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没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

驚愕の手動水洗トイレ、ゴキブリ水の洗礼

 敬虔なカトリック教徒が多いフィリピンでは、節目の結婚記念日に神の前で誓いを繰り返すカップルは珍しくない。これをヴァウ・リニューアル(vow renewal)というらしい。私にはマニラにホストファミリーがいるが、80歳を超えたパパとママの結婚25年、50年には、私も教会の儀式やパーティに参列した。フィリピンには法律上、離婚という制度がないので、文字通り、「婚姻生活は死が二人を分かつまで」を遵守する、世界でも珍しい国だが、定期的に神に誓いを立て、夫婦で気持ちを新たにする習慣は興味深い。

結婚50周年のvow renewal(以下すべて写真は著者提供)

 私の婚姻についてお話しすると、夫と入籍したのは2000年。と同時に、会社を一年間休職し、すでに夫が駐在していたシンガポールで新婚生活をスタートさせた。
 夫との出会いは、入籍からさかのぼること10年近く前、私が大学院生だった時。日本の内閣府とアセアン(ASEAN=東南アジア諸国連合)が共同で開催している「東南アジア青年の船」事業で、同時期に派遣された仲間だった。前述のフィリピンのホストファミリーは、その時の私のホームステイ先だ。
 アセアン各国の若者と日本の若者が船内で一か月ほど共同生活をしながら、停泊した各国では家庭にホームステイをしながら、国際理解を深めようという事業だ。
 私の父はアメリカ、母はフランスが大好きで、私が子どものころから、英語やフランス語を母国語とする外国人が自宅にしょっちゅうやってきていた。ところが両親はアジアにはまったく関心がなかったし、私が中学生から高校生にかけては、フィリピンではマルコス大統領の政敵だったアキノ元上院議員が射殺されたり、そのマルコス大統領が革命で失脚したり、日本人駐在員が誘拐されたりなど、治安が悪いというイメージがあった。しかもテレビで紹介されるアジアの国は、貧しい子どもが学校にも通わず、巨大なごみ捨て場からごみを拾って体の弱い親を助けているとか、タイではエイズという恐ろしい病気が流行しているとか、そんな暗いニュースばかりが流れていた。
 そんな危ない地域に個人では行けないけれど、同じアジア人として、国の事業ならば行ってみたいと思ったのが、東南アジア青年の船の試験に応募したきっかけだった。

 今でこそアセアンの加盟国は10か国に増えたが、私が参加した1991年当時は、ベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジアは未加盟だった。東京の晴海を出港した船は日本人だけを乗せて数日かけて、最初の寄港地、マニラ湾に入港した。船の甲板から見たマニラの光景は今でも忘れることができない。いままでニュースで見聞きし、イメージしていたマニラとは異なり、大きなビルが林立していたからだ。
 とはいえ、前述のホストファミリーは、中の上の生活レベルではあったが、家のある地区全体に水道が通っておらず、一日のうちで何度も停電するという、生まれて初めての経験をした。毎朝、お父さんが近くの井戸で家族が一日に使う水を汲んできて、大きなバケツに水をためていた。トイレを借り、洋式便座のレバーを回しても水が流れなかった時には焦ったが、「便座の横に水の入ったバケツがあるからそれで流せ」と言われた時には、とてもびっくりした。
 また、食器と体を洗う場所が同じなうえ、ロウソクのほのかな明かりを頼りに、ゴキブリが浮かんでいるのが見えるバケツの水で髪を洗いながら、「この先、私はどうなるんだろうか」と不安が募り、泣きそうになったことを覚えている。ゴキブリ水のせいだったのか、目にはものもらいができ、ホームステイから船に戻った時には、みんなに心配された。
 それから30年。私が足繁く通うカンボジアのプノンペンでは、今でも停電は日常茶飯事だし、水シャワーや手動水洗トイレだって、へっちゃらだ。郷に入れば郷に従える才能は、マニラでの人生初体験で開花したと思っている。

ホストファミリー重体の知らせでクアラルンプール0泊「里帰り」

 私のこれまでの「常識」が覆されたマニラでの経験はまだある。家にはゲストルームがなく、私が泊まる部屋を子どもがあけてくれた(私のせいで、子どもたちはダイニングルームで雑魚寝)。滞在中のごはんは特別なごちそうが出てくるわけではなく、家族みんなでわいわい言いながら、少量のおかずを分け合った。日本では、というか、我が家では、外国からお客さんが来たら、天ぷらやお寿司、しゃぶしゃぶなどの和食か、ステーキやイセエビなど、普段の食卓には並ばないようなごちそうをふるまうのが「常識」だった。
 でも、国籍も文化も言葉も違うのに、私をお客さん扱いせず、娘のようにかわいがってもらったフィリピンでの体験は、その後の私の人生に大きな影響を与えた。今でも、フィリピンに「里帰り」したら、両親は山のようにマンゴーを用意してくれているし、私が大好きなウベという紫山芋のアイスを箱で買ってくれる。そして、「日本の娘が帰ってきました」と、近所中に言いふらして回るのだ。

