5.なぜ話せないのか?——自信と信用について
著者: 桜林直子
悩み相談やカウンセリングでもなく、かといって、ひとりでああでもないこうでもないと考え続けるのでもなく。誰かを相手に自分のことを話すことで感情や考えを整理したり、世の中のできごとについて一緒に考えたり――。そんな「雑談」をサービスとして提供する“仕事”を2020年から続けている桜林直子さん(サクちゃん)による、「たのしい雑談」入門です。
飲み会の帰り道の虚しさ
友人が数人集まる飲み会に行って、近況報告などをあれこれ話して、たくさん笑って楽しい時間を過ごせた。それなのに、帰り道になんだか少し虚しい気持ちになる。イヤなことがあったわけではないけれど、ちょっと疲れたなあと感じる。そんな経験はないだろうか。
数人と話をしたけれど、誰とも話していないような感覚になる。そんなときは、おそらくちゃんと話を聞いてもらっていない。同時に、誰の話もちゃんと聞けた気がしない。
人数が多ければ多いほど、そこにいる全員の共通の話題を探し、よほどのことがない限り、個人的な話を披露してみんなに聞いてもらおうとはしないだろう。いや、たまにいるか。そんな場合も、登壇するように語る言葉は自分に向けられているとは思えない。しかし、そこにいる誰かが悪いわけではない。むしろ、全員に共通の話題を探すのは親切だとも言えるし、個人的な話をネタとして提供するのも、おそらくサービス精神からだろう。それでも、たくさん言葉を交わしたのに何も残らない帰り道は、虚しさが残る。
わたしは、ここ数年は、何かお祝いの席など目的がある会でない場合、4人以上の会食には参加しないようにしている。ひとりひとりは会いたいと思っている人の集まりでも、参加人数が増えると思いきり話すことも聞くこともしづらいからだ。
「あの人の話をもっと聞きたかったな」とか「あの人と話したいことがあったけど、他の人にわからない話をすると誰かを置き去りにしちゃうからできなかったな」などと、小さな不満が生まれる。あまり口を開いていない人がいると気になってしまい、MCのごとく話を振るなどして、頼まれてもいない配慮を勝手にして疲れてしまうこともある。本当はひとりずつとしっかり話したいとわかっているからこそ、もどかしい。
逆から見てみると、ちゃんと自分の話ができたと思えるとき、ちゃんと聞いてもらえたなと感じるとき、その帰り道は満足してホクホクした気持ちになる。それは、ほとんどの場合マンツーマンで話したときだ。だから、わたしは基本的に人と話すときはマンツーマンのサシ飲みスタイル(お茶でもお酒でも)を望む。雑談の仕事をはじめるときに「マンツーマン雑談」としたのも同じ理由だ。
「わたしの話なんて」
誰かとふたりきりで話す場でも、自分の話をするのを躊躇してしまうと言う人もいる。
「相手の時間を奪ってまで自分なんかの話を聞いてもらうのは申し訳ないので」
「わたしの話なんて別に面白くないから話す価値がないし」
「自分の話をするよりも聞いている方が楽だし、役に立っていると思えて安心する」
だから、いつも聞き役に回ることになる。
「じゃあ、自分の話はいつするんですか?」
「ほとんどしないですね」
「自分の考えていることや思っていることを人に話さないと、自分でもわからなくなりませんか?」
「そう、わからないです。聞かれても答えられないから、より話せなくなるんです」
自分の話には価値がないからと、人に話さず後ろに追いやっていると、いざ話そうとしたときや、話さずとも何かを選択し決めないといけないときに、自分がどう思い、どうしたいのかが自分でもわからなくなっていることに気がつく。考えや思いを出さないでいると、出てこなくなるのだ。
「わたしの話なんて」と価値を下げているのは誰でもない自分自身で、相手にとって話が面白いかどうかの前に、自分の考えや感情の価値を低く見ている。自分の話をせずに相手の話を聞いていれば安心するというのは、自分をうっすら消して相手を大事にする方が楽だということだ。自分がどう思うかよりも、相手がどう思うかの方を大事にするべきだという癖があらわれている。
聞き役という形で役に立っているとうれしいと感じるのは、役に立ってようやく自分はそこに居てもいいと思えるということでもあって、何かの役に立たないとただ居てもいいとは思えず、落ち着かないという一面もあると思う。
感情の泉と思考の水車
自分の話ができなくて、自分の感情や思考が自分でもわからなくなってしまう。わからないから、より話せなくなる。そんな悪循環がうまれている。
感情は、必要なときに都合よく出そうと思っても急に出てくるものではない。本来は泉のように湧き出ているもので、それはちょろちょろ出たり、ときに噴水のように出たりもする。
思考は、誰かから聞いた言葉に付箋を貼って集めるものではない。自ら考え始めると水車のように回りながらすこしずつ深まっていくものだ。
