2021年4月6日
『世界は善に満ちている』刊行記念
第2回 「徳」の力を身につけよう
真に美味しいものは「最善の味覚を有する人」が決める――こう言われると「いや、味覚は人それぞれで“最善の味覚を有する人”なんていない」と反発する人も多いでしょう。しかし中世ヨーロッパを代表する哲学者トマス・アクィナスは、そのように考えました。新刊『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』を刊行した東京大学教授の山本芳久さんに、批評家の若松英輔さんがその真意を聞きます。
※この記事は、2021年2月6日にNHK文化センター青山教室のオンライン講座として行われた対談に、両著者が加筆修正を施したものです。対談の一部は、月刊誌『波』
徳は力である
若松 近代日本で「徳」というと、どちらかと言えば静的な、止まっているイメージがある言葉ですが、トマスは「徳」は力であり、人間を強く動かすものだと考えているという話が、とても印象的でした。
山本 「徳」はラテン語ではvirtusと言います。英語ではvirtueですね。virは英語のman(男)という意味で、tusは何かを抽象的概念にする接尾辞です。つまりvirtusの原義は、男らしさ、力強さなんです。もちろん、徳が女性にはないということではなく、語源、言葉の成り立ちとしてそうなっているという話です。
先ほど若松さんは、徳という日本語には静的なイメージがあると指摘されましたが、一方で「こういう徳目を身につけなさい」みたいな、上から力で押し付けられるようなイメージも少しあると思うんです。しかし、virtusの力強さとはそういうものではなくて、むしろ人間を内側から強める力なのです。そこがこの徳という概念を理解するために非常に重要なポイントとなります。
若松 「徳」の強制という問題ともどこか関係がありますが、最近、つとめて儒学の本を読んでいるのです。それこそ、学校で教わったものとは異なる儒学の可能性を探っています。「道」という言葉は、儒学の本質を読み解く鍵になる言葉ですが、ある本で、道徳の「道」という字は「いのち」のことだと述べられていました。
ここでの「いのち」は身体的な生命のことではありません。それを包み込み、かつ超越するものです。鈴木大拙の言葉を借りれば「霊性」、さらにいえばキリスト教のいう「霊」と呼ぶべきものだと考えてよいと思います。そして、「徳」は、「いのち」と呼ぶほかない何かが与えた内在的なものであって、それをどれだけ開花させていくかが儒学の根本問題だというのです。
そこで考えてみたいのは、トマスにおける「徳」は、私たちのなかにすでに内在していて、それを開花させるべきものなのか、そうではないのかという点です。
山本 微妙なところもあるんですが、基本的には徳は人間に内在していて、それを私たち一人一人が開花させていくという位置づけです。トマスの徳論は、古代ギリシアの哲学者アリストテレスの理論を引き継いでおり、アリストテレスは、人間がもともと持っている可能性をいかに開花させていくかを考えるのが倫理学だとしていました。
若松 キリスト教神学で「徳」という、もともと儒学をはじめとした東洋哲学の言葉が用いられているのは、それを訳語として採用した人たちがいるからです。今のお話を伺っていても、virtusの訳語に、儒学に根差した「徳」という言葉を選んだ宣教師たちが、いかに深く東洋のことを学んでいたかが改めて理解できました。
キリスト教と儒学はまったく異なるものと思われがちですが、ある点においてはとても近いところがある。「天」「愛」「義」「道」など『聖書』を読み解くうえで重要な言葉は皆、儒学の鍵語(キーターム)でもある。
私たち日本人がキリスト教を受け止め直す際に、神学的な概念にどのような訳語が与えられたのか、その歴史を繙いていくと、新たな糸口が見つかるんじゃないかと思っています。
山本 トマスのvirtusを「力量」と訳す人もいて、これは人間が身につけていく力だということを表現する非常に良い訳だと思いますが、同時に、若松さんもおっしゃっていたように、かつて漢語に深く通じていた人たちが「徳」と訳したことの意味を、当時の文献などを振り返りながら、問い直していくことも重要だと思います。
四つの枢要徳
若松 本の中では「枢要徳」と呼ばれる四つの徳、すなわち賢慮・正義・勇気・節制の話も出てきますね。「賢慮」という言葉は、とうてい馴染みがあるとはいえない。しかし、この国の現状を眺めていると、「賢慮」の重要性が今まさに問われています。これも日常生活に直結する問題だと思いますので、少しお話しいただいてもいいですか。
山本 「枢要徳」という言葉自体は後の時代に作られたものですが、その起源はやはりアリストテレスの『ニコマコス倫理学』にあります。この本は、人間がいかにすれば幸福になれるかを考察しているのですが、単に運がいいだけではダメで、その運を生かせる内的な力を持っていなければならないと言います。「幸福」と「幸運」は大きく異なるわけです。
若松 たしかに、宝くじや相場が当たっても、むしろ、そのことが原因で身を持ち崩してしまうような人は、かつてからいますからね。
山本 賢慮は、ひと言でいうと判断力です。自分が置かれている状況を把握し、そして今ここで何をするべきなのかを判断する力です。この賢慮は、枢要徳の中でも最も重要な力とされています。
もちろん正義や勇気も大切です。しかし、状況判断が適切でないと、正義や勇気ゆえにかえって身を滅ぼすこともあります。負け戦で一目散に逃げればいいのに、正義感や勇気が強いゆえに逃げ遅れて死んでしまうとかですね。そこで状況を適切に見極める賢慮という能力が、人間が生きていくうえで一番重要な力になるわけです。
