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あなたには世界がどう見えているか教えてよ 雑談のススメ

2024年5月15日 あなたには世界がどう見えているか教えてよ 雑談のススメ

7.思考のクセを自覚する――人生のシナリオ設定

著者: 桜林直子

悩み相談やカウンセリングでもなく、かといって、ひとりでああでもないこうでもないと考え続けるのでもなく。誰かを相手に自分のことを話すことで感情や考えを整理したり、世の中のできごとについて一緒に考えたり――。そんな「雑談」をサービスとして提供する“仕事”を2020年から続けている桜林直子さん(サクちゃん)による、「たのしい雑談」入門です。

 この人になら話せるかもしれない。話してみよう、といざ話し出しても、はじめからスラスラと思い通りに言葉が出てくるわけではない。

 話し出してみないとわからないつまずきや引っ掛かりがあって、うまく進まない。または暴走や迷走のようにコントロールが難しくなることもある。

 残念に感じるかもしれないが、それでいい。雑談は、上手に話すことが目的ではないからだ。

クセに気がつく

 雑談の中で、最近の出来事や気になることについて話し出す。ある日のマンツーマン雑談では、会社であったイヤな出来事を教えてくれた。

 「〜ということがあったんですよ。ひどくないですか?」

 「そうなんだ、大変だったね。それで、あなたはどう思ったの?」

 「え、だから、ひどいなーって」

 「出来事への感想じゃなくて、そのときのあなたの感情は覚えてる?」

 「えっ、感想と感情って別ですか?」

 「“あの人はひどい”と“わたしは悲しい”は別だよね」

 「ああ、たしかに。えー、わたし、自分の感情に注目していないかも」

 出来事や他人の話をすることが悪いわけではない。しかし、観察者として客観的に見るクセがついていると、自分自身のことも客観視してしまい、内側にある感情をつかみにくくなる。わざと無視しているつもりはなくても、後回しにするようになってしまう。

 別の人との雑談の中でも「欲しかったぬいぐるみを買ったんですよ。よかったねーって思います」と話してくれたのを聞いて、「自分のことなのにずいぶん他人事のように話すな」と感じたことがある。

 普段から感情が真ん中にある人は「欲しかったぬいぐるみを買えて、うれしかったです」のように、感情を伝えようとする。

 その違和感を伝えてみると、その人は、たしかに、うれしいや悲しいなどの自分の感情を口にすることに抵抗があると言う。言われてみるまで自覚はなかったが、口にするだけでなく、そもそも感情を味わうことを避けているかもしれない、と教えてくれた。

ドローンと内視鏡

 自分のことを見るとき、観察者としての客観的な「ドローンの視点」と、自分の感情を味わいよく見る「内視鏡の視点」があると考える。

 ドローンの視点は、実物のドローンと同様に空中に浮いて上空から俯瞰で見ている。自分自身のことも上から観察している。内視鏡の視点は、これもまた実物の内視鏡と同様に自分の内側へ潜り込み、心がどう動いているかを直接見ている。

 ドローンの視点のカメラだけを使っていると、心から距離がありすぎて捉えられず、自分の感情なのに自分でもよくわからなくなってしまうことがある。また、広範囲を写すそのカメラには他人も映り込むので、全体の中で自分がどう動くべきかを見て、自分を動かす。自分がどうしたいか(・・・・・・)よりも、自分はどうすべきか(・・・・・・)で動いてしまう。

 かといって、内視鏡の視点のカメラだけを使うのも問題がある。自分の感情がよくわかるのはもちろんいいことだが、自分の内側にだけ矢印が向いていると、他人に関心が向きにくい。その結果、実際に起こった他人の行動や言動よりも、自分の感じたことや想像の方ばかりを大事にしてしまうことがある。

 どちらかのカメラだけを使うのではなく、そのふたつをうまく使い分け、両方のカメラをスイッチングしながらカメラワークをコントロールできると良さそうだ。

 普段内視鏡のカメラばかりを使っている人は、相手の意見や感情を知ろうとするときに、ドローンのカメラで見るのではなく、相手の中に内視鏡を入れようとすることがあるが、他人に内視鏡を入れてはいけない。他人の気持ちを直接正確に見ることができたら楽なのにと思う気持ちはわからなくもないが、残念ながらそれはできないのだ。

 他人の中を直接見ることはできないので、相手のことを知ろうとしたら、その人の話を聞いたり、行動を見たりするしかない。そして、自分も同じように話したり見せたりして、交換するのだ。自分の話をするときも、相手に自分の内視鏡を覗かせるのではなく(それもできない)、ちゃんと見えるように外に出す必要がある。それが、雑談だ。

 こう書くと、そんなの当たり前だと思うかもしれないが、「言わなくてもわかってほしい」と、内視鏡を覗いてくれるのを望んでいる人は少なくないのだ。

 雑談を通して、カメラの位置やクセに気がつき、カメラワークの練習ができるといい。

人生のシナリオ設定

 いろいろな人と雑談を交わしてきたことで気がついたクセの例がもうひとつある。

 過去の出来事の話をするときに、「誰かにされたこと」をベースに話す人がいる。「自分が何をしてどう感じたか」ではなく、人に何をされたかをもって自分のことを話すのだ。

 気になって聞いてみると、たしかに自分の人生は「誰かにされたこと(してもらったこと)と、その反応」でできているという感覚があると言う。もっと聞けば、幼い頃に身近な人からされたことや環境が発端で、誰かにされたことによって自分の行動が制限された事実があるのだと言う。そのインパクトが強かったため、そのまま見え方や考え方が定着したのかもしれないと想像できる。そして、その見え方だと、他者を見るときにも「この人は自分に何をしてくるか(何をしてくれるか)」を見て、警戒してしまうのも当然だろう。

