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AI時代を生き延びる、たったひとつの冴えたやり方

FORTRANから広告代理店相手の商売へ

 ほとんどの人間の知的な営みと同様、プログラミングも最初は他人のプログラムを真似ることから始まる。それは教科書に載っている短いプログラムだったり、ネットに転がっているソースだったりする。それを自分のパソコンで走らせて、プリンターを制御したり、CGを描いたり、簡単なゲームを作成したりするのだ。最初は他人のプログラムかもしれないが、いろいろいじくっているうちに、どこまでがオリジナルで、どこからが自分でいじった部分かが渾然一体となってくる。そうなると、もはや、それは自分のプログラムということになる(ええと、ホントのオリジナルで著作権のあるようなプログラムではなく、ふつうに公開されているプログラムをいじったと仮定してください)。

 そして、そんな人真似小僧を繰り返していくうちに、あるとき、本当にゼロからプログラムを書くときがやって来る。まさに英語なら「from scratch」(=白紙から)ということだ。

 私の場合、物理学科の学部生と大学院生のとき、レポートや論文を書く際、さまざまなプログラムを書いて、素粒子と素粒子がぶつかる確率(衝突断面積)の計算や、10次元の宇宙が膨張していく解などを計算していたので、あたりまえのようにプログラムを書くようになっていた。

 当時、そういった理数系の学生や研究者が使うプログラム言語はFORTRAN(「フォートラン」と発音する)と相場が決まっていたが、先日、NHK「サイエンスZERO」のゲストでお越しいただいた惑星衝突の専門家が、いまでもFORTRANでプログラムを書いていることを知り、思わずのけぞってしまった。なんでも、最新の言語より、FORTRANの方が、単純なだけに計算速度が速いのだとか(これは、私の勘違いかもしれない。プログラムを書くのが速いという意味だったのかもしれないが、いずれにせよ、FORTRANはまだ現役なわけだ)。

 私のプログラマー稼業は、しかし、大学院を終え、日本に帰国してから始まった。当時はソビエト連邦崩壊の余波で、有能な物理学者が大挙して西欧諸国に流入しており、一時的に物理学者の就職氷河期となっていた。私より半年前に博士号を取った先輩などは、全世界の100箇所の大学や研究所に博士研究員の希望を出して、「採用」の返事が皆無だったので、完璧に落ち込んでしまい、なぜかサングラスをかけてヤクザみたいな格好で学校周辺をうろついていたが、やがて、音信不通になってしまった。

 そんな先輩たちの無残な姿を見ていた私は、悪あがきはやめ、世界の流れに身を任せることにした。それは、自分の技能を活かして生きていく、ということだ。

 私には文筆、数理計算、プログラミングという技能があったので、これらを駆使して仕事を探すことにした。だが、大学院で3回も指導教官と喧嘩し、研究室を移った経験から、ふつうに会社に就職しても上司との軋轢を避けることができないと判断。一匹狼のフリーランスで生きる決断をした(32歳の時)。

 当時、東芝に勤めていた父親が心配して、さる企業研究所の就職を斡旋してくれたが、私は宮仕えはまっぴらだったので、面接当日、ドタキャンをした。すると、父親は諦めたのか、自分の大学時代の同級生で日経広告研究所に勤めていた八巻俊雄さんに連絡を取ってくれ、私は、八巻さんの監修で『パソコンによる広告管理』という本を書くことになった。

 いきなり英語の広告学の専門書をたくさん買い漁ってきて、そこで使われている数学モデルを勉強し始めた。物理学を修めた私にとって、主にアメリカで使われていた広告視聴率予測の数学モデルは、かなり初歩的なレベルに感じられ、これならすぐにプログラムが書けることに気づいた。

 そこで、本の上梓と同時に日経広告研究所主催のセミナーを開催し、広告代理店の人々を前に広告視聴率予測プログラムの集中セミナーをおこなった。すると、すぐに某広告代理店からプログラム作成の依頼が舞い込んだ。当時、まだ日本では、広告視聴率の予測は「勘」でおこなわれており、各代理店とも、クライアントへの説明のために、科学的なツールを欲しがっていたのだ。

 私を驚かせたのは、プログラムの値段である。バブル崩壊後ということもあり、広告業界にも金がうなっていたわけではなかったが、逆に、クライアントの争奪戦が繰り広げられており、説得力のある視聴率予測プログラムには高値がついた。

 私が初めて「売った」プログラムは数千万円だった!

 実は、この金額は、私が作家稼業に転じてから、一番売れた本の印税よりも高かったりする(笑)。

 このプログラムの噂を聞きつけた別の広告代理店向けにも、広告視聴率予測プログラムを書くこととなった。もちろん、完全に競合する代理店に売るわけにはいかないので、相手を選ぶ必要があったが、私の報酬は、毎回、ほぼ同じだった。もちろん、あまりにも高いので、二年から三年の分割で報酬を受け取ったが、貧乏になれていた私は、数理モデルを使ったプログラムの値段に心から驚いていた。
 いまだから理解できるのだが、当時、あらゆるプログラマーが、一本で何千万円も稼いでいたわけではない。あくまでも、高等数学を駆使したプログラムだったからこその高値であったのだ。

 先日、日本マイクロソフト主催の円卓会議に出席したとき、ピーター・リー氏(米Microsoft Corporate Vice President Microsoft Research担当)が、

「現在でも一流のプログラマーは大リーグのイチローと同じ給料をもらっている」

と語っていた(例によって竹内が少し表現を脚色しているが、とにかく、そういう内容だった)。今も昔も、そして未来も、数学とプログラミングの融合は、最強の武器であり続ける。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

竹内薫

たけうちかおる サイエンス作家。1960年、東京生まれ。東京大学教養学部、同理学部を卒業、カナダ・マギル大で物理を専攻、理学博士に。『99・9%は仮説』『文系のための理数センス養成講座』『わが子をAIの奴隷にしないために』など著書多数。

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