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若松英輔×山本芳久「人生のソムリエ」になろう

2021年4月5日

若松英輔×山本芳久「人生のソムリエ」になろう

『世界は善に満ちている』刊行記念

第1回 世界を肯定してみよう

著者: 若松英輔 , 山本芳久

「世界は善に満ちている」――こう言われると「そんなわけはないだろう」と反発を覚える人も多いかもしれません。しかし中世ヨーロッパを代表する哲学者トマス・アクィナスは、この世界の在り方を論理的に分析して、そう結論づけました。新刊『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』を刊行した東京大学教授の山本芳久さんに、批評家の若松英輔さんがその真意を聞きます。

※この記事は、2021年2月6日にNHK文化センター青山教室のオンライン講座として行われた対談に、両著者が加筆修正を施したものです。対談の一部は、月刊誌『波』20214月号にも掲載されています。

善は悪よりも優位にある

若松 じつは山本さんとは、三十年来の友人で『キリスト教講義』(文藝春秋)という共著も出したことがあります。これまでも折にふれてトマス・アクィナスをはじめ、キリスト教神学や中世哲学をめぐる問題で、さまざまなことを教わってきました。

山本 トマスは中世ヨーロッパを代表する哲学者・神学者です。その主著『神学大全』は世界史の教科書で必ず紹介されるので、名前だけは知っている人も多いと思いますが、日本語訳で全45巻もあり、実際に読んだことがある人はほとんどいない「読まれざる名著」です。

トマス・アクィナス(1225年頃 - 1274年)


若松
 今回の新著は、日頃私が山本さんから伺っている話よりも、さらに一歩深めて論じて下さった印象で、とても勉強になりました。
 まずは書名の『世界は善に満ちている』にある「善」をめぐってお聞きしたいと思います。私たち日本人は「善」と「悪」を相対的なものと考えがちですが、トマスは異なるところから語っていますね。

山本 「善」と聞くと、道徳的によいという意味に捉える人が多いと思いますが、トマスは、道徳的善だけでなく、有用的善、快楽的善の三つがあると考えます。
 私たちも、たとえば「よいレストラン」と言うときは、シェフが道徳的に高潔な人物だとかではなく、料理がおいしくて雰囲気もよいから、そう評価するわけですね。つまり有用性や快楽、そのような何かしらの「価値」を与えてくれるものが善なのです。

若松 その考え方に従えば、空気や水など私たちの身の回りにある多くのものが、「善」として捉えられるわけですね。人は「善」のなかで暮らしているともいえる。

山本 一方、「悪」は、そういう善が損なわれてしまう状態です。これも道徳的なものに限らず、たとえば地震が起きて蛇口をひねっても水が出ない、あるいは感染症が流行してレストランが閉店してしまうなどということも、有用性が損なわれているという意味で「悪」になります。

若松 「善」を損なうものが「悪」であるとすれば、この世界に何かしらの「善」が存在するからこそ、「悪」が存在しうるということになります。原理的に、「善」は「悪」なしでも存在できるが、悪は善なしには存在できない。「善」の絶対優位があるわけですね。

山本 ですから、もし「世界は悪に満ちている」と感じている人がいても、じつはそれらの悪に先行して、善がこの世界に満ちていることが前提になっているのです。そういう意味で、善は悪よりも構造的に優位に立っている。これがトマスの哲学の根幹にある考え方で、そのような視点から世界を見直すと、より肯定的に生きられるようになると考えています。

若松 西田幾多郎の『善の研究』では、「善」と「悪」を容易に分かちがたいものであると考え、そこを突破していく何か、彼の言葉でいえば「最上の善」を探したわけですが、それとも異なる考え方で興味深いです。

山本 そうですね。「善悪」の捉え方という観点から様々な哲学者の理論を比較してみると、いろいろと面白いことが見えてくると思います。
 『神学大全』は、キリスト教神学を体系化してまとめた百科事典みたいなものだと思っている人が多いと思いますが、決して無味乾燥な本ではなく、私たちの生き方にダイレクトにつながるような、生きた哲学が語られているのです。
 そこで今回の本は、哲学者と学生の対話篇という形式を採り、学生が『神学大全』の読み方を少しずつ身につけていくと同時に、自らの生き方についてヒントを得ていく、という物語仕立てで書いてみました。

感情は受動的に生じる

若松 トマスの「感情」の捉え方もじつに独特です。私たちは日常で「感情が豊かだ」とか「感情的にならない方がいい」などといいますが、これは私たちが感情を、心の中に存在する、ある能動的なはたらきだと捉えていることの表れだと思います。しかしトマスは、感情は受動的なものだと述べていますね。

