「休憩にしましょう」。鬱蒼とした茂みを抜けたあたりで、先導役のワンさんの合図を受けて谷さんが言った。側に落ちている大振りなバナナの葉っぱの上に、街の市場で買った総菜と、ワンさんが用意してくれた御飯を広げて食べた。
ここはラオス北部、ルアンナムター。首都ビエンチャンから三百五十キロほど離れた、中国の雲南省とも隣接する地域である。この地に住み、レンテン族をはじめとした少数民族の人々と共に、手の技を活かした布製品づくりを続ける日本人女性、谷由起子さんを頼りに現地を訪れた。
谷さんが手掛ける布は、そのどれもが手紡ぎ、手織り、手染め、そして縫製も手によって行われている。藍染めに欠かせない石灰は、山から運んだ石を焼いて作るという。織機や杼の部材は、全て森から切り出す。織りに使う糊づくりは稲を育てる事から始まる。綿花の栽培には、耕作機械の類いは一切登場しない。おおよそ面倒な事の積み重ねの、中世の様なものづくりが此処では息づいている。
数年前、私の店を訪れた常連客の男性が、手に提げていた風呂敷が気になった。それが、この布との出会いである。生機と藍染めの木綿地を手縫いで接ぎ合せた、やや厚手の正方形の布。彼は教員で、仕事道具を包むのに毎日使っているという。相当洗い込まれたのだろう、適度な柔らかさと、淡くなり始めた藍の色味が何とも言えず印象的であった。
その後、こんどは青山のあるギャラリーであの風呂敷を目にした。一糸一糸の太さに揺らぎのある縦糸と横糸が織り成す、単純な様で複雑な肌理からは、原始的な匂いと、なにか粗末に扱ってはいけないと思わせる様な濃厚な気配を強く感じた。同時に、染められたばかりの鮮やかな藍色と黒、生成り、小さくアクセントの様にあしらわれた赤、このはっとする様な色面構成には洗練すら覚えた。
この二度の出会いを契機に、谷さんの布製品を自分の店でも取り扱う事となった。そして、日々触れているうち、「素朴」という言葉だけでは片付けられないこの布を生み出す、人々の暮らしを見てみたいという想いが強まっていった。
ルアンナムターに到着したのは夕刻であった。 宿に荷物を預け、谷さんの案内でレンテンの村に向かった。アスファルトの道路を降り、月明かりを頼りに未舗装の小道を歩くと、すぐに茅葺き屋根の集落が見えてきた。高床式の民家に入ると、電池型の小型蛍光灯が、室内をぼんやりと照らしている。明かりはそれだけである。静けさの向こうにざわざわした感触が広がっていたことが、記憶に残っている。
翌朝早く向かった森は、村から車で数分ほど離れた場所であった。「私が来た頃は、まだこの辺りも森だったんです」。村の付近でトラックに乗り込む際、谷さんが指差した先は、一面に平坦なゴム林が広がっていた。
レンテンの人々にとって、森は生活に必要となる様々な素材を調達する重要な場所である。藍染めの民族衣装をまとった小柄な女性、ワンさんを先頭に、道なき道を歩く。静けさの中、響き渡る鳥の声。巨大な倒木に密生した苔の匂い。興味深い形をした植物の種子の姿。五感へ容赦なく降り注ぐ刺激に、眠気で鈍っていた頭が覚醒するのが感じられる。
突然、ワンさんが沢に降り、植物を根ごと抜き始めた。あっけにとられていると、葉っぱを一枚手渡してくれた。滲んだ汁を手で揉むと、みるみる指先が青くなっていく。藍である。
この藍と石灰で青い泥を作り、藍の液を作る。明るい藍色は新しい藍液からしか出せない。また、別の方法で繰り返し藍を染め重ね、最後に「マッカバオ」と呼ばれる芋の煮汁を掛ける事でレンテンの黒が生まれる。赤は、「マイハックディアオ」という植物を用いる。しかし、この素材だけでは、この民族独特の朱がかった赤には染まらず、これに何かを加えなければならない。しかし現在、村にはその染色方法を知る者が居ない。今は、過去に赤く染められた生地を少量ずつ使用しているという。レンテンの人々の日常着に、この赤が使われている様子は無い。日本では、赤は庶民にとって禁忌の色だったと聞いた事があるが、彼らの文化の中で、この色はどの様に扱われているのだろうか。
