この原稿が12回目だから、連載をはじめてちょうど1年たった勘定になる。そして、いまは2018年3月の半ばすぎ。あと1か月ほどで私も80歳の誕生日をむかえる。傘寿さんじゅですな。それやこれやで、今回は小生の80歳寸前日記におつきあいいただくことにした。いまどきの「アラ・エイティ」はどんなふうに本とともに暮らしているのか。そのとびとびの現場報告といったところ。
 まずは、すこしさかのぼって、

1月22日(月)

 今日から銀座で「平野甲賀と晶文社展」がはじまる。大雪予想におびえながら会場のggg(ギンザ・グラフィック・ギャラリー)へ。しかたない。オープニング・パーティの余興として、平野とトークショーをやることになっているのだもの。
 gggは大日本印刷がはじめた大きなギャラリーで、20年まえ、3階の会議場で『季刊・本とコンピュータ』創刊の記者会見をやった。そのおなじ場所で、雪のなか、あつまってくれた何十人かの人たちをまえに、神楽坂から小豆島に移住した傘寿の友・平野甲賀と5年ぶりの対面。おたがい、ちょっと歳とった感なきにしもあらずだが、まあまあ元気そう。
 60年代はじめ、発足してまもない小さな出版社が、思いきって、ひとりの若いデザイナーに自社のヴィジュアル面のすべてを託すことにした。
 そこからはじまる晶文社での仕事を軸に、描き文字をへて「コウガグロテスク」書体のデジタルフォント化まで、かれのデザイン私史をボソボソとたどる。私はその質問役。中村勝哉(社長)も小野二郎(最初の編集者)も長田弘(3人目)も、私(2人目)をのぞくと、創業期の、くせのつよいメンバーはことごとくいなくなった。だから私が話し相手をつとめるしかないのです。
 終わり近くなって、小豆島に行ったら仕事の依頼がいっぺんに減ってさ、と平野がぼやく。
 小豆島のせいじゃないよ、きみが「えらい人」になったんだよ、と私。だれだって「えらい人」とつきあうのはしんどいぜ。むかしはおれたちもそうだったじゃん。
 そして「えらい人」は、ビジネスの前線からすこしずつ遠ざかり、よりファンダメンタルな仕事に向かう。平野の場合でいえば、いまもいった「コウガグロテスク」がそのひとつ。漢字(簡体字)の国、中国ではこの書体のファンだという若いデザイナーが増えているのだとか。現に、この会場にも中国のフォント会社の人たちが来て、中国版「コウガグロテスク」をつくる相談をしていた。あまり金にはならんだろうけど、きみの晩年の仕事、けっこういい線をいってるじゃないの。

平野甲賀『平野甲賀・世界のグラフィックデザイン 123』DNP文化振興財団

 パーティ会場でgggの方に刊行されたばかりの平野甲賀の作品集をもらう。B5判の瀟洒な本で、1ページに1点ずつ描き文字による装丁が53点。平野には「文字というカタチへの絶対音感」といったものがあるらしく、どんなに奔放にデフォルメしてもカタチの芯が崩れない。ぴたりと明快に決まっている。コウガグロテスク化された簡体字。おもしろそう。ぜひ見せてほしい。

2月6日(火)

 正月からぽつぽつ読んできた堀田善衞の『定家明月記私抄』を、ようやく読み終える。以前、途中まで読んでやめてしまっていた作品。それが読めた。あとにまだ「続篇」が待っているけれども、ともあれめでたい。
 ただし私の「ぽつぽつ読み」は、じつはこの本だけではない。歳をとるにつれて一気読みの体力が失われ、以前なら夜を徹して読んだはずの傑作ミステリーでも、途切れ途切れにしか読めなくなった。ようするに軽めのエッセイ集や対談本などをのぞくと、最近の私は、ほとんどの本をぽつぽつとしか読んでいないのです。
 しかも、その「ぽつぽつ」の間隔が、多少なりとも厚い本や硬い本だと、1日どころか、1週間も1か月も空いてしまう。そうなると、ストーリーや理屈のすじをたどることさえままならない。気がつくと、いたるところに大量の傍線をほどこすようになっていた。
 もちろん傍線はこれまでも引いていたのですよ。でもそれはじぶんが大切だと思う箇所にかぎって。したがって、いってみれば攻めの傍線。
 でも、いまはそれだけでなく、たんにストーリーの曲がり角や理屈の展開をチェックするためだけに、めったやたらに傍線を引いている。なにしろ長い道のいたるところに仮の道標をおくみたいなものだから、とても攻めとはいえない。じぶんの読書を、すさまじい忘却のいきおいからまもるための、せっぱつまった自衛措置としての傍線である。
 しかし、これはかならずしもわるいことではない。
 何日か何十日かあと、途切れた読書を再開するたびに傍線の周辺を読みなおすので、現代読書に特有の「早読み」の性癖にがんじがらめになっていた私にも、思いがけず古風な「おそ読み=反復読み」ができるようになった。ただの負け惜しみではない。なんといっても、そのおかげで、以前なら投げだしたままになってたかもしれない『定家明月記私抄』が、ちゃんと読めたのだから。
 堀田によると、これまで読みとおした者がほとんどいなかったという長大な藤原定家の日記から、源平の争いにはじまり承久の乱にいたる動乱の世を生きた一宮廷人の鬱屈した日々を、こつこつと読み解いてゆく。そんな悠々たる作品を「早読み」でこなせるわけがない。なのにそれが読めた。ぼけの効用ならん。ハハハ、なんであれめでたいじゃないの、とうそぶくゆえんです。

