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没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

その日は突然にやってきた

 2011年のゴールデンウイーク初日。翌日からシンガポール出張の予定があったのに、前の晩、夫は会社の先輩と飲んで帰ってきた。私も友人と銀座で食事をし、お酒が入っていたこともあり、夫の帰宅早々、「明日の準備はできているの?」といったような会話を少ししてから、別の部屋で寝てしまった。
 翌朝ふと目覚めると、時計の針は6時を過ぎたあたりを指していた。夫はもう起きているはずの時間なのに、家の中が静まり返っていることに気づいた。寝坊だ! 早く起きないと、空港バスに間に合わない! そう思って、「早く起きて!」と叫びながら、ベッドルームに駆け込んだ。ところが夫は、すやすやと眠ったままだ。「早く起きて!」と、もう一度叫んで、今度は夫に近づいた。それでも、反応しない。
 何かがおかしい。その瞬間、布団から出ていた腕の内側に、青あざのようなものが二つ見えた。死斑だ! 死んでる! と直感した。
 しかし同時に、なぜ死んでるのか、不思議だった。私が置かれている状況が、すぐには自分で呑み込めなかった。前夜の記憶をたどってみた。私が先に寝たので、夫が何時にベッドに入ったのかは知らなかったが、最後に夫を見たときにはリビングルームにいた。少なくとも自力でベッドに入ったはずなので、私が寝入った夫を殺したのだろうか、私が作った昨日のお弁当があたったのだろうかと、すやすや眠る(ように見える)夫を見ながら、テレビドラマの検視官のように、死因をいろいろ妄想した。人間はあまりにも予期せぬことに遭遇すると、思考回路がおかしくなるのだろうか。

 ふと、我に返った。なぜ死んでいるかは分からないけれど、死んでいる限りは、警察に電話をしなきゃならないことを思い出した。とはいえ、こんな場合は、警察ではなく、救急に電話をする人の方が多いということは、仕事柄、知っていた。私は死生学の研究者で、葬送問題に関する書籍もあり、人が亡くなった後の手続きについても詳しかった。
 警察に電話をかけて、不審がられたくないという思いもあり、すでに亡くなっている以上、救急に電話をすることは二度手間になり、無駄であることはわかっていたが、とりあえず救急に電話をしたのだった。冷静に考えてみると、最初から警察に電話すればよかったのだが、私が殺したのかもしれないなどという妄想で頭がいっぱいになっていたので、警察に電話するという正しい行動をとればかえって怪しまれるとでも考えたのだろう。
 救急隊員はとても親切だった。電話越しに、「奥さん大丈夫です。あきらめないで、隊員が到着するまで心臓マッサージをしていてください」と、励ましてくれた。救急隊員が到着して遺体を確認したあと、「残念ですが、警察に引き継ぎます」と警察に連絡してくれた。
 やってきた刑事は男女ひとりずつ。差し出された名刺には「刑事組織犯罪対策課」とあった。これまで警察のお世話になるようなことをしたことがない私は、名刺の「犯罪」という言葉を見て、「やっぱり私が疑われているのね」と、どきどきした。年配の刑事は、「働き盛りの男性が突然死ぬって、多いんですよねえ」とフランクな感じで話しかけてきたが、ひとしきり事情聴取が終わると、「いまから検視をするので、葬儀屋さんで棺を用意して、数時間後に警察署に来てください」と、夫の遺体と一緒に警察署に戻っていった。

かわいそうなのは私ではなくて、人生を楽しめなくなった夫

 数年前、雑誌の企画で、私と同様に夫が突然死した女性と対談した。この女性は、自宅にやってきた警察が、自宅のごみ箱をすべてあさり、コンビニのレシートまで持っていったことがショックだったと言っていた。彼女の場合は、夫が自宅の仕事部屋で倒れているのを翌朝になって発見したという。
 生命保険に入っていたかなどを警察に聞かれたのが、容疑者扱いされていやだったと話していた遺族もいる。私は、刑事がやってきただけで気が張っていたのか、何を話したのかは思い出せないが、いやな思いをした記憶はないので、ラッキーだったのかもしれない。
 いやな思いをしたのは、警察の検視でも死因がわからず、東京都監察医務院へ解剖に回されたことだ。誤解している人もいるので説明すると、死因が不明だった場合、遺族はこの解剖を拒否することはできない。配偶者を亡くすことについて自分の経験も踏まえて執筆した『没イチ』(新潮社)を出してから、「夫の遺体の解剖を反対しないなんておかしい」という意見をいくつか頂いたが、病院で亡くなった時に医師が研究のために遺体を解剖させてほしいと遺族に依頼する病理解剖とは、同じ解剖でもまったく異なる。
 この解剖から戻ってきた遺体の処置がひどかった。内臓を取り出すため、喉には掻き切られたような傷が残り、頭にも血がにじみ、髪の毛ごと縫いこまれていた。いくら亡くなっているとはいえ、ずさんな縫い方をみて悲しかった。結局、解剖しても、すべての内臓を数か月かけて検査しても、心臓が突然止まった原因は分からず、「死因不詳」という最終判断がくだされた。