ウベアイスを「好きなだけ食べなさい」と出してくれる

 その後の訪問国でも刺激がたくさんあった。英語をまったく話せないインドネシア人家庭のホームステイ先では、断り切れずに口にしたかき氷で嘔吐発熱をし、インドネシア語を覚えなければこのままでは死ぬかもしれないと思った。
 イスラム国家のブルネイでは、モスクでの礼拝に行くホストファミリーに同行したが、異教徒の私は外で待っていたら、溺死した遺体がモスクに運ばれてくるところに遭遇した。日本でモスリムに接したことはなかったし、イスラム文化に関心を持つ機会もなかったが、日本では人目に触れるところに遺体を安置したりしない。遺体を忌避するわけでもなく、普通に人々とモスクに出入りしている光景を目の当たりにし、死や遺体への感覚が文化や宗教観によって違うことをこの時、初めて知ったのだった。タイでは、テレビニュースや新聞に、交通事故や殺人事件の被害者の映像や写真が普通に流れていたのも衝撃だった。大学院を出て「第一生命」の研究所に入った私が、独学で死生学を学び、研究者として専門分野にまで選んだきっかけの一つは、ブルネイやタイでのこの経験にある。

 マレーシアのホストファミリーもモスリムだったが、フィリピンの家族と同様、最初の出会いから30年間、ずっと家族同然のつきあいをしている。シンガポールに住んでいた時は、バスに乗ってしょっちゅう「里帰り」をした。断食明けのお祝いを一緒にしたり、国内旅行をしたり、自宅で経営していた花屋の配達の手伝いもした。「日本人が花の配達にやってきた」とお客さんたちがとても喜んでくれ、自宅に上がり込み、お茶やお菓子をごちそうになったことは何度もある。華人系の自宅からお葬式の枕花の注文があった時には、異教徒の遺体の近くに行きたくないママの代わりに花を届けたら、遺族がチップをくれたこともあった。
 この家の長男が3年前に脳梗塞で倒れたときには、「すぐ帰れ」と連絡があり、クアラルンプール滞在半日という強行軍で日本から駆け付けた。彼はその10日後に亡くなったが、一家が私を家族の一員だと思ってくれているその気持ちがとてもうれしかった。

亡くなる10日前の長男。私にとっては「弟」

東南アジアの人たちのために―夫と将来の夢を語った日

 こうして私は、夫との出会いの場でもあった東南アジア青年の船をきっかけとして、アジア人の魅力に取りつかれていった。アジアと言っても、仏教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教と、人々が信仰する宗教もまちまちだ。豚肉を食べないモスリムと、牛肉を食べないヒンズー教徒。新婚時代に住んでいたシンガポールには、「自分は仏教徒なので、肉は一切口にしない」というベジタリアンもたくさんいる。
 それでも、何か感性がアジア人同士は似ているなと思うことが多い。東南アジア青年の船では、フィリピン人とブルネイ人と同室だった。敬虔なカトリックのフィリピン人と、シャワーを浴びる前までは、部屋の中でもずっと髪を覆っているモスリムのブルネイ人。
 夜になると、「どんな男性と将来結婚したいか」と、ベッドに座ってガールズトークをした。ブルネイ人の同室者は、「私以外の女性とも結婚する男性はイヤだから、お金のない人がいい」と言っていた。イスラムの法律では、男性は4人まで女性と結婚することができるが、その頃のブルネイでは、妻が2人以上いる男性は珍しくなかった。ブルネイで女優をしていた色白美人の彼女は、「私だけを見てくれる男性がいい」と何度も言っていたのがとても興味深かった。法律で認められているとはいえ、女性からすれば、自分以外の女性と夫が結婚するのは気持ちのいい話ではないだろう。一夫多妻制の国ならではの女性の本音を聞き、女性なら感じることは同じだよな、と共感したのを覚えている。

 ちなみに、この女性は同じく船の仲間と結婚し、今はカンボジアのブルネイ大使館に駐在している。昨年、プノンペン市内のコンビニで、28年ぶりに偶然再会した時には本当に驚いた。世界は狭いなとつくづく思う。あの時に思い描いていた通り、妻は彼女だけで、6人の子どもにも恵まれた。

プノンペンで28年ぶりの再会

 大学院生の時に参加したこの経験のおかげで、私の世界が広がり、人生観が大きく変わったことは間違いない。学生時代から、アフリカの子どもたちが学校に通えるよう、アルバイトで稼いだお金の中から月に2万円を支援していたが、いつか、アジアの貧しい子どもたちが自立して生きていけるような支援をしたいと思うようになっていた。

 研究所に入社して半年ほど経ったころ、フリーテーマでコラムを書く仕事が回ってきた。この船の体験で人生観が変わったという内容の原稿を上司に提出したところ、「東南アジアに数か月行ったぐらいで、人生が変わるなんて大げさだ、書き直せ」と注意を受けた。新入社員なのに怖いもの知らずの私は、「他人に何が分かるか!」と上司に反発し、頑としてその表現を直さなかった。
 今でこそアジア好きな人はたくさんいるが、30年近く前はまだまだアジアに偏見を持つ人が多く、フィリピンやインドネシアのお菓子をお土産に配っても口にしたがらない人は少なくなかった。
 そんななかで、東南アジア青年の船で知り合った夫とは、アジア人として同胞を支援したいという漠然とではあるが、同じ志を持っていた。結婚後も「定年退職したら、フィリピンで孤児を育てよう」といった夢をよく語りあっていた。だから、まさかそんなに早く「死が二人を分かつ」という状況が来るなんて、想像すらしていなかった。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小谷みどり

こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。


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