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長崎ふかよみ巡礼

 幕府の直轄地であり、鎖国時代の貿易港として栄えた長崎にとって、開国と倒幕、明治維新は、大きな転換点だった。「信徒発見」「浦上四番崩れ」で、約250年間の禁教期が終わりを迎えた一方、日々の生活を支える産業も変化した。
 1571年の開港以後、およそ300年にわたり貿易を生業としてきた長崎だったが、開国と開港により、その特権と利益は他都市へ分散する。はじめは長崎の居留地に拠点を構えた各国の貿易会社も、次第に横浜や神戸など大都市に近い港町へと移っていった。
 貿易都市としては衰退の道をたどる運命にあったが、それと入れ替わるかのように近代化の波がやってきた。幕末には西洋の学問や技術を学ぶいくつもの「伝習所」が作られ、中でも1855年に開かれた海軍伝習所には、造船の実習施設として「長崎製鉄所(当初は長崎鎔鉄所)」が設けられた。
 近代化と工業化は、港の外にも及んだ。長崎半島の西岸沿いに位置する高島や端島(はしま。後の別名『軍艦島』)にかけての海底には、良質な石炭層がある。以前から存在は知られていたが、掘削の技術や設備がなかった。そこへ1868年、トーマス・グラバーが佐賀藩と共同で、日本初の機械的な近代炭鉱を開発し、石炭の生産が本格化した。石炭は近代的な機械を動かす燃料として不可欠であり、主要な輸出品として莫大な利益を生むことになる。
 高島炭鉱は1881年、「長崎製鉄所」は1884年に、岩崎弥太郎率いる三菱の経営下に置かれ、製鉄所は採掘した石炭を運ぶ船を造ることで発展の糸口をつかんだ。今日に続く「長崎造船所」そして「三菱重工」の始まりである。

いまも長崎造船所で稼働している、1909年製の「ジャイアント・カンチレバークレーン」。「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつ

 主幹産業は変わりつつあったが、町全体がひとつの収入源に依存する体質は変わらない。まとまった土地も生産業もない町は、唯一、地の利を生かして貿易を営んできた。開国後、上海を拠点とした往来や貿易にはまだ活路もあったが、かつての勢いや利益の独占は見込めない。そこへ造船という、まさに“助け舟”が現れたのだ。これに乗らなければ、遠い昔に南蛮船がやってきた以前の寒村に逆戻りである。政府が造船や海運へ力を入れたこともあり、長崎は貿易の町から工業の町、三菱の町へと変貌した。大正の中ごろには、長崎の人口の約3分の1が、造船所の従業員とその家族となっていた。
 大正時代にかけ、町の姿も大きく変わった。唐人船や阿蘭陀船が碇泊し、扇形の出島が浮かんでいた港の風景は、港湾整備や市街地拡張の埋め立てで、すっかり失われてしまう。大型船の着岸が可能になり、1923年には上海航路が開かれた。浦上川の河口も埋め立てが進み、それまで西坂の丘を境に“ふたつの土地”に分かれていた長崎と浦上が、ひとつの町としてつながった。坂の多い長崎では貴重な平地である。鉄道や大きな工場が作られ、工業地帯の中核となった。

浦上川沿いには、現在も多くの工場が並ぶ

 明治政府の富国強兵策に加え、日清・日露戦争、第一次世界大戦では特需も起こり、長崎の町は一大軍需産業都市に変貌した。第二次世界大戦開始の翌年には、長崎造船所で戦艦武蔵の建造が秘密裏に始まる。要塞地帯に指定されていたこともあり、市民は港を眺めることも許されなかった。浦上一帯の工場では兵器が量産され、多くの学生が動員されていた。

 1945年8月9日の朝、「ファットマン」という名の新型爆弾を積んだB29爆撃機が、北九州の小倉へ向かった。前夜の爆撃による煙や靄が立ちこめていたので、目視による投下ができず、進路を長崎に変更した。こちらにも厚い雲が広がっていたが、当初の目標から少し外れたところに切れ間を発見し、爆弾を投下した。
 11時2分、広島に次ぐ世界史上2発目の原子爆弾が炸裂し、約500m上空に最大直径280mの火球が現れた。地表は3000〜4000℃の熱と猛烈な爆風、放射線にさらされ、1km以内にいた人はほぼ即死。半径4km以内の建物は全壊あるいは全焼した。一般の住宅はもちろんのこと、頑丈な鉄骨で組まれた工場さえ、飴細工のようにグニャグニャに潰れてしまったのである。

原爆落下中心碑。奥に見えるのは旧浦上天主堂の遺構

 翌年の報告で、死者は約7万4千人、重軽傷者は約7万3千人とされたが、調査に漏れた人が相当数いると考えられている。1944年時点での長崎市の人口は約27万人。たった一発の原爆に、町の人間の半数以上が殺され、傷つけられたのだ。生き延びてなお、放射能による後障害(こうしょうがい)で苦しみ、亡くなることも多かった。

 もっとも被害が大きかったのは浦上である。「雲の切れ間」はこの上空にあったのだ。
 「信徒発見」の奇跡から「浦上四番崩れ」の受難を経た浦上の地には、30年の歳月をかけて完成した浦上天主堂を中心に、約1万2千人の信徒が暮らしていた。原爆はそこから8千5百人の命と、天主堂を奪った。高らかに鳴り響いていたアンゼラスの鐘は、10トンもある鐘楼もろとも吹き飛ばされた。

旧浦上天主堂鐘楼

 軍需工場があったから、雲が切れていたからといって、原爆が落とされていい理由はなにもない。それでもなお「なぜ長崎に?」と考えずにいられない。多くの痛みと悲しみを味わってきたはずの町は、戦争と原爆をどう受けとめ、生き抜いてきたのだろうか。(写真 ©Midori Shimotsuma)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

下妻みどり

しもつま・みどり 長崎のライター。1970年生まれ。著書『長崎迷宮旅暦』『長崎おいしい歳時記』『川原慶賀の「日本」画帳』。TVディレクターとして長崎くんちを取材した「太鼓山の夏〜コッコデショの131日」は、2005年度日本民間放送連盟賞受賞。


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