山本 トマスの言う「感情」は、ラテン語のpassio(パッシオ) です。英語のpassion(熱情)やpassive(受動的)の語源で、感情を意味すると同時に受動という意味でもあります。
 日本語だと「感情」と「受動」は全く異なる概念に思えますが、ラテン語ではこの二つを同じ言葉で表現する。そこには深い含意があって、人間の感情は、心の中で能動的に生じるものではなく、外界の物事や出来事から働きかけを(こうむ)ることによって、受動的に生まれてくるものだということです。 

若松 今のお話は非常に共感できるところがあります。講演などで「受動的な創造性」という話をすることがあります。ものを書いたりするときに、能動的に創造的であるよりも、受動的に創造的である方が、むしろ自分らしく書けることが少なくない。しかし、多くの人は創造性とは能動的なものだと思い込んでいて、話がうまく伝わらないときがあります。トマスの哲学を使えば、この「受動的な創造性」も的確に語れるように思いました。

山本 創造性について、トマスはラテン語のcreatio(クレアチオ)という言葉を用いて説明しています。英語のcreationの語源になっている言葉ですが、これは本来、無から何かを創り出すという意味で、神のみにしか使えない言葉なのです。なぜなら、人間は無から何かを作ることはできず、必ず何かしらの材料を必要とするからです。
 文章を書くという営みも、ゼロから言葉を紡ぎ出すわけではなく、先人たちが使ってきた日本語という言語を使い、先人たちが積み重ねてきた議論を前提に、そこにほんの少し自分の新たな発想を付け加えることで成り立っています。その意味で、人間の創造性も、やはり受動性から出発する側面が強いと言えるでしょう。

若松 「創造」とは何かという問いは、改めて考えてみるべき問題です。近代日本はこのことを十分に考えないまま、突っ走ってきました。そして、「創造」を人間に由来するものであるとして疑わなかった。このことともつながりますが、トマスの感情論でもう一つユニークだなと感じたのは、「希望」や「大胆」もpassio、つまり感情だという論点です。

山本 たしかに日本語で感情と言えば、普通は「楽しい」「悲しい」「愛しい」「憎い」などの「い」で終わる形容詞を思い浮かべますよね。もし「いまどういう気持ちですか」と聞かれて「希望です」とか「大胆です」って答えたら、ちょっと変な人だと思われてしまうはずです。
 英語でもpassioをどう訳すかは意外に難しくて、パッションという訳語もピッタリ対応しているわけではなく、エモーション(emotion)とかセンティメント(sentiment)とか様々に訳し分けていく必要があります。

若松 その「うまく訳せない」という事実にこそ、トマスの感情論が、現代の私たちに新たな気付きをもたらしていることが表れているように思えます。「うまく訳せない」という手応えこそ、感情そのものに肉迫している証しだと思います。

山本 トマスによると、「希望」や「大胆」も、他の感情と同じように、外界から心を揺り動かされて生じている。だから自分の心の中だけでそれを生み出そうと頑張っても難しく、いわば外界との共同作業が必要になるわけです。このように考えると、自分の感情や生き方を見直す手掛かりとなるのではないかと思っています。

若松 これまでお話を伺って、思い浮かぶのは、本居宣長の感情論です。宣長は「感く」と書いて「うごく」と読みましたが、宣長の感覚は、案外トマスの哲学に近いのかもしれません。宣長は、学問が過度に論理的であることに警鐘を鳴らした人物ですが、そうした人物が、トマスと深いところでつながる可能性があるのは、じつに興味深いことです。存在世界を素直に「観る」ことのできる人間ならではの洞察なのだと思います。

(第2回は明日4月6日公開予定)

山本芳久『世界は善に満ちている――トマス・アクィナス哲学講義

2021/01/27

「感情をありのままに深く受けとめよ」――究極の幸福論。

怒り、悲しみ、憎しみ、恐れ、絶望……どんなネガティブな感情も、論理で丁寧に解きほぐすと、その根源には「愛」が見いだせる。不安で包まれているように思える世界も、理性の光を通して見ると、「善」が満ちあふれている。中世哲学の最高峰『神学大全』の「感情論」を、学生と教師の対話形式でわかりやすく解説し、自己と世界を共に肯定して生きる道を示す。

公式HPはこちら

若松英輔

1968年、新潟県生まれ。批評家、随筆家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選、2016年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞、2018年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33回詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16回角川財団学芸賞、第16回蓮如賞受賞。著書に『イエス伝』『悲しみの秘義』『内村鑑三』『霧の彼方 須賀敦子』など多数。

山本芳久

1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。主な著書に『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)、『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞受賞)、『キリスト教講義』(若松英輔との共著、文藝春秋)など。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

若松英輔

1968年、新潟県生まれ。批評家、随筆家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選、2016年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞、2018年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33回詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16回角川財団学芸賞、第16回蓮如賞受賞。著書に『イエス伝』『悲しみの秘義』『内村鑑三』『霧の彼方 須賀敦子』など多数。

連載一覧

山本芳久

1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。主な著書に『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)、『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞受賞)、『キリスト教講義』(若松英輔との共著、文藝春秋)など。


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