 先日、とあるトークイベントを開催した際に、参加者の方に事前に簡単なワークをやってもらった。その中のひとつに、「自分にとって他人とは○○である」と記入する欄があった。

 みなさんの回答を見せてもらうと、「他人とは自分をジャッジしてくるもの」や「他人とは自分を傷つける可能性があるもの」などの回答が少なくない数あった。

 そのワークでは、それらを「自分が設定したもの」として見ることからはじめた。いつかの経験からそう思うようになってしまったことは不運だし、仕方がない。しかし、その設定を固定してしまっていいのか? 本当に自分が望んでいる物語か? と問いかけ、設定をし直すという目的のワークだった。

 自分で設定したものは、思ったよりも力がつよい。「設定というか、自分にとって紛れもない事実なんですけど」と言う人もいるだろう。それくらい、自分にとっての「当たり前」を疑って変えるのは難しいことかもしれない。

設定は何度でも変えられる

 たとえば、「他人は自分を傷つけるものだ」と設定している場合と、そうではない場合で起こることはどうちがうか。

 まず、何らかのイヤな出来事があったとき、「傷つけられた」とするか、「傷ついた」とするかがちがってくる。

 「他人に傷つけられた」とする場合、その先に考えるのは「あの人はなぜあんなことを言ったのか」など自分が傷つけられる原因についてであり、想像を重ね、「だからわたしはいつも傷つけられる」と着地してしまうだろう。

 「わたしが傷ついた」とする場合、その先で考えるのは「わたしは何が嫌だったのか」であり、傷つく要因を探す。その中に他者が出てこないわけではないが、結果的にわかるのは「わたしはこうされると傷つく」だ。

 後者のような考え方をすれば、今後その要因を避けることもできるし、嫌だったら離れることができる。しかし、前者は、今後似たようなことが起きそうなときに、「ほらやっぱり傷つけられる」と自分の設定をより強固なものにしてしまうのだ。事実がどうかにかかわらず、自分の設定が正しいと証明するかのように、固定した設定に沿って進んでしまうことがある。

 同じ出来事でも、自らの設定によって捉え方は大きく変わるのだ。

 かつての経験から偏った考え方になってしまうことは、ある。大いにある。それについて「そんなふうに考えるなんておかしいよ」とは思わない。そこに至るには十分な理由があり、他の人が同じ経験をしてもきっと同じように考えてしまうだろうとも思う。

 しかし、だからと言って、初期の設定のまま一生進まないといけないとは思わない。他者に植え付けられたその考え方は、自分で望んだものではない。どんな人も、自分で望み、自分で選び、自分で決めることを諦めてはいけないと思う。何度でも、自分の望みに沿って設定をし直すことができると言いたい。

望んでもいいのだと許可する

 過去の経験の力はつよく、足を引っ張る。それを振りほどくには労力がいる。勇気もいるし根気もいるだろう。しかし、そうしたネガティブな経験を自分から引き剥がすことこそが頑張るべき部分だとわたしは思う。努力して、イヤな出来事にいつまでも囚われるよりも自分の望みを大事にするべきだ。

 先述のワークの続きでは、現在の自分に足りないと感じるものや欲しいものを書き出し、そこから改めてこうありたいと望む設定を書いてもらった。

 すると、「他人とはわかりあえないけど敵ではない」や「他人とはちょうどよい距離で関わる」など、様々な変化が見られた。他人を警戒し怖いものだと感じている人も、誰もが本当にひとりきりの世界を望んでいるわけではないのがわかった。

 「望んでもどうせ叶わないから」と望むのを諦めるのではなく、できるかどうかにかかわらず、まず、望むのが先だ。望んでもいいのだと自分自身で許可するのが先だ。諦めや失望から作られた設定を、望みから始まる設定に書き換えるべきだ。

 そのためには、自分の欲や望みをよく知らないといけない。欲や感情の泉が湧くのを塞ぐもののひとつは、自ら作った設定なのだ。

 雑談をして、考え方のクセやカメラの位置を知る。今までの自分の設定を見つけ、見直して作り変える。その作業はとても大事だ。

 「これが自分自身だ」と思っている大きな塊を、柔らかくして「そういうクセがあるんだね」とか「今はそういう状態になっている時期なんだね」などと、分けていく。

 「わたしってこうだから」と思い込んでいるものを「ほんとうにそうかな?」と疑い、もう少し解像度を上げて分解して見てみようよと提案する。

 それは、自分ひとりではなかなかむずかしいので、他人の力を借りたほうがいい。占いのように他人の口から自分のことを教えてもらうのではなく、自分の口から出たものを他人と一緒に眺める「雑談」が最適だ。

 

*次回は、6月19日水曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

桜林直子

1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring

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