幼稚園で一回、小学校で三回、中学校で一回、合わせて五回、転校している。
そのせいなのかはわからないけれど、友人関係というものは定期的にリセットできるものだと思っているようなところがある――なんて書いたら、これを読んでいるかもしれない友人たちにぎょっとされてしまいそうだが、まあちょっと聞いてほしい。
私が生まれ育ったのは浜松市の郊外にある祖父母の家で、同じ集落にはみほちゃんとありちゃんという女の子がいた。二人とは通っていた幼稚園も同じで、いつもくっついて遊んでいた。顔はぼんやりとしか思い出せないけれど、名前だけははっきりとおぼえている。
両親が浜松市の中心部にマンションを買って幼稚園を転園することになり、その二年後には親の離婚で名古屋に移り住んだ。岐阜の田舎から名古屋に出てきた叔母二人と母と私と妹(ま)の女ばかり五人の生活が始まったが、それもわずか一年半で終わりを迎える。母に男ができたからである。その人といっしょに暮らすため、私が小学校三年生にあがるときに隣町へひょいと飛び移るような転校をし、私が小学校五年生にあがるタイミングで再婚することになったので、姓が変わったのをきっかけにまたさらに隣町へ転校することになった。
あるとき、前の学校の友人たちがサプライズで新しい家に押しかけてきたことがあった。表札の名前がちがうことに気づいた友人たちは、「なんで?」と私に訊ねた。「えっ?」と私はしらばっくれた。子ども部屋に押し入ってきた友人たちは小学校の名札がついた上着をめざとく見つけ、「やっぱり名前変わってるじゃん! なんで? 親が再婚したの?」と追及の手を休めなかった。「あれえ? なんでだろう、気づかなかった、おかしいなあ」と私はおバカさんのふりをしてみせたが、そんなへたくそな嘘が通用するはずもなく、なんとなく白けたかんじになって友人たちは自転車で隣町に帰っていった。
どうしてあんなに必死になって隠さなければいけなかったんだろう。あのときのことを思い出すといまも喉のあたりがきゅっと締めつけられる。
当時はまだ離婚を恥だとみなす社会通念が幅をきかせていたのか、だれにも言っちゃだめだと母からも強く言い聞かされていたし、周囲でも親が離婚・再婚したなんて話は聞いたことがなかった。しかも、姓が変わるたびに転校させられていたのである。「親の離婚・再婚を他人に知られることは即ち死を意味する」と幼い子どもが強く思い込まされてしまっても無理はないだろう。クラス名簿の保護者の欄に女性の名前が書かれていると、「片親」だと後ろ指をさされるような空気さえ当時はあった。養父はぱっと見、女性のような名前に見えなくもないので、せっかく再婚したのにこれでは「片親」だと思われてしまうじゃないか、なんて苦々しく思っていたりもした。
親だって人間だし、離婚でも再婚でも好きにすればいいと思う。そのことで母を恨んだことは子どものころから現在にいたるまで一度もない。
しかし、それはそれとしてやっぱり転校続きの思春期はつらかったので、せめてネタにすることぐらいは許してほしい。あれから三十年を経てこんな形で暴露することになって母には申し訳ないが、これで貸し借りなしってことで。
最後の転校は中学二年生にあがるときだった。郊外の町に家を買ったので、転校することになったのだ。
よりによって中二である。多感も多感、センシティブの絶頂期である。このときはほんとうにつらくて、しばらくのあいだ毎晩のように泣き暮らしていた。
引っ越し前日、両親はまだ幼かった妹(ゆ)だけ連れて、一足先に新居に泊まるということだったので、残された私と妹(ま)は友人たちを家に連れ込んでさよならパーティーを開催した。そう、アメリカの学園ものの映画やドラマなんかでよく見るあれである。クラスメイトのだれかの家にみんなで押しかけて酒を飲みながらどんちゃん騒ぎするあれ――『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』を、三十年前にすでにやらかしていたのである。しかもホスト側で。
離婚した夫婦やその子どもたちには厳しい時代だったが、その一方でニキビ面の中学生のグループが夜中のコンビニに押しかけて大量の酒を買ってもだれにも見咎められないような大らかな(?)時代だった。どう考えても逆だろ逆! と全力でツッコミたくなるが、それはいまの時代の価値観の中で生きているから言えることなんだとも思う。
その時にいたメンバーの一人とはその後も細々と文通を続けていた。某有名女性起業家と同姓同名なので、彼女の名前は忘れようにも忘れられない。色黒で目鼻立ちのはっきりしたきれいな女の子で、いつもリカちゃん人形みたいな髪型をしていた。
彼女と再会したのは高校を卒業し、それぞれ名古屋市内の女子短大に入学してすぐのことだった。入学祝いに親に買ってもらったヴィトンのエピを引っ提げてやってきた彼女を見た瞬間、「こいつ、変わっちまったな」と私は思った。名古屋のコンサバお嬢さまへと華麗なる変貌を遂げた彼女には、マリナシリーズや花織高校シリーズに登場する美少年たちにいっしょになってきゃいきゃい騒ぎ、「りぼん」の付録のノートに自作のイラスト付きで小説を書いていたころの面影などまるでなく、いかにリアルが充実しているかという自慢話ばかり一方的に聞かされた。
それきり彼女とは会っていない。
