つい十年ほど前まで、川岸に立ったときにどちらの方向が上流なのかということにあまり頓着していなかった。
川の中・上流域には瀬が多く、音は一定の方向からホワイトノイズのようにしか聞こえない。そのため、どちらの方向に流れているのかを岸から聞き取るのは簡単でない。自分で聞き取って不確かな推測をするより、一緒にいる人に「上流はどっち?」と尋ねたほうがずっと効率よく川の景色を想像できる。長らく、それしかないと思い込んでいた。
ところがある年の夏、渓谷にかかる橋の上に立つと、川の音がまったく違って聞こえてきた。
私は橋の欄干に向かって立っていた。流れの真上で、流れに対して垂直方向で音を聞いたことになる。
と、水が私の胸に飛び込んでくるかのような錯覚に襲われた。川幅いっぱいの流れの音が、ドウドウと鳴りながら重みを伴って、攻め込むようにこちらに向かって来るのである。水面は数メートル下にあるのに、足が掬われそうな気がした。
「もしかして、前の方向が上流?」
一緒にいた友達はびっくり仰天。
「うん、そうだよ。どうして分かったの?」
私はその声を聞いていなかった。では、下流に向かって立ったら音は変わるのだろうか。
「ねえ、橋の反対側につれてって」
やはり、水の音は違っていた。下流に向かって立つと、水音はサラサラ、サワサワと、足元から滑り落ちるように遠ざかっていく。音だけ聞いていると、自分の足元が浚われていくかのようだ。頑丈な橋に足元を支えられているにもかかわらず、足がフワリと浮かび上がるような気がして恐くなった。
この発見を話してみると、自然観察が大好きな友達は興味津々で次々と橋のあちらとこちらに立って耳を澄ませた。私に言われて聞いたせいもあるだろうが、意識して聞くとたしかに音が変わると、彼らも確かめられたという。
後日、別の橋の真ん中辺りで上流に向かって立ってみた。すると、右岸の辺りにチョロチョロと高い音の流れがあり、その内側にトロトロとやや太い音の流れがあることに気がついた。さらに、内側、つまり川の中心に近い位置になるほど水の音が太くなり、中心辺りで無音になっていることも分かった。無音になる場所のすぐ右側では、ドロンドロンと太鼓のように低い水音がしている。深みに落ち込んでいるのだろう。同じように左岸に向かって水音は高くなっていく。
まるで、水でできたマリンバの演奏を聴いているかのようだ。その音は不規則に変化し、強く、弱く、高く、低く、橋の下へと流れ込んでいるのだった。
いまでは、川に来ると上流と下流を聞き取るゲームに興じている。立つ位置や地形による音の反射の関係で、100%正解とはいかない。それがまた面白い。コイン投げとどちらが高確率で当たるだろうか。
秋は、空気も水も澄み、流れの音が鮮やかに引き立つので正解率が高い気がする。俳句の季語にある「水澄む」が、音でも聞けるのだ。
しばらくして、コイン投げよりはかなり正解率の高い聞き取りができる場所を見つけた。ゆっくりした流れで、かつ音が聞こえる川の岸、水辺に近づけるところだ。
左右の水音に注意すると、上流でひとつの石に当たってポチャンと鳴った水が、下流に下ってきて別の石に当たり、パチャンと鳴る。先にポチャンと鳴った方が上流である。ポチャンとパチャンの音の時差が、流れの速さだ。速い流れのところだと、時差が聞き取りにくい。上流と中流の間の、ゆったりした流れの辺りが良いかもしれない。
こうして聞くと、「川のマリンバ」とともに「川の長さ」も楽しめる。聞き方を変えたことによって、ホワイトノイズだった瀬音が、大いなる自然の音楽に変わったのである。上流と下流がどちらにあるかを意識していなければ、この音楽を楽しむことはできない。それに気づくまで、私は景色が見えないから流れの方向は分からないと諦めてしまっていたのだ。
川を目で見れば、一瞬にして川は長細い空間という「答え」が見えることだろう。その空間を流れの音から聞き取るには、時間がかかる。そうして時間をかけて聞いていると「川時間」という特有の座標が現れる。
「川のマリンバ」を聞いていると、定まることのない川の営みを「定点の時間」として味わうことができる。「川の長さ」を聞いていると、一滴の水が無数の石や水と触れ合いながら、黙々と地上を走っていく「動きの時間」を味わえる。
上流と下流を音で楽しむようになってから、私には川を音楽の空間として味わう楽しみが増えたばかりか、「川時間」というもうひとつの時間軸まで増えたようである。
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三宮麻由子
さんのみやまゆこ エッセイスト。東京生まれ。4歳で病気のため光を失う。上智大学大学院博士前期課程修了(フランス文学専攻)。処女エッセイ集『鳥が教えてくれた空』で第2回NHK学園「自分史文学賞」大賞、『そっと耳を澄ませば』で第49回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。『空が香る』、『ルポエッセイ 感じて歩く』など著書多数。通信社勤務。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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