堀田善衞『定家明月記私抄』正続篇、ちくま学芸文庫

2月8日(木)

 みすず書房のPR誌『みすず』の表紙裏にのる小沢信男のコラム「賛々語々」を、毎号、たのしみに読んでいる。私同様、世間には、そんな人たちがかなりのかずいるみたい。
 軽くひねりのきいた時事文のあたまと末尾に、小沢さんがどこかから見つけてきた「名句」が合わせて2句、配置される。それがこのコラムの決まりで、最新号では「初湯殿卒寿のふぐり伸ばしけり」という河波野あわの青畝せいほの句が冒頭に引かれ、「じつは筆者の私が目下この歳でして」とつづいてゆく。

「九十歳。なにがめでたい」それはその通りですよ。水洟は垂れるは、物忘れが募るは。せめてふぐりを伸ばしてみたところで、すぐ側に伸びるのをとんと忘れ果てた奴がいる。
 こいつの来し方なども、思い返せば微苦笑です。ささやかに不器用に、空振りも重ねつつ、その折々は夢中だったよなぁ。それやこれやに、もはや寛容になっていいのだな。

 うっかり忘れていたけれど、小沢さんは私の11歳上。その私が79歳だから、そうか、小沢さんもいよいよ卒寿そつじゅなのか。と思っていたら、その小沢さんから久方ぶりにメール到来。
 ―先ごろ、「仕事旅行」というところからインタビューを受けたので、ちらと覗いておいてください。
 さっそく指定されたアドレスに接続したら、そこに明るく笑う小沢さんの顔写真があった。そばに歌う高田渡の写真もあったので、クリックして YouTube にとび、かれの名曲、菅原克己の詩による「ブラザー軒」をききながら、小沢さんの一代記インタビューを読み、メールで感想をのべがてら、やはり YouTube にアップされている「平野甲賀と晶文社展」の対談映像のアドレスを貼りつけておいたら、すぐに見てくださったらしい。
 ―あの雪の日に「こんなに人が集まったとは。内澤旬子も来てたのか」「ユーチューブは、いまやすごい表現分野になっているのだなぁ」
 たしかにすごいわ。なにしろ遠出が億劫になった卒寿と傘寿の2老人が、会わずして会えてしまうのだから。しかも、私はともかく、相手はあの名だたる下町散歩派の小沢さん。はじめて会ってから50年余、こんなデジタル老年をともに迎えるとは想像もしていませんでしたよ。
(このコラム連載の7年分が『俳句世がたり』という岩波新書になっています。いちおう念のために)

小沢信男『俳句世がたり』岩波新書

2月15日(木)

 レイ・ブラッドベリの『火星年代記』再読。―とはいっても、むかし読んだのは1963年刊の「ハヤカワ SF シリーズ」版だから、はじめて読むのとおなじ。いやはや、こんなおっかない小説だったのか。完全に忘れていたな。
 ―2001年、国家的な植民プロジェクトによって、おびただしいかずの人びとが、なだれを打って火星に移住してゆく。この大移動の裏には、せまりくる核戦争への不安と、もうひとつ、独裁化した国家の監視と統制のもとで生きることの息苦しさがあった。かれらの多くは、もはやエドガー・アラン・ポーの名すら知らない。そりゃそうだ。ポーの本など、何十年もまえの「大焚書」によって、あとかたもなく抹消されてしまったのだから。(引用は、1976年刊の旧版による)

