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おかぽん先生青春記

 ポスドクを2ラウンドやり、もう後がないと情緒不安定に陥っていた俺だが、ぎりぎりのところで次のポスドクの職にありつくことができた。ダウン寸前にゴングが鳴ったようなものだ。正確に言うと、俺が職にありついたわけではなく、学部時代の指導教授、慶應義塾大学の渡辺茂先生の研究を推進するためという名目で雇用されたのである。だが、自称うるむ人(民が困っているのを見て目を潤ませる優しい城主)の渡辺先生は、俺自身の研究を進めることを認めてくれたのであった。第3ラウンドが始まったのはありがたいことだ。だがこれも、2年しか任期がないのだ。
 俺が学部生のころは、心理学動物実験室、通称・動物棟は、慶応義塾大学三田キャンパスにあった。あのゴチック様式のなんとも趣のある図書館(今では旧図書館である)の裏に、ひっそりと建っていた。地下1階、地上1階、屋上付きの動物棟で、地下は主に動物飼育室、地上は主に実験室であった。
 動物棟の前には、山食という食堂があり、俺は大学2-4年の昼食を主にそこで食べていた。大学3年の1年間は、俺の彼女というべき女性と山食の2階の半個室のようなところでこっそりと食事していたのだ。あの光景を思い出すと、頭の中になぜか森田童子の「ぼくたちの失敗」が流れてくる。森田童子のあの歌を、俺は知っていたのだろうか。1976年に出た歌だし、当時はフォークソング好きだったのでたぶん知っていたのだろう。ああ正に、春のこもれ陽の中で君のやさしさにうもれていたぼくは、弱虫だったのであり、その弱虫さ故に彼女は去っていったのだった。
 ところが、その懐かしい山食も、動物棟も、違う場所に移ってしまっていた。あれから10年近いのだから、そういうこともあろう。動物棟は、大学外にあるグラウンドの片隅に移動していた。そのため、前より広くなっていて、ネズミやカラスやゴイサギも住んでいた。ゴイサギはリハビリのためにのみ保護していたらしいが。俺はその一部を整備し、ジュウシマツを飼い始めた。俺がジュウシマツ小屋を作るのも三度めであった。ポスドクも第3ラウンドなのだから仕方がない。あと何度ジュウシマツ小屋を作るのだろうか。俺はそのジュウシマツ小屋の真正面に実験室をあてがってもらい、狭いながらも一国一城の間借り人となった。
 山食はどこに行ったか。山食は講義棟の地階に移動していた。大学正門から出てグラウンドまで10分ほどかかる。山食から動物棟まで15分ほどかかる。そして10年前にいたあの娘はもう人妻である。ある種当たり前のことだが。俺にはもう山食に行く意味はない。幸い、学部生のころ週に2回はお世話になっていたラーメン二郎が、正門から動物棟に向かう中間地点にあった。さっそく行ってみた。あの親父もそのままいた。しかし33歳の俺の腹には、もはやラーメン二郎を完食する力がなかった。当時、ラーメン二郎で食べ残すことは重罪であった。実際に罰せられたのを見たことはないが、残さないのが当たり前だったのだ。俺はその後、二郎に2回ほど行ったが、残しても怒られなかった。
 さて、動物棟である。動物棟があるグラウンド入り口にはちゃんと守衛所があった。そこにいた守衛さんはなぜかケヴィン・コスナーに似ていたので、俺はひそかに「警備員コスナー」と呼んでいた。そして、門を通るとすぐに大学の相撲部屋があった。相撲とか、動物棟とか、おしゃれな三田キャンパスには置いておけなくなったのだろうか。俺は遅い午後に相撲部屋の前を通り、若き力士たちが四股を踏むのを横目に見ながら、二郎は食えないくせに最近肥えてきた、しかし力士にはなれそうもない非力な自分を嘆くのであった。
 渡辺先生はうるむ人であったので、俺に鳥の脳手術の方法を教えてくれると、その後は好きにやってくださいと放置してくれた。俺はつくば時代、ジュウシマツの左脳と右脳が歌の制御で異なる役割を持っているのに気が付いていたので、そこを深掘りしようと決めていた。つくばで行った実験は、ジュウシマツの脳から歌をうたうための鳴管(気管支の付け根にある筋肉と膜からできた発音器官)に至る神経線維を、左右別に切除するものであった。左を切除すると、歌の音響構造が大幅に崩れて回復しない。右を切除すると、術後数日でほぼもとの歌に戻る。鳥の脳の中では左右連絡が弱いので、ジュウシマツでは左脳が主に歌を制御していることになり、もし本当なら人間に似ているではないか。人間でも脳の左側が発話の制御に重要で、右側の影響は少ないのである。
 左脳が歌をうたうのに重要だとして、右脳は何をしているのだ? きっと歌を聞き分けるのに重要なのに違いない。これは検証可能な仮説だ。ジュウシマツを訓練して、ジュウシマツの歌が聴こえてきたら右のボタンを、近縁種であるキンカチョウの歌が聴こえてきた左のボタンを押すようにする。正解したら餌粒を与える。不正解だったら10秒間鳥かごを暗くする。鳥は突然部屋が暗くなるのは嫌いらしく、だんだんと不正解しないようになる。この実験で、ジュウシマツは2種類の歌を2週間ほどで聞き分けることができるのが分かった。
 その後俺は、渡辺先生に教わった脳手術をジュウシマツに行った。脳の上のほうのごく一部、HVCと呼ばれる部位が歌制御の最上位中枢である。頭蓋を一部開き、左か右のHVCを損傷し、また閉じる。俺はこのような手術にはたいへんな適性があったらしく、非常に正確で丁寧な手術をすることができた。鳥たちは麻酔から覚めるとすぐうたい始めるほどであった。
 俺は1階の部屋でそのような研究をしていたのだが、2階には広間があり、学生たちが集っていた。学生たちの中には、たいへん好ましい女性もおり、おい、またそのパターンかよ、と寅さん映画で言うと三味線が鳴るところだ。こうして俺のポスドク第3ラウンドが始まった。 

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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