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「答え」なんか、言えません。

2025年9月1日 「答え」なんか、言えません。

十二、母は「命の恩人」にして「最高の教師」

著者: 南直哉

なぜこの世に生まれてきたのか? 死んだらどうなるのか?――その「答え」を知っているものなどいない。だから苦しい。だから切ない。けれど、問い続けることはできる。考え続けることはできる。

出家から40年。前著『苦しくて切ないすべての人たちへ』につづいて、「恐山の禅僧」が“生老病死”に本音で寄り添う、心の重荷を軽くする後ろ向き人生訓。

 本を書いたり原稿を書いたり、世間に文章を出すようになってから、かれこれ30年になる。そうすると、ありがたいことに、ご覧の通りの愚考・駄文の類でも、継続的に読んで下さる方が、何人かいたりするのだ。

 昨今、そんな読者の方々から時々言われるようになったのは、お前が書くものの中には、しばしば父親が登場するが、母親がまるで出てこないのは何故か、ということである。

 これは以前から、我々母子をよく知る親族からも言われてきた。

「あなたは小さいころから散々お母さんの世話になってきたし、お母さんもどれだけあなたのことを心配してきたかわからないのに、なぜそのことを書いてあげないの!?」

 理由は簡単である。私が筋金入りのマザコンだからである。父親には、幼いころから何となく馴染めないところがあり、影響は彼の言葉に限られたから、相対化して文章にしやすかったが、母親に関しては、言わば前意識的に、身体感覚のレベルで刷り込まれたものがあって、気軽に言葉にしにくかったのだ。

 しかも、「マザコン」現象の出方が、いささか特殊なのである。一般に言う「マザコン」は、たとえば、成人後も母親に強い愛着を持つとか、その意向に強く影響される状態を言うのだろうが、母親が号泣して反対したにもかかわらず出家した私は、この類型には入らないだろう。私の「マザコン」は、ある意味、もっと深刻な様相を呈する。

 修行道場に入門して10年ばかりたった頃、私は外国との付き合いや、マスコミへの対応を仕事とする、渉外係のような仕事をしていた。要は、来客の多い、修行道場としては面倒な依頼が来る部署である。

 ある日、事務所に出て行くと、私の上司と同期の仲間と部下の3人が、何やら談笑していて、私が入っていくと、ひと際高い笑い声が立った。ちょっと変な気がしたが、別に珍しいことでもないので、そのまま黙殺して、アポイントメントがあった面会人を待った。

 最初の面会人の男性との話が終わり、彼が帰った。見送って振り返ると、まだ同期がいる。

「まだいたの?」

「まあね」

 彼は戻らない。で、そのまま四方山話をしていたら、次の面会人が来た。次週にここを訪問する予定の某国駐在大使の、道場案内の打ち合わせに、県職員の女性がやって来たのである。

 いささか手間のかかる打ち合わせであったが、ようやく終わって彼女を見送ったら、途端に上司と同期と部下が、同時に尋常ならぬ爆笑をした。

「ほらね」

 上司が笑いながら言うと、

「ほんとですね!」

「言われてみれば、いつもですよね!」

 同期と部下も笑いが止まらない。さすがに私はいささか怒気混じりで訊いた。

「なんだよ!?」

「やっぱり、本人は気がつかないんだ」

「でも、これ、あまりに露骨ですよね」

「だから、なんだよ!」

 私が怒っているのに、なお笑いながら彼らが言うには、私は、男性相手と女性相手では態度が違い過ぎる、らしい。

「だって、直哉さんは、やって来るのが男なら、それが誰であろうと、するかしないか程度の挨拶直後に、いきなり『ご用件は?』と言うじゃないの。早く済ませろ、みたいな」

 上司はまだ笑っている。

「そうかもしれません」

「なのに、女の人が入ってくると、これまた誰だろうと、『どうもわざわざ、今日はお疲れ様です』とか、『こんな遠いところまで、本当にすみません』とか、必ず最初に何かねぎらうようなこと言うよね」

 間髪入れず同期と部下は、

「今日もまったくその通りでしたよね!」

「差があり過ぎ!」

 同期は、当日の私の予定を知る上司に「面白い見ものがある」と誘われて、あえて自室に戻らず、この現場の目撃を待ったのだった。

 言われた私は、非常に驚いた。まったく意識が無かったからである。まさにこういうところに、私の「マザコン」が効いているのだ。考えてみれば、私は昔から無意識的に女性一般に気圧(けお)されてしまうと言うか、気が引けると言うか、常に心理的に下手に置かれてしまう傾向がある。

