小学校三年生くらいのとき、ピアノ曲「ラ・カンパネラ」と出会ったことで、私の音楽の聞き方が決まったような気がする。
私は四歳で失明した直後から現在まで、ピアノのレッスンを受け、演奏を続けている。点字楽譜を読んで暗譜した曲は、さながら一枚の絵画のように一つのイメージの塊となって記憶される。
「ラ・カンパネラ」を聞いたとき、美しい旋律やキラキラした音に魅了されたのはもちろんだが、別の何かが聞こえている気がした。レコード店で十人近くの演奏を聞き比べながら、トリルのスピードやフレーズの切り方など、演奏者の解釈が一人一人まったく違うことに驚嘆した。その気持ちを素直に口にしていたら、店のおじさんが感心して「ぜひ全部買って聞き比べてください」と言った。おかげで母は大量の「ラ・カンパネラ」のレコードを買うはめになった。
子供心に申し訳なかったが、散財は無駄にならなかったと思う。レコードを聞き込むうちに、旋律の向こうに聞こえているものは、旋律自体の後から生まれる「残響」ではないかと気が付いた。
中学生になってヨーロッパを訪れたとき、その残響は石畳に響く鐘の反響だったことを知った。鐘の音が音源である鐘楼から発せられると、音の波動が空中に散り、足元の固い石畳に当たる。周囲の石の建物にも当たり、音の反射が私たちを包む。「ラ・カンパネラ」の旋律がシュプールのように描いた残響は、これだったのだ。まだ外国を知らない子供だった私には、正体こそ分からなかったが、この反響が聞こえていたのではなかったか。それは、この曲を作ったフランツ・リスト自身が十九世紀に聞いていた残響ともいえる。私は、リストが聞いた鐘の残響を、ピアノから聞いた。そしてその音に包まれる感覚を体感したのである。
これ以来、私は音楽を聞くとき、体感的な音のある曲に惹かれるようになった。体感度が最も高い作曲家の一人が、リストではないかと思っている。
たとえば、イタリアの噴水をモチーフにした小品「エステ荘の噴水」を弾いてみると、水の動きが見えるだけでなく、一つ一つの滴の大きさがすべて違うことが分かる。同じ旋律が繰り返されていても、二度目に吹き上がった滴は最初の一群と混ざるので少し小さくなり、一つとして同じ大きさではない。ゆえに指の力も一つ一つ違えて弾く。
水底から大きな水の塊が吹き上がるときは、左手のオクターブをドンと弾いて底を表現してから、左手から右手へと次々に分散和音を引継ぎ、真っ直ぐ上へ上へと弾き上げていく。最高音部ではクルクルと動く水飛沫が最後の勢いとともに空中に吹き上がって消える。両手の指はクルクルと交代して細かい音符を弾く。指の動きと水の動きが連動していて、まるで鍵盤を通じて噴水そのものに触れているかのようである。「エステ荘の噴水」では、リストが聞いていた噴水の音が聞けるのである。
「波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ」では、左手が半音階で行き来する動きが波を、右手が奏でる美しい和音の旋律が聖人の姿と歩みを表していると思う。半音階を弾く左手の手首の動きは、まさに波そのものではないかと思える。地中海の穏やかな波の上を滑走する聖人。両手が近付いて複雑な和音を奏でると、聖人の足に当たって細かく砕ける海水の音も聞こえる。あたかも自分が聖人になって波の上を滑っているかのような錯覚にさえ陥る。ジェットフォイルで海を渡るときの感覚は、まさにこれではあるまいか。
リストの曲を弾き続けるうちに、私は彼が聞いていたであろう噴水の音やオペラの歌声、鐘の残響、彼が憧れたパガニーニのバイオリンなど、当時の音を次々と聞いている思いがする。そこには、残響に包まれる、オペラ会場で雑踏に囲まれる、教会で祈る、といった体感が伴っている。
演奏を聞くときも、私は奏者自身が聞いている音を聞く。それは作曲者の技巧のときもあるし、作曲者の時代に世界に流れていた音のときもある。ショパンの曲の陰には色々な風の音が聞こえるし、シューベルトの曲からは人の声がする。
演奏とは、奏者が聞いている音そのものだと思う。そういう耳で聞くと、音楽の分析や情緒的な効果という聞き方を超えることができる。作曲者が聞いた音、奏者が聞いている音、私自身が聞いている音の三つの世界を同時に楽しみ、体感世界を広げることができる。自身で演奏すると、作曲者が聞いた音は指先を通じても聞こえてくる。世界の広がりは無限大になるのだ。
曲の成立背景やテーマとなる世界を知識や映像でイメージするのでなく、全身を直接揺さぶる体感として感じる。この「体感式音楽の聞き方」は、私にとって時空を超えた世界探検の楽しみである。
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三宮麻由子
さんのみやまゆこ エッセイスト。東京生まれ。4歳で病気のため光を失う。上智大学大学院博士前期課程修了(フランス文学専攻)。処女エッセイ集『鳥が教えてくれた空』で第2回NHK学園「自分史文学賞」大賞、『そっと耳を澄ませば』で第49回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。『空が香る』、『ルポエッセイ 感じて歩く』など著書多数。通信社勤務。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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