そして、自分の感情と思考は循環する。そこに価値はないと蓋をして、出てこないようにしていると、いざ出そうとしても突然湧くことはないし、巡らない。大事にせずに放置していると、泉は枯れ、水車も止まってしまうのだ。
聞き役として誰かの役に立つことよりも、何の役にも立たないとしても、自分の感情や思考を知っている方がどう考えても大事だ。相手がどう思うかを重視しすぎて、自分がどう思うかわからなくなっても、誰のせいにもできない。泉を潤し、水車を回すのは、絶対に自分にしかできないのだから。
自分と仲良くする
自分の感情や思考に「価値がないから出てきてはいけない」と許可を出さず、蓋をして抑えてしまうのは、自分に対してとても意地悪で、かなり仲が悪い状態だと言える。泉を湧かせるには、出てきてもいいよという許可が必要で、それは自分と仲良くないとできない。
今まであまり好きではなかった自分と、急には仲良くなれなくても、どんな人なのか知ろうとする努力はできるのではないか。嫌いだからといって自分自身と離れることは残念ながらできないのだから、諦めて、一度しっかり関わってみるのはどうだろうか。
自分と仲良くするとはどういうことかというと、友達と仲良くなるのと同じだと思う。仲良くなる前に、その人を尊重し、よく知ることからはじまる。「あなたの感情や思考には価値がないから出してはいけない」と言うのは、友達相手だと思うとかなりひどい扱いだとわかるだろう。友達にしないことは自分にもしないでほしい。大事な友達に接するように自分と関わるべきだ。
しかし、仲良くなるために自分のことを知ろうとして、自分について考えようとしても、いつもの癖で意地悪な目で見てしまうと、ちゃんと知ることは難しい。
自分を過不足なく捉える
「わたし、最近何にもできてなくて、こんなんじゃぜんぜんダメなんですよ」
「そうなんだ。友達がまったく同じ状況だったら『何にもできてなくてぜんぜんダメだな』と思う?」
「いや、友達にはそんなこと思わないです」
「友達に言わないことは、自分にも言わないほうがいいんじゃない?」
「たしかに、自分にだけ厳しいんですよ」
「友達にはなんて言う?」
「十分できてるよとか、できなくても平気だよとか」
「自分にもそう思えるといいよね」
「そう思えないんですよね、なぜか」
「他の人はいいけど自分だけ許されないの、しんどいよね」
「しんどいですねー」
*
自分にだけ特別厳しい点数がついたり、許されなかったりするのは、まったく自分と仲良くない。かといって、仲良くするためにえこ贔屓や過剰にやさしくする必要はない。ただアゲもサゲもせず過不足なく自分を見ることができるといい。
実際には70点取れているのに「いやこれは30点です」と自己評価を不当に下げ、周りの人が「あなたは70点できているよ」と正しいことを言っても「いえ、ぜんぜんできていません」と受け取らない。それは、相手はまちがっていないのに、「あなたの評価はまちがっている」と嘘つき扱いをするような失礼な行為なのだ。自分を下げるのは自分だけを傷つけるのではなく、相手にも失礼だとわかると、やめたほうがいいと思える。
実際に自分が仲良くしている友達のことを思い返すと、友達が完璧だから仲良くしているわけではないし、いいところもダメなところも知っている上で仲良くできているはずだ。
最近は「自分を褒めよう」という風潮もあるが、心から良いと思えていないのに口先だけで褒めてアゲるのはちょっと無理があるのではないかと思ってしまう。思ってもいないことを言って持ち上げるのは、わたしなら友達にはしたくない行為だ。だから、無理に自分を褒めなくても、不当にサゲるのをやめるだけでいい。「まあこんなもんかな」と過不足なく捉えることの方が大事だと思う。
なぜ話すのが怖いのか
自分の話をしようとすると、厳しい目で「そんな考えは間違っている」「言っても聞いてもらえないだろう」と意地悪な対応をして話せなくなってしまう。自分をよく知り、仲良くなったところで、その声はなくなるだろうか。
自分の中だけなら「わたしはそう考えているのだな」と認められても、他者に向けて話すときに、別の何かが邪魔をする。
話そうとすると、相手にどう思われるかを考えてしまい、怖くなって躊躇する。何が怖いかといえば、ひとつは、否定されたりつまらないと思われるなど「ジャッジされること」だろう。自分の思いや考えを正直に出しても、それが正しいかどうかは相手が決めるのだとしたら、たしかに怖くて出せない。
残念ながら、実際にジャッジされる場面もよくある。相手は良かれと思って「こうしたほうがいいよ」と言ったアドバイスが正解不正解のジャッジにつながってしまうこともあるし、意見交換のつもりで「わたしはそうは思わない」と言われたら、自分の考えを否定されたと感じてしまうこともある。
