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没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

夫婦は「Dead or 没イチ」

 42歳で未亡人になった。

 その時、私は第一生命経済研究所で、死生学を専門とする研究者だった。「人は死ぬ」という当たり前のことと毎日向き合う研究をしていながら、まさか自分の夫が、しかもある日突然に死ぬとは、恥ずかしながら考えてもみなかった。講演などで、「人はいつ死ぬか分かりません」と偉そうに言っていた私が、夫の突然死に遭遇し、突然に没イチになってしまったのだ。

 没イチという言葉を初めて聞いた人も多いだろう。私の造語ではないが、この言葉に嫌悪する人も多い。私は、「バツイチです」と同じように、配偶者と死別して「没イチです」と言えるような風潮になればいいなと思って、使っている。配偶者と死別した人のことを表す言葉に「未亡人」とか「やもめ」などがあるが、他人に言われたら不快だという人は、私のまわりにも多い。
 壊れたものや使えなくなったものを処分するという意味の「ボツ」ではなく、没年月日の「没」から没イチ。好き好んで没イチになりたい人はいない、でも残されてしまったのだから、その後の人生をどう生きるかを考えなければならない。この体験を通じて、私は気づいたことがある。「自分が死ぬ」だけでなく、「死なれる」ことも考えておかねばならないということを。

 私がかかわったホスピス財団の2018年調査で、配偶者がいる人に「あなたと配偶者のどちらが先に死ぬ方がいいか」という質問をしたことがある。すると60歳以上の女性は「夫」と回答した人が圧倒的に多かったのだが、59歳以下になると、「自分」と答えた女性の方が多かった。一方、男性はどの年代でも「自分が妻より先に死にたい!」と考えている。どちらが先に死ぬかなんて希望してもその通りになるとは限らないのだが、60歳以上の女性は、「夫は一人で生きていけないので、夫を残しては死ねない」と思っているのに、59歳以下の女性になると、「一人で生きていくのはイヤだから、夫より先に死にたい」という思考になる。50代以下の夫婦は、「死んだモン勝ち」なのだ。相手より先に死にたいとお互いに思っているというのは、冷静に考えるととても奇妙だ。

 「死が二人を分かつまで」。キリスト教の結婚式で、新郎新婦が永遠の愛を誓う言葉だ。離婚率が日本よりずっと高いアメリカやオーストラリアでは、結婚式でのこんな誓いはナンセンスだという議論が持ち上がっている。死別するまでに、夫婦が離別する確率が高いからだ。
 しかし離婚しない場合、夫婦はDead or 没イチで終わる。夫婦が同時に亡くなるというのは事故にでもあわない限り、可能性は低いので、夫婦の最後は、先に死ぬ側か、残る側かの二択しかない。先に死にたいと思っていても、残ってしまうかもしれない。そんなことはまだまだ先のことだと思っている人は多いかもしれないが、人間の命がいつ終わるかなんて分からないのだから、いつ没イチになってもおかしくないのだ。
 そんなわけで、ある日突然、未亡人になった私は、「笑うな。悲しい雰囲気を醸せ」という世間のまなざしに傷ついたり、離死別という言葉のように、離婚と死別を一括りにしてしまう感性などに初めて気が付いたりなど、死別者に対する違和感を抱くようになった。

亡きパートナーの分も二倍人生を楽しもう!

 「死を受け入れなさい」という専門家のアドバイスも理解できない。死を受け入れるとはどういうことなのだろうか。ある日突然、私の前からいなくなった夫は、本当に死んだのだろうか。遺体は見たが、なぜ死んだのかが分からない私は、いまだに夫がアフリカに出張しているような錯覚を感じる。夫がアフリカにいるような気持ちになるのは死を受容していない証拠で、あの世でまた会えると思っていれば、死を受け入れていることになるのだろうか。
 私には子どもがいないのだが、「子どもがいればよかったのにね」と言う人もたくさんいた。夫が突然死んだとき、まだ小さな子どもがいたのなら、残された私の生活は大変なことになっただろう。「いなくてよかった」と私は思っている。私一人の生活ならなんとかなるが、シングルマザーで幼子を抱え、出張の多い仕事をこなすなんて、想像もできない。もしも子どもがいたのなら、私は夫の死を契機に、転職をしなければならなかっただろう。
 「そんな年齢で死別してかわいそうに」と言ってくれる人もいた。しかし、私はこの年齢で死別してよかったとさえ思っている。80代や90代で死別し、一人になったら、生活を立て直す気力も体力もないだろう。夫が生きていたら、旅行もたくさんできたし、美味しい物ももっと二人で食べに行けただろう。一緒に泣いたり、笑ったりする時間ももっともっと欲しかった。でも、いつか死別するなら、一人になって寂しいけれど、外に出ていく体力もない年齢でなくてよかった、と、今振り返ってみると思う。