〔大焚書の〕最初は、小さなことから始まった。一九五〇年や六〇年頃には、一粒の小さな砂にすぎなかった。かれらは、まず、漫画の本の統制から始めた、それから探偵小説の統制、もちろん映画におよんだ、いろんなやりかたで、つぎつぎとね。(略)“政治”ということばを恐れたんだ(このことばは、結局、いっそう反動的な連中のあいだでは共産主義と同じ意味になったっていうことだから)

レイ・ブラッドベリ『火星年代記』小笠原豊樹訳、ハヤカワ文庫

『火星年代記』の刊行は、作中で「大焚書」のひそかなきざしが始まったのとおなじ1950年。このころ、ブラッドベリの生きる現実のアメリカ合衆国では、マッカーシズムによる「赤狩り」(恣意的に「反米」のレッテルを貼って気にそわない者を根こそぎ摘発する)の強風が吹き荒れていた。
 それに加うるに核戦争―。
 冷戦のさなか、1946年のアメリカの原爆実験にはじまり、50年代をつうじて米英ソの核実験が相つぐ。54年のビキニ環礁における水爆実験では第五福竜丸が被爆し、その衝撃のまっただなかで『ゴジラ』が封切られた。―と書いて、にぶい私もようやく気がついた。なるほど、『火星年代記』というのは、あの『ゴジラ』とまったくおなじ時代の産物であったのだね。
 そして、それから半世紀がたった2005年、『火星年代記』の世界では、こんな悲痛な呼びかけを最後に地球からのラジオ放送が途絶える。

 貯蔵原爆ノ不時ノ爆発ニヨリ濠大陸ハ粉砕サレリ。ロサンゼルス、ロンドンハ爆撃ヲ受ク。戦争勃発ス。帰リキタレ。帰リキタレ。帰リキタレ。

 さいわいにして現実の世界ではこんな悲鳴はきかずにすんだが、その後も、強化された核兵器の開発に原子力発電所の乱立がかさなり、核の科学と技術にささえられた地球「爆発」の悪夢は、加速度的にリアルさをましてゆく。それどころではない。21世紀にはいるや、信じがたいことに、よそ者や異なる考えの人びとの監視と統制という独裁的な政治手法が、またたくまに世界中にひろがってしまった―。
 いったんは忘れることもできた『火星年代記』だが、ここまでくれば、もう忘れることはできまい。20世紀の悪夢はいまもつづいている。ざんねんながら、この世界は『火星年代記』を時代おくれにしてしまう方向には変わってくれなかったのだ。

3月8日(木)

 近所の図書館に行くと、先月20日に98歳でなくなった金子兜太のコーナーができていた。小さなテーブルの上にかれの著書が十数点ならんでいる。なんの気なしに、そのうちの1冊、『他界』という本をめくっていたら、 思いがけない人の名が目にとびこんできた。
 瀬田貞二この連載で以前、子どものころ好きだった平凡社の『児童百科事典』について書いた。その百科の実質的な編集長だった人物。トールキンの『指輪物語』やC・S・ルイスの『ナルニア国ものがたり』の名訳者といえば、もっとわかりやすいかもしれない。
 それにしても、なぜ金子兜太の本にかれの名がでてくるのだろう。

 

金子兜太『他界』講談社

 わきにあったベンチで読んでわかった。瀬田は東京帝大時代のかれの「先輩」だったのである。敗戦後、金子は激戦地トラック島のわずかな生き残りの一人として帰国し、日本銀行に復帰する。だがその空気になじめず、しばらく故郷の家で呆然と日を送っていたら、瀬田が訪ねてくれ、いっしょに秩父に旅をして古い旅館で夜を徹して話をした。そのとき瀬田先輩がこんなことをいったらしい。

「金子君は自然児だ。だから君が書くものは、どんなことを書いてもそれなりの魅力を持っている。だから君は自信を持って俳句を作るなり、何なりと自分でいいと思うことをしていきなさい」
 その先輩があまりにも何回も「金子君は自然児だ、自然児だ」と言ってわたしを褒めてくれるものですから、だんだんこちらもその気になっていってね。(略)これがのちに「秩父の産土うぶすなに自分は支えられている」と確信することに至っていくわけですが、このときすでに瀬田さんは見抜いていたんだなと思うと、さすがだなと思いますね。

