「明日までに報告書を出せなんて、むちゃくちゃを言う」「むちゃくちゃな量の仕事」などと使う「むちゃくちゃ」。日常的に、ついつい使うことばです。「秩序がない」「普通の度を超えている」などの意味で、江戸時代から例があります。
漢字では「無茶苦茶」と書きます。「無い茶、苦い茶」とはどんなお茶なのか。これは考えたって分かりません。この字は当て字だからです。
言語学者の金田一京助は、「むちゃ」の語源を、古い仏教語の「無作」ではないかと考えました。著名な言語学者の説ということもあって、語源の本にも引用されています。ただ、「無作」では説明のつかない点があり、そのまま受け入れることはできません。金田一自身も、著書の中でさらっと触れているだけです。
仏教語の「無作」は〈人為的な働きのないこと。自然のまま。無為〉(『大辞泉』第2版)ということです。「むちゃ」の表す「秩序がない」という意味とはかなり離れます。また、「無作」は、一般の人々の間ではあまり使われた形跡がないので、この点でも「むちゃ」につながるかどうか疑問です。
一方、「むちゃ」との関係が考えられる、複数の擬音(オノマトペ)があります。
中世に「むさむさ」ということばが広まりました。今日で言う「むしゃくしゃ」、つまり、気分が晴れなくて怒りたくなる様子や、また「むさ苦しい(散らかって汚い)様子」、そして、毛などが乱れている様子を表しました。「むちゃくちゃ」とは、何となく音や意味が似ていますね。
「むさむさ」は、仏教語「無作」とは関係がなく、純粋な擬音です。「無作」を「無作無作」と重ねることは、ちょっと考えられません。
中世にはまた、「めたと」ということばも広まりました。これは今日で言う「めったやたらに」、つまり、「度を越してむやみに」という意味です。とりわけ、「めたと酔った」など、泥酔する様子に使いました。これも擬音です。今日の「めちゃくちゃ」と音や意味が似ています。
さらには、「むさむさ」「めたと」をプラスしたような意味で使われたことばもありました。「むさと」がそうです。
「むさと」は、たとえば「髭ぼうぼうたる、むさとしたる男」のように「むさ苦しい様子」という意味がありました。また、「むさと欲しがる」のように、「度を越してむやみに」という意味もありました。そのほか、「ついうっかり、考えもなく」など、いくつかの意味でも使われました。
これら「むさむさ」「めたと」「むさと」は、お互いに影響し合いつつ、いろいろなバリエーションを生みました。大まかに古いほうから挙げると、こんな感じです。
――めったと・むったと・むっさと・むたむた・めためた・みちゃと・みったと・みっちゃと・むたと・めった・むさくさ・めっちゃくちゃ・むたくた・むっちゃ・むしゃくしゃ・むちゃ・むちゃくちゃ・みちゃくちゃ・むちゃらくちゃら・めったくた・むっちゃらくっちゃら……。
このバリエーションの中に、「むちゃくちゃ」もあります。また、今日でも使う「めっちゃくちゃ」「むしゃくしゃ」も見えます。これらは、互いに意味の上でつながりがあり、ひとつの「擬音グループ」をなしていると考えていいでしょう。
つまり、こういうことです。もともと、無秩序や程度が過ぎることなどを表す「むさむさ」「めたと」「むさと」といった擬音があった。それが、いろいろに形と意味を変化させていった。そのひとつが「むちゃ」で、調子を整えるために「くちゃ」をつけて、「むちゃくちゃ」の形ができたのです。
では、この流れに仏教語の「無作」はまったく関わらなかったのでしょうか。実は、そうとも言い切れないのですね。
ここまで、わざと触れませんでしたが、擬音の「むさと」には、「何もしないこと」という意味もあります。「むさとしている」と言えば、「無為に過ごす」ということ。これは、17世紀の『日葡辞書』にも記されています。とすると、「むさと」は、古い仏教語で〈人為的な働きのないこと〉を表す「無作」と、やはりつながるのではないか、と考える余地も出てきます。
私は、名詞である仏教語「無作」が、何の中間段階もなく、いきなり副詞の「むさと」になるのは飛躍があり、不自然だと考えます。とはいえ、「『無作』と『むさと』は、何の関係もないですよ」と言い切らなくていいとも思います。「むさと」ということばを使った人の頭のどこかに仏教語「無作」があって、何となくそれに近い意味で使った、ということがあっても不思議ではありません。
ただし、金田一京助のように、「むちゃ」は仏教語の「無作」から出た、と直接結びつけるのは短絡的です。それはあたかも、「カレーライスの原料はニンジンです」と言うのと同じぐらい短絡的です。
カレーライスにはニンジンも入っていますが、肉やタマネギも入っています。大量の香辛料も入っています。同様に、「むちゃくちゃ」という語も、「むさむさ」「めたと」「むさと」……などの擬音がまずあって、それらがお互いに交渉して生まれた、と考えるのが穏当です。「無作」は間接的には関わったかもしれない、ということです。
なお、「むちゃくちゃ」と歴史的につながる「めった」「めちゃくちゃ」は、「滅多」「滅茶苦茶・目茶苦茶」と書くことがあります。これまた、単なる当て字にすぎません。
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飯間浩明
国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
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著者プロフィール
- 飯間浩明
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国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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