一方、節制は、自分の欲望をコントロールする力です。正義や勇気があっても欲望にだらしないために失敗してしまうこともあるわけです。
若松 近年は気候変動の問題が論議されていますが、アメリカでは「気候正義(Climate Justice)」という言葉が用いられます。先進国と呼ばれる地域に暮らす人たちが思慮なくエネルギーを浪費することによって、貧しい国の人が苦しむ。これは「正義」に反するというわけです。
日本ではこのような形で正義という言葉を使うことはなかなかない。正義、あるいは「義」はキリスト教でも最も重要な概念の一つですが、これは、人間の側から見れば、隣人と共に生きていく力だと言ってよいと思います。日本で衰微しつつあるこの「義」の力をよみがえらせる際に、キリスト教は、今、なすべきことがあると思います。
山本 日本で正義と言うと、一人一人の問題というよりは、社会とか制度の問題として語られることが多い印象があります。気候正義と言われても、それは個人の問題ではなく、社会の問題でしょ、となってしまう。
でもアリストテレスやトマスの言う正義は、一人一人が他者や共同体と適切に関わる力を指しています。個人としてそのような徳を充実させていくことが、社会全体の良さにつながっていくという発想がもっと強くあっていいのかもしれません。
若松 今の指摘もとても重要だと思います。個人は人類と不可分な関係にあるわけですから。気候変動の問題を考える際に、もう一つ大事な枢要徳は「節制」ですね。私たちはエネルギーの消費を少なくしなければなりません。本書では「節制」と「抑制」は違うという話がされていて、「節制の喜び」という、現代日本では見かけない表現もあって、とても興味深く読みました。
山本 節制と抑制は何が違うかと言うと、たとえば机の上に置いてある甘いお菓子を食べたいけれども、ダイエット中だからと、イヤイヤ我慢するのが抑制です。
それに対して、それを食べるのは自分の健康にとってよくないことだと判断して、自ら食べないという選択をする。すると「今日も健康的な食生活を送ることができたな」という喜びを感じることができる。これが節制です。
つまり節制という徳を身につけることは、何かをイヤイヤ我慢することではなくて、むしろ自分が本当に望んでいるものを見つけ、本当に満足するあり方へと自分を導いていくことなのです。
若松 この点は、現代において見失われがちなことの一つですね。トマスのいう「喜び」もまた、現代では見失われつつあるのかもしれません。「喜び」とは何かを一度立ち止まって考えてみることも「善く生きる」という根本問題を考える上での非常に重要な視座だと思いました。
徳をどう身につけるか
山本 トマスは、徳を身につけるのは、技術を身につけるのと似ていると言います。たとえば子どもがピアノを習うとき、最初は上手く弾けないからイヤイヤ練習するけれど、ある程度弾けるようになると、だんだん楽しくなってくる。技術を身につけると、簡単に素早くできるようになるし、それをやることに喜びが生まれてくる。節制もそれと同じだと言うわけです。トマスの定義では「徳=善い習慣」なんです。
若松 近代日本では「習慣」という言葉が、必ずしも良い意味で用いられてきたわけではありません。事実、今日でもあることが「習慣化している」と私たちがいうときも、そこには消極的な語感があります。
たとえば柳宗悦などはこの言葉を、ある種の惰性のような意味で使ったりしたわけです。日々、用いている器がある。それを見ることに慣れてしまい、日々、新生する美を顧みることができなくなってしまっている。それが習慣だというのです。しかしトマスにおいてこの言葉はもっと積極的なもので、それこそ創造的なものなんですね。
山本 習慣はラテン語ではhabitusですが、これは惰性のような軽い意味ではなく、ある意味で人間そのものなんです。人間とは「習慣の塊」であって、その人が積み重ねてきた習慣がその人らしさを形成している。人間一人一人の在り方にとって本質的なものなんですね。
ですから善い習慣を身につけることは、善く生きる上で決定的に重要なのです。
若松 私は下戸ですが、ワインの話も印象的でした。美味しいワインを味わうためには、美味しいワインを味わう習慣を身につける必要があるというような話がありましたね。
山本 これも元ネタはアリストテレスなんですが、「整えられた味覚を有する人に美味しいと思われるものが、真に美味しいものである」という言い方をしています。何を美味しいと思うかは人それぞれですが、だからと言ってまったく何の基準もない相対的なものではない。味の善し悪しを適切に見分けられる「最善の味覚を有する人」がいるとトマスは言うんです。
若松 「善」と「味覚」が合致しているのも興味深い感覚です。お話を伺いながら「味わう」ということも再考してみたいと思いました。
山本 本当にそんな人がいるのかと突っ込みたくなると思いますが、たとえばソムリエという職業がありますよね。ワインのテイスティングの訓練をして「これは何年モノの良質な逸品だ」とか云々するわけですが、ソムリエによって多少の個性はあるものの、てんでばらばらなことを言うわけではありません。
若松 つまり、訓練をきちんと積めば、ワインを「味わう」という身体機能が整えられて、感覚がある種の方向に収斂していくというわけですか。
山本 そうです。もちろんアリストテレスやトマスは、ワインの話をしたいのではなく、人間が生きていくうえで何が善くて何が悪いかを判断していくのも、それと似たところがあると言いたいわけです。
若松 「徳=善い習慣」を身につけていくことによって、さまざまなものの「善」が見えてくるようになる。これは心の問題でも同じだと思います。幾多の経験を重ねることで、微細な感情を感じられるようになってくる。