 金子の帰国が46年11月。おそらくはその何か月あと、さきに復員して夜間中学の教員をしていた瀬田が訪ねたのだろう。この年、瀬田は教員をやめる。のちに語ったところによれば、これからの時代をになう子どもたちに向けて、じぶんの能力と時間のすべてを解放しよう、と考えたのだという。
 とすれば、「何なりと自分でいいと思うことをしていきなさい」という瀬田のことばは、金子だけでなく、当時のじぶん自身に向けたことばでもあったことになる。このことばにはげまされて、金子は、銀行員は食うための仮のすがたと割り切り、俳句に専念する決心をかためた。そして、いっぽうの瀬田は、まもなく平凡社に入社し、みずからが構想した理想の子ども百科を実現すべく、もうぜんと働きはじめる。
 ―そうか、あの『児童百科事典』成立の背景にはこんな意外な出会いもあったのか。
 思いがけない場所で、ふいに、いままで知らなかった小さな事実にでくわす。そのことで、じぶんの人生を織りなす網の目が、ほんのすこし密度をます。そういうことが、あんがい、しばしば起きる。年をとるというのも、まんざらわるいだけのことではないのだ。

3月10日(土)

「わるいだけのことではない」の実例をもうひとつ―。
 大学をでてからの3年間、晶文社にかかわる一方で、いまはない『新日本文学』という雑誌の編集部ではたらいていた。そこでまず担当させられたのが当時連載中の『神聖喜劇』で、そのため月に何度か、作者の大西巨人氏のお宅に通うようになった。その最初の日に「あれ?」と思ったことがある。私の旧著に、そのことにかかわる箇所があるので引用しておくと、
 「…ふすまをあけると、そこが大西さんの六畳ほどの書斎である、古い借家なのだろうが、隅々までちりひとつなく掃き清められ、パラフィン紙のカバーをはずした、それなのに、なぜか透明ラッカーを塗ったみたいにピカピカ光って見える岩波文庫が書棚にビシッと並んでいるのが印象的だった」(『おかしな時代』)
 このうちの書棚の岩波文庫が「ピカピカ光って見える」というところ。私はそこで「透明ラッカーを塗ったみたい」と書いているが、ほんとにそうだったのかな。もしかしたら、あの「ピカピカ」は私の脳が何十年もかけてでっちあげたニセの印象なのかもしれないぞ。
 なぜそうなったかは不明だが、いつしかそんな微妙(神経症的?)な疑いが胸中に生じていたらしく、そのせいもあって、過日、池袋の書店で大西夫人、美智子さんの『大西巨人と六十五年』という本を見つけ、すぐカウンターに向かった。そして帰りの電車で読みはじめたら、期待どおり、あったのですよ、こんな記述が。

 〔大西は〕執筆が進まなくて苦慮する時、気分転換に破損した蔵書の装幀を自己流で作り変えていた。ご飯を丹念に()り合わせて(のり)をつくる事から始める。裁縫用の(へら)を自分用として所用していた。(略)文庫本、単行本、大型本、『広辞苑』、どんな本でも手がけた。(略)古くて痛んだ本はニスを塗って補強してある。

大西美智子『大西巨人と六十五年』光文社

 ああ、やっぱり。安心しました。あの「ピカピカ」はなにも私のでっちあげではなく、やはり大西さんがご自身で塗ったニスの光だったのですね。
 しかも『おかしな時代』の記述には、じつは他にもうひとつ、大西さんがらみでたしかめておきたいことがあった。月になんどか、お宅にうかがうさいの京浜東北線の下車駅を、浦和か与野かで迷ったすえに「たしか浦和」と書いてしまったけど、はたしてあれでよかったのかしらん。
 正しい答えは、どちらでもない。大西夫人の回想から推測するに、あの当時、どうやら私は浦和と与野のあいだの北浦和で下車し、東口をでて線路に沿った狭い道を進行方向(大宮方面)に歩き、右折して10分ほどで大西さん宅についていたらしい。
 道路からすぐ「小さな玄関をはいった先が、いまでいうリビングで、病身の息子さんたちのための組み立て式ベッドが二台おいてあった」(『おかしな時代』)
 この2台のベッドには赤人あかひと君と野人のひと君の幼い兄弟が寝ていた。ふたりは重度の血友病だったのだ。うん、それで思いだしたぞ。小学校にはいったばかりの赤人君へのおみやげとして、訪問のつど、じぶんの本棚にあった創元社の『世界少年少女文学全集』を、何冊かずつ抱えて行ったっけ。
 私のうちにひとかたまりの記憶がある。あるにはあるのだが、長い人生だから、かたまりのあちこちに小さな穴(空間)が泡ぶくのように生じている。その小さな穴のひとつかふたつが、思いがけず、たまさか手にした1冊の本によって埋まり、おかげで、ぼやけた記憶のたしかさがちょっとだけ増す。繰りかえしになるが、これもまた私たちのような年大蛇おろちにしか味わえない読書のよろこびのひとつなのです。

