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分け入っても分け入っても日本語

 1980年代に人気のあった「シブがき隊」の曲は、「サムライ・ニッポン」「アッパレ! フジヤマ」「スシ食いねェ!」など、江戸趣味のものが目につきます。このほかに「Zokkon(LOVE)」という曲もあります。「ぞっこん」ということばは、今では古風な感じもしますが、この曲名も江戸趣味を意識したネーミングでしょうか。
 「ぞっこん」は、元は「そっこん」と清音でした。17世紀初頭の日本語・ポルトガル語の辞書『日葡(にっぽ)辞書』に「Soccon」(ソッコン)の項目があって、「心の底」という意味だと書いてあります。例文として「そっこんより申す〔=心の底から真実をもって話す〕」というのが添えられています。
 「ぞっこん」の形が一般化したのは、これより後、ざっと18世紀以降です。「ぞっこん」は江戸時代のことばと捉えていいでしょう。たとえば、1780年初演の浄瑠璃「()太平記(たいへいき)白石(しろいし)(ばなし)」にはこうあります。
〈アヽ有難(ありがた)御仁心(ごじんしん)、ぞつこんに()み渡り〔=ああ、ありがたい情け心が、心の底までしみわたり〕〉
 現在、「ぞっこん」と言うと、下に「彼女に首ったけ」などのことばが来ます。つまり、惚れ込む意味を強調します。でも、先の例で分かるとおり、江戸時代には必ずしも惚れる場合に限らず、広く「心底」の意味に使っていました。
 この「ぞっこん」の語源については、「そここん(底根)」を挙げる文献が複数あります。その主張のしかたにも強弱があり、「底根から」と断言するもの、「底根からか」と断定を避けるものなど、いろいろです。
 「そここん」なんて聞いたことがありません。耳慣れない説は鵜吞みにせず、とりあえず眉につばをつけて、真偽を確かめる作業をすべきです。
 「そっこん」および「ぞっこん」は、いろいろに表記されます。「卒根」「属魂」「属懇」、そして「底根」。それぞれもっともらしく見えますが、これだけバラエティーに富んだ漢字が使われるということは、「底根」を含め、当て字の可能性があります。
 「底根」という表記は、早くは16世紀後半に成立した『逆耳(ぎゃくに)集』にも見えています。論語の「勇にして礼なき者を(にく)む」という文句を解説して、〈〔そういう人が〕底根けなげ者なり〔=心の底からの勇者だ〕〉と記しています。
 このうち「底根」の「底」に、当時の写本では「ソツ」と振り仮名が振ってあります。とすれば、これは「そっこん」と読んだのでしょう。でも、この「底根」の例だって、結局は当て字かもしれません。
 「そっこん」が「そここん」から来たと考えるには、いくつか不都合があります。
 まず、「そここん」という語の存在そのものが確認できないこと。『日本国語大辞典』を含む大きな辞書に「そここん」は載っていません。そういうことばはなかったか、少なくとも一般化していなかったということでしょう。
 また、「そこ(底)」という訓読みに「こん(根)」という音読みが続くこと。これは「()(とう)読み」で、イレギュラーな読み方です。「そこね」か「ていこん」なら自然ですが、湯桶読みになっているのは、むりやり漢字を当てはめたからではないか。
 さらに、「そここん」が「そっこん」に変化するか、ということも不審です。「早口で言ったらそうなるだろう」と言うのは簡単ですが、似た例が見つかりません。
 「さくこん(昨今)」が「さっこん」、「ぼくこん(墨痕)」が「ぼっこん」というように、「クコ→ッコ」の例は漢字熟語にたくさんあります。一方、「ココ→ッコ」の例は、私が調べたかぎりでは見つかりませんでした。
 副詞に漢字を当ててもっともらしくすることは、よくあります。たとえば、「やはり」を「矢張」、「てっきり」を「的切」、「めっきり」を「滅切」などと書くのがそうです。「底根」も同類ではないかと疑われます。
 では、「ぞっこん」「そっこん」の語源は何でしょうか。語源に関して、無責任に新説を唱えるのは控えるべきですが、私は「そこ(底)」との関連を考えます。
 「そっこん」の意味は、元は「心底」であったことは述べました。それならば、「そこ」と「そっこん」の関係を一応考えておくことは必要です。「そこ」を強調して「そっこん」になったということはありえないでしょうか。
 中世に、「いち(一)」を強めた「いっち」ということばがありました。たとえば、「一番遅いぞ」という場合に「いっち遅いぞ」などと言いました。
 江戸時代には「さき(先)」を強調した「さっき」も現れました。現代語で「さっき見たよ」と使う「さっき」がこれです。
 このように、名詞を副詞(的)にして使う場合、促音「っ」を入れて強調する例があります。「そっこん」も、名詞である「底」を副詞として強調した結果、「っ」が入ったのではないでしょうか。
「底」の強調だとすると、「ん」はどうしてついたのかも問題になります。江戸時代に入ってからの資料になりますが、『かたこと』という本に、「超過」を「ちょうかん」、「餓死」を「がしん」、「比丘尼(びくに)」を「びくにん」、「薬器」を「やっきん」など、なまって「ん」を加える例が出ています。このうちいくつかは室町時代の資料にもあります。「そっこ」がなまって「そっこん」になったと考えることに無理はありません。
 「ぞっこん」の元の「そっこん」は「そこ(底)」の強調形だった、したがって、「そここん」という語は存在しなかった、というのが私の考えです。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

飯間浩明
飯間浩明

国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。

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