 とにかく、二人を分かつ死は、こんな風に突然やってきた。10年近くが経った今でも、なぜ夫は死んだのか、なぜ夫の心臓が突然止まったのかは分からない。死を受容することが大事などと言う研究者や専門家は多いが、私は、夫が死んだことは理解しているが、「なぜ」が解決していないせいか、死んだことをいまだに受容していないのではないかと思う。夫はジンバブエに何度か長期出張していたことがあったので、「自宅にいないのは、夫はジンバブエにいるからだ」という感覚さえ持っている。夫は天国にいると思うならば、それは死を受容しているが、ジンバブエにいると思うのは、まだ受容していないというロジックもおかしい。こんな話をすると、「ご主人の死を認めたくないのですね」という言葉を幾度となくかけられる。認めたくないのかどうかは私にもよくわからないが、夫はジンバブエにいると思っていても、私の精神状態に悪い影響があるわけではないので、それでいいかと思っている。
 また「夫の死が悲しくないのか」という批判もたくさんあった。「しばらくは悲しい顔をした方がいい」という忠告も受けた。しかし、このように、夫は天国に行ったとは思っていないので、死んで悲しいという感情とはちょっと違う。むしろ、人生をもう楽しめない、やりたい夢を実現できない夫のことがかわいそうだという思いが強い。42年の短い人生に対してのかわいそうではなく、生きていれば楽しいことやうれしいことをもっと体験できただろうに、と思うのだ。職業柄、いろんな方の告別式に参列することが多いが、何歳で亡くなった方にでも、「美味しいものを食べられないんだな」「旅行に出かけられないんだな」と思うと、亡くなった人には失礼な話かもしれないが、かわいそうだなという感情を自然に持ってしまうのだ。
 「さびしいでしょ」「かわいそうに」という言葉もたくさんかけてもらったが、かわいそうなのは亡くなった夫であって、夫に死なれた私がかわいそうな存在だと思われることが苦痛だった。私の性格が悪いのかもしれないが。

没イチになって初めて気づいたこと

 同時に、夫と死別して気づいたこともあった。配偶者との「死別」と「離別」を「離・死別」と一括りにされることへの違和感だ。アンケートなどで婚姻状況をたずねる項目は、「未婚」「既婚」「離・死別」のいずれかを選択させる形式が多い。実は配偶者と死別した人は、気持ちの上では既婚者であって、離婚した人とは異なる。離婚した人は結婚した相手を「元夫」「前のだんな」などと言うが、死別した人はそんな表現は使わない。元配偶者ではなく、亡くなった相手は今も夫であり、妻であるからだ。
 私もそうだが、配偶者と死別しても結婚指輪をしたままの人は多い。だから死別者は「既婚者」ではあるが、相手が亡くなり、婚姻生活が強制終了したというイメージなので、さきほどのアンケートでは、「既婚」「離・死別」の両方に〇をつける人もいる。離婚届を提出した人は、自分を「既婚者」だとは思わないだろう。私は研究所で長らく調査をしてきたが、自分自身が夫と死別するまで、「離・死別」という言葉に違和感を覚える人がいるかもしれないなどとは、想像もしなかった。
 ちなみに、国立社会保障・人口問題研究所の「世帯動態調査」では、「有配偶」は現在結婚している人を指し、「既婚」とは、まだ結婚したことがない「未婚」を除いた、「有配偶」「死別」「離別」を指すという。そもそも、人によって「未婚」「既婚」のイメージも異なることが混乱をきたす原因なのだが、この調査の定義によれば、「未婚」「既婚」「離・死別」のいずれかに〇をつけるという形式自体がおかしいということになる。

 また、死別した人がほかの人と同じように楽しい毎日を送っていると、眉をひそめる人が想像以上に多いことも知った。歌舞伎役者の市川海老蔵さんが、妻と死別した直後に、子どもたちと東京ディズニーランドに出かけたというニュースが報道された時には、世間から猛烈なバッシングを受けた。妻と死別して数年以内に再婚した男性に対しては、「もう再婚したのよ、あの人。奥さんの三周忌も終わっていないのにねえ」などと、近所のうわさになるだろう。離婚だったら、直後に子どもと遊びに行ってもバッシングを受けなかっただろうし、再婚しても「次こそはうまくいくといいね」と応援してくれる人もいるだろう。
 「未亡人」という言葉も好きではない。「私は未亡人です」と、たまに自分でも使うことがあるが、勝手かもしれないが、人から「あなたは未亡人ですね」と言われると、あまり気分が良くない。字だけをみると、「まだ死んでいない人」という意味なので、他人に使っていい言葉ではないはずだ。しかも妻と死別した男性には「未亡人」とは言わない。

 死別した女性を特別視する習慣は、数年前、友人を訪ねたイタリアのシチリアでも、目の当たりにした。全身黒い服装の女性を街中で何人も見かけたのだ。最初は、お葬式へ向かう女性なのかと思っていたら、現地の友人によれば、イタリアでは、夫が亡くなれば、妻は生涯黒服で生活するという伝統があるそうで、シチリアではそれを守っている女性が珍しくないのだという。公共墓地では、夫のお墓参りにやってきたのであろうか、黒服の女性があちこちで花を手向けていた。「ここはご主人が亡くなってる」と友人に言われた家には、黒いブラウスと黒いスカートの洗濯物が何枚もはためいていた。死別した直後ならともかく、一生涯、「私は未亡人」という看板を持ち、隠遁する生活を地域から強要されているような気持ちがして、私には共感できる伝統だとは思えなかった。

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何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

小谷みどり

こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。


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