのもうんざりするような落とし穴に見事に嵌まってしまった。20年以上に及ぶダイエットを開始したのはその頃からである。

 そういえば、半年ほど前に近所の蕎麦屋で昼食を食べていたら、
 「あー、おなかいっぱい。まだ食べるの? よくそんなに食べられるね?」
 という女性の声が隣から聞こえてきた。
 職場の先輩と後輩とおぼしき20代後半ぐらいの女性たちで、二人とも山菜蕎麦を食べていた。先輩のほうは丼の中にまだ蕎麦を残したまま箸を置き、後輩のほうはまだしっかり箸を握りしめていた。
 「もうおなかいっぱいなんですけど、私、食べ物を残せないんです。そうやって親に厳しく言われて育ったから……」
 「無理しないほうがいいよ。残したほうがいいって」
 「いや、でも私ほんとにだめで、作った人や農家さんに申し訳なくなっちゃうんですよ」
 という攻防がしばらく続いた。
 まだぜんぜん食い足りないからぜんぶ食べるんだって正直に言えばいいのに、と隣で海老天おろし蕎麦をすすりながら私は思った。その店の蕎麦は控えめな量で、三回ほどすすったらなくなってしまった。私のほうは天ぷらが載っかっていたからかろうじて満足感を得られたものの、山菜蕎麦なんて食ったうちにも入らないんじゃないだろうか。
 「それ以上太ったらセックスレスになっちゃうよ。夫婦仲の秘訣はなんといっても体型維持。気をつけたほうがいいよ」
 放っておいたら先輩は、そんなことまで言い出した。若いのにこの価値観か、と一瞬気が遠くなりかけたが、若いからこそなんだろうな、とすぐに思いなおした。
 ちょうどそのとき、蕎麦を食いながら読んでいたのが南綾子さんの『ダイエットの神様』(「女よ、男なんかのために痩せるな」という帯がたのもしい)だったんだけど、そのまま献本すればよかったかな。後輩のほうは大丈夫そうだから、先輩のほうに。
 私だって若い頃は似たようなことを考えていたから、彼女の気持ちはよくわかる。セックスレスはなにより避けねばならぬ忌み事で、男から性的対象として見られなくなったら女は終わり、愛こそすべて……等々、まるで女性誌の刷り込みのままの世界に生きていた。いまとなっては笑っちゃうほどバカだなと思うけど、バカなりに当時は真剣だったのだ。

 もしいま、あの頃の自分に言葉をかけられるとしたらなんて言うだろうと考えてみたけれど、「好きにしろ」に尽きると思う。
 いいかい、よく聞きな。痩せるのも太るのも自分の好きにしろ。他人の声に惑わされるな。世の中には「痩せているほうがいい」「太っていることはだめ」というメッセージがあふれているが、そんなものを気にすることはない。大事なのは自分がどうしたいのか、食べたいのか痩せたいのか、自分の欲望をきちんと見極めろ。健康と体力づくりのために多少の運動はしたほうがいいと思うが、運動ではそんなに痩せないからそのつもりでな。あと近所のおばさんが言ってたあれ、あんなうまい話があると思ったら大間違いだからね? なんの努力もせずかんたんに痩せられると思ったら泣きを見るからね?
 もしあんたが太ってる人生を選ぶなら、そのことで自虐するのは今後一切やめろ。自分のためにも人のためにもいいことなんて一個もない。たっぷりとはちきれそうな肉体をさらし、堂々と世界に対峙していればいい。もしあんたに向かって「デブ!」などというなんの工夫もないIQ3ぐらいの罵倒をぶつけてくるやつがいたら、「あ?!」と腹から声を出してにらみ返してやれ。他人にあんたの体をジャッジする権利はない。たとえ彼氏や家族であったとしてもだ。それにセックスは人生のすべてじゃないし、太っていることだってあんたのすべてじゃない。
 ただし、「やだー、太っちゃーう」などと言いながら夜中に食べるパフェやラーメンはこの世で最上の美食なので、そういうときは大いに利用しろ。私からは以上だ。