 私の知り合いで、30代で夫ががんで亡くなり、三人の幼子を育て上げた人がいる。生命保険や遺族年金などもあり、夫が亡くなった後もお金には困らない生活だったとはいえ、彼女の両親のサポートがなければ、一人で子育てするのは大変だっただろう。夫と死別して30年以上も経った今、孫も誕生し、彼女は一人で悠々自適の生活を送っている。悲しいことやつらいことの先には、何かが待っていると思って、がむしゃらに生きてきたというのが、若くして没イチになった人の本音だろう。
 私は女子大学で非常勤講師をしているが、学生が将来結婚したい理由として、「老後、一人は寂しいから」を挙げる人は少なくない。「結婚しても、最後は一人なの」と、私は学生に繰り返し言う。Dead or 没イチ―私たちはこの現実をどのくらい、理解しているのだろうか。

 2018年、新潮社から『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』を上梓した。終活ブームもあって、「どう死ぬか」を考える風潮が出ているが、夫婦でいる間、「配偶者に残されたあと、どう生きるか」を考えるきっかけになればと思い、実際に没イチになった人たちの体験談も掲載した。
 死んだ配偶者の分も二倍人生を楽しもうというキャッチフレーズのもと、私が講師をしている立教セカンドステージ大学の没イチである学生やOBらと、「没イチ会」を結成した。今では没イチ会を目指して、立教セカンドステージ大学に入学する人もいるほどだ。結成の発端は、同じ境遇の人同士が情報交換できる場所がこれまでなかったことだ。例えば、定年退職の数年前に妻を亡くした男性は、退職を記念した同窓会で、「妻と旅行を楽しむ」とか、「妻と移住する」など、定年後の過ごし方をみんなが話しているのを聞いて、居心地が悪かったという。「妻は死んだ」と言うと場がしらけるかと思い、だまってみんなの話を聞いていたそうだ。没イチ会では、全員が配偶者と死別しているので、「再婚したいか」「一人で旅行できるか」など、ほかの人に気兼ねなく話すことができるのだ。

後先考えない私と、後先を考えられないカンボジア人と

 没イチを生きるなか、昨年、50歳になるのを機に、私は26年近く勤めた会社を辞めた。夫に先立たれ、没イチになったが、次は私が死ぬことになる。夫のように突然死ぬかもしれない。寝たきりになって死ぬかもしれない。どんな死に方をするかは分からないが、夫の死を無駄にしてはならないという一心で、これまで死生学者として邁進してきたが、私自身が、今日死んでもいい人生を送っているのかという疑問がわいたのだ。
 アジアの貧困の子どもたちのためにいつか何かをしたいという夢を持っていた。私が今死んだら、やりたいことがやれずじまいになる。夫も、やってみたいこと、行ってみたいところはたくさんあったに違いない。夫の分も二倍人生を生きることを心に誓った私は、「毎日会社に行って、こんなことをしている場合ではない!」と、気づいてしまった。まだ50歳。今なら、一からまったく新しいことにチャレンジできるかもしれないが、これが60歳だったら、チャレンジ精神自体が萎えているかもしれない。よし、いまだ! と、後先を考えず、会社を辞めることを決意した。

 でも辞めて何をするのか。アジアの若者の応援をしたいという漠然とした思いだけを持ち、今はカンボジアのプノンペンで、細々としたベーカリーをやりながら、店を貧しい女性に無償で貸し、カフェやレストランをしたいという若者を応援している。
 とはいえ、恥ずかしながら、数年前までカンボジアが地図のどこにあるのかもよく知らなかったし、170万人以上の国民を虐殺したポル・ポトや、有名な観光名所アンコールワットのある場所などというイメージしか持っておらず、カンボジアには何の興味もなかった。アジアは夫とも旅し、研究でもたびたび訪れる機会が多かったが、カンボジアだけには行ったことがなかったのだ。どうせなら行ったこともない国に行ってみるか、という軽い気持ちで初訪問したのが、会社を辞める半年前。普通の人は年を取るにつれて慎重に物事を進めるようになるのだろうが、私の場合は、「思いたったらすぐ実行!」とカンボジアへ飛び出した。しかし後先考えないツケは、必ず回ってくるもので、毎日のように、「もう辞めよう」と思うのだが、カンボジア人から学ぶこともたくさんある。東南アジアの人たちに共通にみられるのだが、「今日を生きることで精いっぱい」の彼らには、将来の自分の姿を思い描くことができない。でも、今日楽しければいいじゃないかというマインドが悪いわけではない。
 私たち日本人は、将来への不安がいっぱいで、今日という日を楽しんでいるのだろうか。日本にいれば、そんなことを考えたことがなかったが、後先を考えないで行動する私と、後先を考えられないカンボジア人たち。お互い、深く考えずに行動するので、失敗してもへこまない。儲けのための商売でやっているわけではないので、私のなかには失敗という言葉すらない。普通に考えれば失敗続きなのだが、この失敗を楽しめる余裕さえ出てきた。会社を飛び出してよかった! と、心から思う。夫と死別していなければ、カンボジアに一生行くことはなかっただろうと思うと、人生は何歳からだってやり直せるし、思い描いたようにならないからこそ、人生は面白いとさえ思えるのだ。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小谷みどり

こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。


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