 この回は読書日記でゆくぞ。そう冒頭で宣言したのに、いっこうに日記らしくなってくれない。考えてみれば、もともと私には日記や随筆のたぐいがうまく書けたためしがないのだ。そんな人間がへんに高望みして、あえなく尻餅をついた。まあ、そんなところなのだろう。
 ではその「日記や随筆のたぐい」とは、どんな「たぐい」なのか。つい先ごろ読んだ『天野 忠随筆選』という本の末尾で、選者の山田稔がこうのべている。

 晩年、車椅子の生活を強いられることになるこの詩人は、足にいささかの自信をもち、その足で歩くことが好きだったのである。
 その好きな毎日の散歩、近所のそぞろ歩きの沿道の景色が変らないように、天野忠の随筆の中身は変らない。ほとんどすべてが些細な日常茶飯事をはじめ、古い昔の思い出、老いのくりごとなど、つまり何でもないことである。
 この「何でもないこと」にひそむ人生の滋味を、平明な言葉で表現し、読む者に感銘をあたえる、それこそが文の芸、随筆のこつ(こつに傍点)、何でもないようで、じつは難しいのである。

『天野 忠随筆選』山田稔選、編集工房ノア

 これらを要するに、日常に生じた「何でもないこと」を、ふだん私たちがつかっていることばで書きとめ、その暮らしのすこし上方や下方にぼんやりあるものを、読者が「ああ、書かれてみれば、たしかにそういうことがあるよな」と、しずかに思えるようつとめること―。
 ここでは「随筆のこつ」となっているが、「読む者」のうちに「じぶん」もふくめれば、「日記のこつ」だってたぶんおなじようなもの。
 随筆や日記のようなやわな文章は書けないし書きたくもない。若いあいだはそれですむし、じじつ、すんでいたのです。でも歳をとるとそうはいかない。若者や壮年とちがって、老人の日常リアルは基本的に「何でもないこと」だけでできているからね、その「何でもないこと」をうまく表現できないと、なんだか腑ぬけたようなものしか書けなくなってしまう。
 つまり私は、今回はそのような「何でもない」読書について、日記というかたちであっさり書いてみようと、まず考えたらしい。ところが、その「こつ」がつかめず、中途半端な日記まがい、随筆まがいのものができてしまった。でも、いってみれば、この連載自体が練習みたいなものなのだからなあ。いちおうこれでよしとしてもらい、お詫びをかねて、この二か月間に読み、場合によってはこの「日記」に登場していたかもしれない本を、以下に列挙しておきます。
 ―池内紀『記憶の海辺』、バーベリ『オデッサ物語』、松井今朝子『師父の遺言』、チャンドラー・村上春樹訳『高い窓』、陳浩基『13・67』、ル・カレ『スパイたちの遺産』、亀山郁夫・沼野充義『ロシア革命100年の謎』、小笠原豊樹訳『プレヴェール詩集』、中島岳志『保守と立憲』、関川夏央・谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』、杉浦日向子『百日紅』、ちばてつや『ひねもすのたり日記1』など。


 

平野甲賀『平野甲賀・世界のグラフィックデザイン 123』DNP文化振興財団、2017年
堀田善衞『定家明月記私抄』ちくま学芸文庫、1996年
小沢信男『俳句世がたり』岩波新書、2016年
レイ・ブラッドベリ『火星年代記※』小笠原豊樹訳、ハヤカワ文庫、1976年、2010年
金子兜太『他界』講談社、2014年
大西美智子『大西巨人と六十五年』光文社、2017年
天野 忠随筆選』山田稔選、編集工房ノア、2006年

※『火星年代記』
1997年、ブラッドベリ自身による改稿で物語の年号は旧版+31年に変えられ、収録作にも若干の入れ替えがある。が、筆者は1976年の旧版を読んだので、本文引用はその版によっている。