あるいは、言葉との関係でも同様のことがいえると思います。音楽や絵画などの芸術経験においても同様でしょうね。
山本 それと同じように、この世界の善さというのも、最初からすべて分かるものではありません。善いものに触れる習慣を形成していくことによって、だんだんと分かってくる。
そのような習慣を身につけるのは、必ずしも楽しいことばかりじゃなくて、ピアノの練習の例のように、最初の方は半分イヤイヤ努力するという側面もあったりします。しかし、「徳=善い習慣」を積み重ねることによって、この世界の善さに自らが開かれていき、それを深く味わえるようになる。
このように、世界の善の味わい方を教えてくれるトマスの哲学は、いわば「人生のソムリエ」になるための教科書として読むことができるのです。
(第3回へつづく)
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山本芳久『世界は善に満ちている――トマス・アクィナス哲学講義』
2021/01/27
「感情をありのままに深く受けとめよ」――究極の幸福論。
怒り、悲しみ、憎しみ、恐れ、絶望……どんなネガティブな感情も、論理で丁寧に解きほぐすと、その根源には「愛」が見いだせる。不安で包まれているように思える世界も、理性の光を通して見ると、「善」が満ちあふれている。中世哲学の最高峰『神学大全』の「感情論」を、学生と教師の対話形式でわかりやすく解説し、自己と世界を共に肯定して生きる道を示す。
公式HPはこちら。
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若松英輔
批評家、随筆家。1968年、新潟県生れ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年、「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選。2016年、『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞。2018年、『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33回詩歌文学館賞詩部門受賞。同年、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16回角川財団学芸賞、2019年、第16回蓮如賞受賞。2021年、『いのちの政治学』(集英社インターナショナル、対談 若松英輔 中島岳志)が咢堂ブックオブザイヤー2021に選出。その他の著書に、『霧の彼方 須賀敦子』(集英社)、『悲しみの秘義』(文春文庫)、『イエス伝』(中公文庫)、『言葉を植えた人』(亜紀書房)、最新刊『藍色の福音』(講談社)など。
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山本芳久
1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。主な著書に『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)、『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞受賞)、『キリスト教講義』(若松英輔との共著、文藝春秋)など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 若松英輔
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批評家、随筆家。1968年、新潟県生れ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年、「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選。2016年、『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞。2018年、『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33回詩歌文学館賞詩部門受賞。同年、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16回角川財団学芸賞、2019年、第16回蓮如賞受賞。2021年、『いのちの政治学』(集英社インターナショナル、対談 若松英輔 中島岳志)が咢堂ブックオブザイヤー2021に選出。その他の著書に、『霧の彼方 須賀敦子』(集英社)、『悲しみの秘義』(文春文庫)、『イエス伝』(中公文庫)、『言葉を植えた人』(亜紀書房)、最新刊『藍色の福音』(講談社)など。
連載一覧
- 山本芳久
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1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。主な著書に『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)、『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞受賞)、『キリスト教講義』(若松英輔との共著、文藝春秋)など。
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