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分け入っても分け入っても日本語

 伊集院光さんが朝のラジオで語った話です。以前、放送で「水を得たさかなのよう」と表現したら、ディレクターに「正しくは『うお』です。訂正を入れてください」と言われたそうです。ご本人は「『さかな』でよくね?」と、釈然としなかったとか。
 調べてみると、次のようなことが分かったと、伊集院さんは回想します。
〈「さかな」ってのは、「酒のさかな」みたいに「おかず」っていう意味がもともとは強くて、〔略〕生きて泳いでるやつは「さかな」じゃなくて「うお」なんだと〉(TBSラジオ「伊集院光とらじおと」2016年11月1日放送)
 この朝のラジオには私もゲスト出演しており、貴重なエピソードを直接聞くことができました。私は伊集院さんに味方し、「さかな」もOKです、と発言しました。
「さかな」でかまわない理由は、この表現が「○○のよう」という比喩だからです。比喩は、それぞれの人が独自の表現を用いることが許されます。
 たとえば、「蛇蝎だかつの如く嫌う」という比喩があります。「蛇蝎」はヘビとサソリで、「非常に強く嫌う」ということです。でも、「蛇蝎」は硬い表現で、通じにくい。そこで、「蛇やサソリのように嫌う」と言い換えてみる。これは何ら不都合はありません。むしろ、言い換えたほうが、意味がよく伝わるようになります。
「水を得たうおのよう」も同様です。「うお」は、今日では「魚河岸うおがし」「活魚いきうお料理」など限られた場合にしか使われません。魚類のことは一般に「さかな」と言います。それなら、分かりやすく「水を得たさかなのよう」としても問題はないわけです。
 こんなことをツイッターでつぶやいたところ、「『水を得たうおのよう』は慣用句だから、変えるべきでない」という意見がありました。これは有効な反論ではありません。慣用句には、形がほぼ一定しているものから、バリエーションの作りやすいものまで、いくつかのレベルがあります。慣用句だから変形はだめ、とは言えません。
「水を得たうおのよう」の場合、初めて文献に現れた形は「うおの水を得たる如く」でした。14世紀後半の「太平記」に出ています。でも、今日では普通、この形は使いません。つまり、慣用句は必要に応じて変形していいのです。
 この「うお」も「さかな」も、ともに古代からあることばです。伊集院さんの言うとおり、もともと両者の意味が違ったのは確かです。
「うお」の語源については、はっきりしません。信頼に足る説はなく、ここでの言及は控えておきます。意味は、昔も今も「魚類」です。
 一方、「さかな」の語源はよく知られています。「酒」の「(=おかず)」ということで、おかずになる品全般、あるいは、酒席の余興などを指しました。
「太平記」には、両者の意味の違いがよく分かるくだりがあります。鳥のミサゴが海魚をつかんで飛んでいるのを、本間孫四郎という侍が見つけました。孫四郎は弓矢でミサゴと海魚を見事に射落とし、将軍・足利尊氏あしかがたかうじに献上します。
〈御さかなのために、うをと鳥とを、推参仕つかまつさうらふなり〔=将軍に見せるさかな(余興)として、うお(海魚)と鳥とを献上つかまつります〕〉
 ここでは、「さかな」(余興)と「うお」(海魚)は、はっきり異なっています。
 では、「さかな」が魚類の意味にも使われるようになったのは、いつ頃からでしょうか。『日本国語大辞典』第2版には、魚類の「さかな」の例とされる文章が2つ出ています。17世紀初めの軍学書「甲陽軍鑑こうようぐんかん」と、19世紀初めの洒落本しゃれぼん倡客竅学問しょうかくあながくもん」です。
「甲陽軍鑑」のエピソードはこうです―さる豊かな百姓が近隣の者に料理を出したが、調理法がめちゃくちゃで食えなかった。さかなは買ってから日数が経って鮮度が落ちているのに(原文〈さかなのさがるに〉)、塩をまぶすこともしなかった。
 ―この〈さかなのさがるに〉の「さかな」は、現物はたしかに魚類です。でも、従来どおり食材としての意味合いが強く感じられます。少なくとも活魚ではないので、この文章は魚類の例に含めないほうがいいでしょう。
 一方の「倡客…」は十返舎一九の作品です。遊廓で女郎と客が騒いでいます。客は〈ソレさかながはねるぞ〉と言いながら、その場でジャンプしたりします。ばかばかしい場面です。この「さかな」は、はねているのだから、食材ではなく魚類の意味だと言えます。19世紀初めには、魚類は「さかな」と言われていたことが分かります。
 以来、200年。海や川で泳ぐ生き物のことを「さかな」と言うのは、ごく一般的になりました。現代の私たちは、「さかな=魚類」が当たり前の時代に生きています。
 もっとも、学校教育で、漢字の「魚」を「さかな」と教えるようになったのは、実はごく最近のことです。
 戦後間もない頃、漢字制限を目指した「当用漢字表」「当用漢字音訓表」が告示されました。その音訓表では、「魚」の漢字に〈ギョ うお〉の読みしか示されていませんでした。この表で学んだ世代の人(1967年生まれの私もそうです)は、「『魚』を『さかな』と読んではいけない」と教えられました。
 ところが、81年になって、日常生活で使う漢字の目安を示す「常用漢字表」が新たに告示され、学校教育でも用いられるようになりました。この表では、「魚」に〈ギョ うお さかな〉の読みが認められました。教育現場の基準は変わりやすいですね。
「水を得た魚」を「さかな」と読むのに抵抗がある人は、もしかすると、当用漢字で育った人に多いかもしれません。ことばの正誤の意識は、自分が受けた教育に左右される部分がかなり大きいものです。

 

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

飯間浩明
飯間浩明

国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。

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