そういった「話さなければよかった」と後悔するような経験が、話すのが怖いと感じる原因なのだろう。
しかし、「この人に話したのは間違いだった」と思うのはわかるものの、「人に話すとこうなる」と、誰に対しても話すのが怖くなるというのは、いささか飛躍してはいないだろうか。
「自信がないから話せない」
相手がどう思うかが怖くて自分の話ができない人たちは、口をそろえるかのように「自信がないからだ」と言う。しかし、本当にそうだろうか。
自分の考えに自信を持つかどうかと、聞いた相手がどう思うかは、関係ない。どんなに自信があるからといって相手が受け入れてくれるとは限らないし、むしろ自信があるのに否定されるのはもっと怖いのではないか。
受け取った相手がどう思うか怖い。きっと受け取ってもらえないだろう。否定されるだろう。と警戒して話せないのは、自信がないからではなく、相手を信用していないということだ。
信用していない人に対して話せないのは仕方がないが、信用している人や信用したい人には、話さなくてもわかってくれることはないので、まず自分から出してみるしかない。受け取ってくれると信用して、話す。話すことで相手を信用していることを表明するのだ。
自分の考えに自信を持てなくても、勇気を出して信用している人に出してみたら、案外大事にしてくれた。少なくとも否定はされなかった。そんな体験をすると、「言ってもいいんだ」「言ってみてよかった」と思えるようになる。そういった経験を重ねると、少しずつ自分でも自分の考えを大事にできるようになる。「言っても意味ない」と自分の中で考えを否定したり打ち消したりしないで、人に伝えるためにより深めて考えられるようにもなる。
自分の考えを否定せず、ただそこにあるものとして、過不足なく捉える。それを繰り返し、自分をよく知って自分と仲良くなると、自分自身が話し相手になる。
言葉をどう受け取るかは相手のもの
わたしは、若い頃から自信はちっともなかったが、いつも自分と話をしていたので、自分とは仲が良かった。自分の考えを「どうしてそう思うの?」「本当にそうかな?」などと深めていくことができ、自分の考えを雑に扱ったり無視したりすることはなかった。なぜそれができたかというと、自分の感情や考えを周りに大事にされないから、自分で大事にするしかなかったのだ。少し切ない、不幸中の幸いだ。
それでも、自分の気持ちや考えたことを他者に伝えられるようになるには、つまり相手を信用するのには時間がかかった。それは、他者への警戒が強かったからだろう。
警戒するのは、あくまでもかつてのイヤな人への対策であり、信頼したい人にも同じ対策をして「話したいのに話せない」と引っ込めてしまうと、当然の結果だが、言いたいことが伝わることはない。
相手を信用したいならば、まずはちゃんと聞いてくれるだろう、受け取ってくれるだろうと信じて出すしかない。とても怖いし、勇気がいるが、「話さなくてもわかってほしい」と捻れた期待をしても叶うことはほぼないので、「話したら聞いてくれる」と信用してみる方がまだいい。
誰にでもわかってもらうのは不可能なので、それは諦めて、信用したい人、信頼関係をつくりたい人にだけでも話せるようになりたいと思うようになった。
自分の話をするのが怖いのは相手を信用していないからだとわかったときは、衝撃だった。自分では相手を信用しているつもりなのに、まったく逆の行動をしていたとわかって「だからうまくいかなかったのか……!」と合点がいった。
それからは、信用したい人に話さないのは相手に失礼な行為だと言い聞かせて、捻らずまっすぐに出すよう心がけるようになった。
こちらが正直に出したものを、受け取った相手がどう思うかは相手のもので、こちらが勝手に想像して決めるのは失礼だ。こちらにできることは、相手がどう思うかはわからないまま、ちゃんと出すことだけだと思えるようになった。
自分の話をしたいなら、相手を信用すること。相手を信用するとは、こちらが先に出すこと。自分の話をすることと、人を信用することが、こんなに近く深い関係にあるとは、とてもおもしろいと思いませんか。
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桜林直子
1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 桜林直子
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1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring
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