もし再会したのがいまだったら、彼女たちと再び手を結べたかもしれないのにな、と思う。いまだったら親の離婚も再婚もあっけらかんと飯のタネにできるようになっているし、たとえ自慢話ばかりだったとしても、名古屋のコンサバお嬢さまの話だって面白がって聞いてやれるだろう。四十三年も生きていると、友だちというのはタイミングがすべてだとつくづく思うようになった。
「独身の子たちとは話が合わないから会ってもしょうがない」
まだ私が二十歳やそこらのころに、高校の仲良しグループの中でいちばん早く結婚・出産した子に言われた言葉だ。当時は私も若かったから彼女の言葉をそのまんまの意味で受け取り、「なによ!」「なんなのよ!」と同じく独身の子たちとキーッ!となって、その手を離してしまった。「女の友情は壊れやすく長続きしない」となにかにつけてメッセージを発信し続けるメディアに包囲されて育ってきた私たちは、いつのまにかそれを鵜呑みにし、あまつさえ実践してしまっていたというわけである。
「大丈夫大丈夫、一度離れてしまった友だちとも、おたがい仕事や子育てが落ち着いて年を取ったころにはもう一度タイミングが合うようになるから」
そう言って予言のように慰めてくれる年上の女性たちもいたけれど、そばにいてほしい/あげたいのはそんな遠い未来じゃなくてこうしているいまこのときなのにな、とも思っていた。それは希望でもあったが、現在進行形の絶望でもあった。
けれどその一方で、家族やパートナーとはちがっていつでも手を離せる気楽なところが友だちのいいところだとも思うのだ。消耗品といったら語弊しかないが、ほんのいっときでもいっしょにいてたがいに必要とし必要とされたのなら、その時間こそがかけがえのない宝物なんじゃないかって。花びらを閉じ込めたバスボムも、甘く官能的な香りのキャンドルも、舌の上でしゅわりと溶けるアニスの砂糖菓子も、儚く消えてしまう消耗品だけれど、ほんのいっときでも心を慰めてくれるじゃないか。
度重なる転校の影響なのかはわからないけれど、密でクローズドな関係性が昔から私はどうも苦手で、「ズッ友だよ!」なんて言われようものなら、すぐさま荷物をまとめて行方をくらましたくなってしまう。毎日のように連絡を取り頻繁に顔を合わせていても、蜜月がすぎたとたん連絡を取らなくなったり、ちょっとしたすれちがいでぱったり音信が途絶えたりなんてことをこれまでに何度もくりかえしてきた。
2020年に入ってから、「ハスラーズ」「スキャンダル」「チャーリーズ・エンジェル」「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒」など、女たちの連帯を描いた映画が次々に公開され、シスターフッド旋風が巻き起こっているが、どの作品も「フレンズフォーエバー!」を高らかに謳いあげていないところが私には心地よかった。「私たち、親友だよね」なんてわざわざ大上段に構えることもなく、必要なときにたまたま近くにいただれかと気楽にドライな関係を結んだっていいじゃないか。必要なときにたまたま近くにいただれかと手を結んだだけで、べたべたした友情ごっこなんてごめんだし、この関係が永遠に続くわけじゃない。それでいいのだと、言ってもらえたような気がした。
もし両親が離婚することなくあのまま祖父母の家に住み続けていたら、みほちゃんとありちゃんとの関係はどうなっていただろう。左胸に刻んだ「フレンズフォーエバー!」の銘のもとに、幼なじみの仲良し三人組でぴったりくっついたまま大人になり、はじめてのセックスも手痛い失恋もバレルのアイスクリームを食べながら共有し、結婚式ではブライズメイドを任せたり任されたり……なんてのはさすがに夢をみすぎかもしれない。
おそらく思春期のどこかの段階でそれぞれもっと気の合う友だちや居心地のいい相手を見つけて袂を分かち、学校や近所ですれちがっても手を振り合う程度の関係に落ち着くのが現実的なところだろう。嫌いになったわけでもなければ、いっしょにいるのが楽しくないわけでもないんだけれど、ちょっとずつ疎遠になっていき、学校で他の子といるときにすれちがうとなんとなく気まずくて、そそくさとその場を立ち去ってしまう。
うっ、つらい。実際に経験したわけでもないのにありありと想像できてしまい、胸が引き裂かれそうだ。何度かの転校(とそれに伴う家庭の事情)で強制的に友人関係を切断されたほうが、この胸の痛み(疑似)にくらべたらまだましなんじゃないかと思うほどである。
それでもいつか大人になって、帰省した折にそれぞれ赤ん坊を胸に抱いた状態でばったり再会したりなんかして、「やだ、いつのまに子ども産んだの」「そっちこそー」なんて声をあげて笑える日がくれば上々なんじゃないかな。
最後に、これを読んでいるかもしれない友人たちへ、これからもどうぞ細く長く切れない程度によろしくお願いします。いま離れてしまっているあなたとも、いつの日か不死鳥のように蘇ることができたらいいなと願っています。
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吉川トリコ
よしかわ・とりこ 1977(昭和52)年生れ。2004(平成16)年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』(Rose/Bleu)『女優の娘』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
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