 ある時期まで私は、太っていることは醜いことだと思っていた。だから自分の肉体を醜いものだと思っていた。「太ったひよこみたい」「象のような太もも」「もうちょっと痩せれば?」などなど、他人から投げつけられた言葉にいちいち傷ついて、いまも忘れられないでいるのはそのせいだ。同じように私も、だれかに心ない言葉をぶつけて傷つけてしまったことがあっただろう。もし過去に(この先も)そんなことがあったら、いつでも謝るから教えてほしいと思う。
 渡辺直美を表紙に起用した"ぽっちゃり女子"のためのファッション誌『la farfa』が創刊されたのが2013年。世界中で爆イケのプラスサイズモデルが台頭し、ボディポジティブがしきりに叫ばれるようになってようやく、「っていうか太っててなにが悪いの?」と思えるようになった。もしかしたら加齢も手伝っているのかもしれないが、メディアや美容業界が金棒のようにぶんぶん振りまわしている「きれいじゃなければ女じゃない!」の呪縛から解き放たれて、自由になったと感じるのはここ最近の話である。
 自分の体を醜いとはもう思わない。まるく突き出たおなかも、たぷたぷと脂肪のフリルをつけた二の腕や太ももも、大切な私の一部だ。
 それでも、いまなおダイエットを鋭意続行中なのは、わざわざ言う必要もないぐらいあたりまえのことだけど、痩せたいからである。
 一時期までは「他人にバカにされたくない」というのが、ダイエットのいちばん大きな動機だった。他人の目を気にして自分を型に嵌め、自分自身の欲望を無視することがいかにバカげたことであるかは前述したとおりである。
 いまは健康維持のためと、これ以上太ったらおきにいりの服が着られなくなる(すでに着られなくなっている)から。そしてなにより痩せている体に憧れがあるので、もしそうなったら自分が気持ちよくいられるだろうなと思うからだ。おそらくそれは、幼い頃から浴びに浴びまくってきた「痩せている=美しい」という刷り込みのせいなのだろう。いつでも私の理想は、岡崎京子の描く胸のつんと尖った、平べったいおなかの女の子だった。
 だからと言って、ふくよかな体を美しいと思わないわけではない。いつだったか銭湯でとても美しい肉体の女性を見かけたことがある。他人の裸をじろじろ見ないというのが銭湯での最低限のマナーではあるが、そんなことも忘れてつい見惚れてしまうほどだった。まるでボッティチェリのヴィーナスのようだとそのとき思ったが、これを書くにあたってネットで「ヴィーナスの誕生」を確認してみたら、銭湯で見かけた女性のほうがはるかに豊満な肉体をしていた。
 なにを美しいと感じるかは個人の自由だ。容姿で序列をつけたり他人と比較したりそこに価値を置きすぎさえしなければ、「好きにしろ」に尽きる。
 「痩せている=美しい」という刷り込みから完全に自由になるのは難しいかもしれないけれど、ストイックに節制し、磨き抜いた努力の結晶としてのスレンダーな肉体を称賛し、まぶしく仰ぎみるような気持ちがあるのもたしかだし、ボッティチェリのヴィーナスのようなふくよかな肉体を美しいと感じる基準が自分の中にあることを頼もしく思う。よく太ったみずみずしい大根を丸かじりするのと、かつら剥きにして美しく細工された大根を椀物でいただくのとでは、同じ大根でもちがうおいしさがある。

 ――と、ここまで御託を並べておきながら、20年もだらだらとダイエットを続けてきて、痩せるどころか雪だるま式に体重を増やし続けているのだから、ほんとうはさして痩せたいわけじゃないのかもしれないと最近では自分を疑いつつある。今日も朝から、ああ痩せたい、痩せたいとつぶやきながら、チキンラーメンにごま油をたっぷりかけてざばりと流し込んだところである。

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「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

吉川トリコ

よしかわ・とりこ 1977(昭和52)年生れ。2004(平成16)年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』(Rose/Bleu)『女優の娘』などがある。

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