帰国後、長野で木工と養蜂を営む方からニホンミツバチの蜂蜜を戴いた。現在、養蜂の主流となっているセイヨウミツバチが単一の花に向かうのに対し、在来種であるニホンミツバチは、同時期に様々な花から蜜を集めるという。「百花蜜」と呼ばれるその蜂蜜は、味が安定しづらく、時期だけでなく巣箱の中の位置によっても味に微妙な差異が生じるという。口に入れて驚いたのは、酸味や苦み、コクの複雑な分布が作り出す味の奥行きと広がりである。そして何故か、レンテン族の布の事と、森での体験が頭を過った。 在来種の蜂蜜の味と、ラオスの布の肌理、両者を頭の中で並べてみた時、ふと「情報量の多さ」という言葉が浮かんだ。以前、ある美術作家が、私の店を訪れた折、陳列していた海外の古い鋏の魅力について述べた表現である。
レンテンの人々は、布を見れば、どの家で織られたのかすぐ判るという。恐らく、手の癖などの様々な要素が生み出す微細な揺らぎが、手掛かりとなって生地に織り込まれ、一反一反の個性を形成しているのであろう。つまり、この「揺らぎの豊かさ」こそが「情報量の多さ」を生み出す鍵になっているのだろう。
「昔は市場に並んだ花を見た時、育てた人間に興味が湧く事があったけど、最近は殆ど無いね」。私の店の近所で長く花屋を営む主人もそんな話をしていた。以前は目で見て選んで仕入れるのが普通だったが、最近はパソコン上の写真と情報で仕入れることが当たり前になった。花は規格寸法によった物ばかりとなり、多少曲がっているが趣を感じる様な面白みのあるものを見かける事が滅多になくなってしまったという。
経済的な効率を優先させるべく、ある規格を設け、その枠内に収まらない物は切り捨てる。本来、スロープ状の緩やかな連続性の中に分布している筈の個体差は、今日においては、階段状の等級に区分けされ、中間的な偏差のグラデーションは存在しないと見なす傾向が生まれつつあるのではないだろうか。
品質の基準は「安定性」という一点に集約されていく。そして、物からは徐々に手掛かりが失われていき、世界は少しずつ、駅前の風景に象徴される様な平均化した景色で埋め尽くされていく。
質の再現性の無い物は非合理的な存在として世の中から排除されていく中、私自身にとってこの「揺らぎの豊かさ」こそが価値なのではないかという確信は日々強まる一方である。吉祥寺の店に並ぶレンテン族の風呂敷には、密かにそんな想いを込めている。
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小林和人
1975年、東京生れ。幼少期をオーストラリアとシンガポールで過ごす。1999年多摩美術大学卒業後、国内外の生活用品を扱う店 Roundabout を吉祥寺で始める。2008年には、やや非日常に振れた品々を展開する場所OUTBOUNDを開始。両店舗の商品のセレクトとディスプレイ、展覧会の企画を手がける。著書に『あたらしい日用品』がある。(雑誌掲載時のプロフィールです)
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 小林和人
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1975年、東京生れ。幼少期をオーストラリアとシンガポールで過ごす。1999年多摩美術大学卒業後、国内外の生活用品を扱う店 Roundabout を吉祥寺で始める。2008年には、やや非日常に振れた品々を展開する場所OUTBOUNDを開始。両店舗の商品のセレクトとディスプレイ、展覧会の企画を手がける。著書に『あたらしい日用品』がある。(雑誌掲載時のプロフィールです)
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