大学生の夏に訪れた広島。水面にうつる、原爆ドーム。
 

 夏。73年前の8月も、こんな蒸し暑さに覆われていたのだろうか。心の中がどこかざわざわとする。この“ざわざわ”の正体は一体何だろうか。探ろうと目を閉じたとき、ふと一人の「おじいちゃん」の顔が浮かんだ。
 あれは大学生の頃だった。戦後64年の夏に、64歳年上の飯田進さん(当時86歳)と東京新聞の企画で対談をさせてもらうことになった。ニューギニア戦線を生き抜いた、元BC級戦犯の方、というだけで、当時の私は身構えてしまっていた。けれども実際に向き合った飯田さんは、柔和な顔つきで、穏やかな語り口調だった。私はその後も度々飯田さんの元を訪れては、少しずつ、当時のこと、そして今の時代を見つめる心の内を伺うことになる。
 BC級戦犯とは、「通例の戦争犯罪」や「人道に対する罪」に問われた人々のことを指す。最初はその恐ろし気な言葉と、飯田さんの柔らかな眼差しとが、どうしても結びつかなかった。
 ニューギニアに派兵された1943年、飯田さんは二十歳になった頃だった。補給路を断たれた上に、“魔境”と呼ばれるほどのジャングルの中をさまよい歩かなければならなかったという。部隊の大半が、銃撃戦ではなく飢えや赤痢で命を落としていった。病に侵された戦友たちが、“殺してくれ”と自身の腕の中でうめきながら亡くなっていった風景を、ありありと思いだすという。
 戦況が不利に転じていくにつれ、次第にゲリラの存在に脅かされていくことになる。飯田さんが、ゲリラの首謀者として疑いをかけられた現地住民の殺害とかかわったのは、その頃だった。殺害したのはある村の村長だった。ところが後に、彼はゲリラの首謀者ではないことが分かっていく。当時を振り返りながら飯田さんは語る。自分たちこそがアジアを解放するのだという思い上がりを、嫌というほど痛感させられた、と。「“解放”しようとしていた現地住人たちから、あれほど憎しみの目で見られたのだから」。興亜青年だったという飯田さんが、それまで信じて疑わなかったものが打ち砕かれた瞬間でもあった。
 飯田さんの語るこの体験こそが、私に大きく欠落していた視点だということに次第に気づかされていった。これまで学んできたことの大半が、“被害の苦しみ”だった。勿論それは学ばなければならない歴史の傷跡ではある。ただ大戦である以上、傷つけられているものの裏側には、当然、傷つけている立場としての姿があるはずだ。
 飯田さんは、ご自身のお孫さんに戦争体験を語ったことがないのだという。家に帰れば、どこにでもいる“普通のおじいちゃん”なのだ。自分の子どもたち、孫たちに、「自分が人を殺した」と語ることなど到底できないのだ。それを語ることはときに、吐き気を伴う苦痛だという。“語らない”のではなく、“語れない”のだった。
 飯田さんが収容されていたのは、GHQが戦犯を収容していた“スガモプリズン”だった。“スガモプリズン”は現在の池袋サンシャインシティにあたる場所だ。収容の最中、朝鮮戦争が勃発し、元職業軍人たちが次々に警察予備隊に入隊していった。その様子に、飯田さんたちは獄中で憤ったという。「再び戦争へと向かっていくなら、自分たちは何のためにここで裁かれているのか」。その時代の流れの中で、飯田さんは56年に釈放されることになる。
 晩年の飯田さんと言葉を交わしながら、その表情に憤りよりも深い悲しみがにじんでいることがひしひしと伝わってきた。安保法制、武器輸出三原則、と時代は“逆コース”をたどろうとしていた。
 「これまで何度となく戦争の体験を語ってきた。それは徒労に近い作業だったのかもしれない」。想像力と現実との間には大きな開きがあるのだ、と飯田さんは語る。「例えば100分の1、ときには1000分の1しか伝わらないことが多々あるだろう。何百回語っても、無意味に近かったのかもしれない、と思うときがある」。一呼吸置き、飯田さんは更に続ける。「それでも語らずにはいられないのはね、同じ思いを繰り返してはいけないことを、身をもって知っているからなんだ」。
 飯田さんが語るように、あまりにも時代が移り変わり、体験を語ることを躊躇する、語っても伝わらないのではと恐れる人たちもいるだろう。だからこそ私たちは、語られることをただ待つ、受け身であってはならないのだと改めて思う。
 飯田さんは2016年、93歳でこの世を去った。あの“ざわざわ”の正体は、再び忍び寄る不穏な時代の影と、飯田さんの投げかけを受け止めたはずの自分が、果たしてその教訓を行動に移せているのかという焦燥感のようなものかもしれない。夏。テロとの闘い、脅威に抗う、と変わらず「正義」が振りかざされている。ただ、過去は私たちに語りかける。今必要なのは、その信じて疑わない「正義」を、一度顧みる勇気なのではないか、と。

イラクの空。弧を描いているのは、戦闘機の軌跡。