 この大元に、母親がいる。彼女はそもそも、私の「命の恩人」的立場にあり、好きだの嫌いだので済む対象ではないのだ。私が3歳でアレルギー性の小児喘息に罹患して死にかかったことは、あちこちで書いたり話したりしたが、これを克服できたのはすべて母親のおかげなのである。

 3歳から10歳まで専門医に出会えず、私は文字通り七転八倒の思いをしたが、小学4年生の時、ついに専門医が見つかり、本格的な治療を受けた。それが一種の免疫療法で、アレルギー反応の元となる物質(抗原)を、少しずつ時間をかけて接種するものだった。

 私はこの治療を週2回、1回も欠かさず1年以上受けたのだが、それは、どれほどその日が忙しかろうと、母親が全てに優先させて、私をクリニックに連れていったから、できたことなのである。

 治療が最終盤になった時、主治医が母親のいないところで私に言った。

「いいか、ナオちゃん(当時、医者も私をそう呼んだ)、もうすぐこの注射は終わる。喘息も大丈夫になるよ。でもね、それは私が治したんじゃないよ、お母さんが治したんだよ」

 今も憶えている「六車」という名字の主治医は続けて、

「ナオちゃんのお母さんは、今まで一度も休まず君をここに連れてきた。これは誰もができることではないんだ。途中で来なくなった、来られなくなった親子もいっぱいいる。君は感謝しないとな」

 この一言が、私の「マザコン」を決定的にした。これだけではない。刷り込み的影響は他にもある。

 実は、私は保育園中退の身の上である。喘息が酷くて通えなかったのだ。だから、小学校に入学するまでは、ほとんど家にいたのだが、この時、母親が私に本の読み聞かせをしたのである。

 最初に聞いたのは『家なき子』という、面白くも何ともない本で、ストーリーもまったく覚えていないが、終わりまで聞いていたことだけは覚えている。

 大体、この本は保育園中退児には難しかっただろう。それは絵本どころか、挿絵もほとんど無い本で、聞いているだけだったから付き合えたが、とても好きで読めるものではなかったはずである。

 ところが、母親によると、私はその後まもなく、面白くもないこの本を、自力で読もうとし始めたらしい。当時かろうじて平仮名が読める程度の幼児は、読めない漢字や意味不明なところが頻発するたび、母親を追いかけてきたという。

「本の好きな子にしたかった」から読み聞かせをしたと、母親は言っていたが、私が自力で本を読みだしたのは、母親の目論見が図に当たったと言うより、他人から「読み聞かせられている」立場がイヤだったからだと思う。自分の思い通り読めるようになりたかったのだ。母親の「功績」は、幼い私から本に対する「抵抗感」を消去したことなのである。

 もう一つある。小学校の入学前後だったと思うが、音楽の教師だった母親が、『バイエル』という赤い本を持ってきた。そして、家にあったオルガンの前に私を坐らせ、弾き方を教え始めたのである。

 ところが、5分も経たぬ内に、突然母親が言った。

「ナオちゃん、やりたくないんでしょう?」

 虚を突かれた私は、反射的に、

「うん」

「じゃ、やめましょう」

 即座に母親は『バイエル』を閉じ、私を二度とオルガンは無論、あらゆる楽器に無理に触れさせようとはしなかった。息子の「才能」を一発で見抜いたのである。

 この後、息子は、自分がやりたいと本当に思うか、やらねばならぬと覚悟したこと以外は、躊躇なく切り捨てるようになった。柄にもないことや、できないことは、見定めが肝心で、見定めたら切るのが正解だと、私は母親から学んだことになる。

 こうして顧みれば、やはり私の「マザコン」度は高く、私の生き方の根本に、父親よりもはるかに強く影響している。息子が67歳になっても、それは変わらないし、死ぬまで変わらないだろう。

 その母は今年94歳。高齢者施設に入所している。私が面会に行くと必ず、

「アンタに迷惑かけると気の毒だから、早く死にたい」

 と言う。そして、

「何が迷惑なんだよ!」

 と怒る私とケンカになる。

 

*次回は、10月6日月曜日更新予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

南直哉

禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)などがある。

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