これまで、長崎の町のはじまりから、キリシタンの時代、禁教、鎖国、開国までをたどってきた。しかし前回の「信徒発見」に至ったところで、「この様子を、“長崎”の人は、どう思って見ていたのだろう」と立ち止まってしまった。
 世界宗教史上の奇跡とさえ称される「信徒発見」は、いまとなってはおなじ長崎の町で起こったことだが、この町にもう少し分け入ってみると、「“長崎”ではなく“浦上”の人々のものである」と言うこともできるからだ。

 


 江戸時代以前は、開港当初からの長崎の旧市街を含む「長崎村」があり、そのさらに北側に「浦上村」があった。長崎村は1580年、領主の大村氏により、茂木村とともにイエズス会に寄進されたが、浦上村はその4年後に有馬氏によって寄進されている。もとは別の土地だったのだ。後にいずれも天領となるが、長崎市街地は奉行、長崎村と浦上村は代官の管轄であり、なにより禁教後のありかたが大きく違っていた。

 長崎と浦上の人々は、本来どちらも熱心なキリシタンだった。
 1571年の開港後に、新しい長崎の町を作った人の中には、信仰のために故郷をも捨てた人たちが多くいた。1614年の禁教令の後も信仰は続き、20年後に始まったキリシタン対策のための「くんち」は、たびたび妨害された。しかし、鎖国時代の貿易港という特殊業務ゆえに、監視・管理体制が厳しくなり、踏絵によって棄教を表明することで貿易の利益が配分されるシステムが作られ、結果的に長崎の人々は信仰を棄てる道を選んだ。
 それに対し浦上では、人目が少ない農村だったこともあり、どうにか潜伏することができた。長崎でくんちが始まった1634年の教会暦を伝えながら、200年以上も信仰を守った。

 「信徒発見」により、浦上のキリシタンたちは長い潜伏を終えた。禁教の高札はまだ掲げられていたが、自由な信仰生活への流れが止まることはなかった。彼らはその後も大浦の天主堂に通うだけでなく、地元に「秘密教会」を設けて神父を招いては、カトリックの教義をあらためて学び、秘儀を授かりながら信仰を深めた。神父の側でも祈りや儀式の正確さを調査、検証し、言葉が若干訛ってはいるものの、本質的な部分は伝承されていると認めた。

秘密教会のひとつ、「聖フランシスコ・サベリオ堂」跡


 先祖代々、踏絵の試練にも耐えながら守った信仰の正しさが証明された。それはどれほどの喜びと誇りだったか。
 「信徒発見」から2年後の1867年の春、ついに葬儀までをも、檀那寺の僧侶を呼ぶことなく、自分たちで行うようになった。これは当時の社会を支えていた「寺請制度」に真っ向から反することである。禁教期最後の大弾圧事件「浦上四番崩れ」は、ここから始まった。
 「崩れ」とは、信仰の組織が摘発、弾圧されること。「四番」というからには、それまでも「一番(1790年)」、「二番(1839年)」「三番(1856年)」があった。ただしいずれも密告によるもので、“本人”たちは否定したし、役人や奉行側も厳しく取り調べはしたものの、ご禁制のキリシタンではなく「心得違い」「異宗」などと処理されてきた。
 けれど、たぶん、みんな分かっていたはずだ。ずーっと、キリシタンがいたことを。でも、そんなものは存在しないのがお互いのためだった。
 「信徒発見」は、その均衡を破った。二百数十年前の予言通りに現れた神父により、あらためて確かな信仰を手にした彼らには、そんな処世術など意味はなくなったのだろう。「自分たちはキリシタンであるから、寺の世話にはならない」と、殉教も辞さない覚悟を庄屋に伝えた。
 幕府にしてみれば、250年も禁じてきたはずのキリシタンの存在が公になったばかりか、社会のシステムを揺るがされかねない事態だ。長崎奉行所は密偵を出し、キリシタンの組織や生活、秘密教会の実態などを探った。約3ヶ月の内偵の後、奉行所の捕吏が4ヶ所の秘密教会へ踏み込み、70人ほどのキリシタンを捕らえた。

捕縛されたキリシタンは、かつて「サン・フランシスコ教会」があった「桜町牢」に収容された


 その年の秋に江戸幕府が倒れ、明治政府が樹立した。しかしキリスト教は国家神道の推進を阻む「邪宗」として引き続き禁じられ、浦上のキリシタンの総流罪が決定した。1868年から70年にかけ、およそ3400人ほどが、萩や津和野、金沢、鹿児島などの20藩に流され、1873年まで拘留された。流配(るはい。流罪)先では過酷な扱いや拷問を受け、600人以上が命を落とした。
 この事態に、諸外国からは幾度となく抗議が寄せられ、岩倉具視らの欧米視察団は、行く先々で信教の自由を守るよう強く求められた。1873年、明治政府はついに禁教の高札を下ろし、流配されていたキリシタンを釈放した。この6年間を信者たちは「旅」と呼び、後々まで語り伝えた。
 信者たちが浦上に戻ってみると、家財道具はすっかり略奪されていたが、祈りを唱える自由を奪われることは、もうなかった。朝から晩まで働き、日曜日には大浦の天主堂でミサに預かる。貧しくとも精神的には満たされた生活を、彼らは勝ち取ったのだ。さらには、かつて踏絵をさせられていた庄屋の土地を手に入れ、1880年に仮聖堂、1895年からは本聖堂の建設を始めた。5銭、10銭の献金を貯めてレンガを買い、ひとつひとつ自分たちで積み上げていった。
 計画、設計も合わせれば、完成までおよそ四半世紀。悲願だった本聖堂である「浦上天主堂」の献堂式が行われたのは、1914年3月17日、「信徒発見」から50年目の日だった。

いまも残る庄屋屋敷の石垣


 長崎と浦上のあいだには、二十六聖人以来、多くの殉教の場となった西坂の丘がある。この栄光を目の当たりにし、さらなる信仰を誓った人々と子孫の生きかたは、この丘を境に分かれた。
 棄教にせよ潜伏にせよ、禁教と踏絵は人々を苦しめ続けた。その上で、浦上には、予言の成就という奇跡や、つらい「旅」の果ての自由、先祖からの信仰を守り通した喜びが訪れた。
 その姿は、"長崎"の人の目に、どう映っていただろうか。

 ふたつの土地は、明治末期から大正初期にかけての市域の拡大でひとつの町となり、都市化と工業化が進んだ。そこへ、第二次世界大戦が起こり、またもや長崎の名が世界史に刻まれる瞬間が訪れるのである。(つづく
(写真・イラスト ©Midori Shimotsuma)