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おんなのじかん

2019年11月20日 おんなのじかん

5.不妊治療するつもりじゃなかった

著者: 吉川トリコ

 いざとなったら子どもなんてすぐできると思っていた。
 この世には不妊でつらい思いをしている人が山ほどいて、とんでもない額のお金をかけて治療をしていることはうっすら知っていたけれど、自分には関係のない話だと思っていた。月々の生理は乱れなくきっちりやってくるし、高脂肪で筋肉のつきにくいこの体つきからみて女性ホルモンは十分、うん、ぜんぜんいけるっしょ! という根拠のない自信があった。だから、いざ不妊治療をするという段になって、えっ、うそ、そんなばかな、と思った。この私にかぎって、そんなはずない、と。
「みんなそう言うんだよ」
 とかかりつけの鍼灸師が、やれやれといったふうに笑って言った。その鍼灸院には不妊治療をしている患者さんが多く通ってくるらしく、妊活・不妊知識のほとんどを私はそこで教わった。
 おかしいな、二十六歳で子どもを産むつもりだったのにどこでまちがえたんだろう…としらばっくれてみたけれど、理由なら自分がいちばんよくわかっていた。
 二十六歳で子どもを産むかわりに小説家になった私は、幼いころから思い描いていたライフプランを押し入れにしまいこんだ。交友関係が広がって、楽しいことをたくさん覚えた。なにより小説を書くことが楽しかった。それまではぜんぜんお金がなかったけれど、二作目の小説が二度にわたって映像化され、自由にできるお金がちょっとだけできた。嵐に嵌まったのもちょうどそのころである。小説を書き、原稿料が入ったら服飾品か嵐もしくはその時々の推しに課金し、締切が終われば朝まで飲み明かし、一冊分書き終わったら海外旅行に出かける。そのくりかえしで、あっというまに時間はすぎていった。
 こんな生活を死ぬまでずっと続けていくんだろうか。
 ふと、倦怠感のようなものに襲われたのが三十代の半ばごろだった。刺激的で充実した毎日、けれどすべてが想像の範疇におさまってしまう。ろくに成長もせず、世界のことなどなにも知らず知ろうともせず、甘いものばかり食べて生きている自分にうんざりしていた。なにかとんでもない傑作をものしたいという欲望だけはあるのだが、幼稚な自分には幼稚な小説しか書けず、いつまで経っても本は売れないし(映像化されれば本が売れるというわけではない)、カントリーマアムが少しずつ小さくなっているみたいに収入も目減りしていき、このままでは早晩仕事の依頼もなくなるだろうな、と漠然とした不安に駆られていた。
 よし、ライフステージあげよう!
 そこで私は、かつて描いていたライフプランを押し入れの奥の奥から引っぱり出してきたのだった。代わり映えのない毎日に変化を求め、なにか生産的なこと(うへえ)がしたいと思って、子どもを産もうとするなんてあまりに浅はかで短絡的で、「しっかりしろよ!」と当時の自分を張り倒したくなるが、そんなことを言い出したら過去の自分ほとんどすべての瞬間を張り倒したいので、もうどうしようもない。
 手はじめにまず私は禁煙外来に飛び込んで煙草をやめた。夫とはまだこのとき籍を入れてはいなかったが、この人とずっと一緒にいるんだろうなというぼんやりした気持ちはおたがいにあった。ぼんやりと私たちは避妊をしなくなった。そうして、生理がくるたびに、がっかりするのと同時にほっとしていた。モラトリアムが延びたことをどこかで安堵し、そんな自分にぎょっとした。
 三十代の危機はいつのまにか脱していた。これというはっきりしたきっかけがあったわけじゃないけれど、おそらくは東日本大震災の影響だという気がする。私にとってはいつまでも子どものままではいられないんだと目を開かされるような体験だった。読みたい本が増え、学びたいことが増え、行きたい場所もやりたいことも書きたいこともさらには新たな推しも次から次にあらわれて、どれだけ時間があっても足らない、死ぬまでにぜんぶ達成できるかもわからない、倦んでる場合じゃない!
 子ども産んでる場合じゃねえな?(駄洒落じゃないです、ほんとに)と思わなかったと言ったらうそになる。いましかできないこと、いましか書けないものがあるのに、そんなことしてる場合じゃなくない? 子どもを産んだらなにかが終わる、道が閉ざされてしまうという暗いイメージしか、そのときは持てなかった(いまも完全に払拭できたかといったら怪しいところではある)。
 まわりを見渡せば、「なにがなんでも子どもが欲しい」とはっきり言い切る子なし女はそんなに多くない。「どちらかというと欲しいかも?」ぐらいのテンションが多数を占める。「欲しかったけどぼんやりしているうちに機会を逃しちゃった」と頭をかきながら笑う女も少なくない。私ぐらいの年代になると、「なにがなんでも子どもが欲しい」女はすでに出産しているというのもあるけれど。
 結婚して子どもを産むしか道がなかった時代と比べ、いろんな選択肢が増えた現在において、三十歳を過ぎた女たちが目移りしてしまうのは無理からぬことなのかもしれない。仕事も勉強も趣味も旅行も女子会も推し事も楽しいもんね。一日が二十四時間じゃ足りないもんね。百時間ぐらい欲しいよね。わかりみが深すぎて地中深くまで埋まりそうであるよ。
 ごく狭い私の観測範囲では、男性のほうがなんの屈託もなく「子ども欲しい!」と口に出す傾向にある気がする(夫含む)。そりゃあ、相手が産んで子育てまでぜんぶやってくれるなら、私だってそう言うだろうと思う。一方で「子ども欲しくない!」とはっきり言い切ってしまえる人は男女の別なく一定数存在する。

 こんなことなら、迷いが生じる前に二十六歳でぽーんと産んでおけばよかった。若いころなら自然妊娠でいけただろうし、コスパもよかった。二十代、三十代と楽しかったから、後悔しているというわけでもないんだけど。
 しかし、そんなことをうだうだ考えているあいだにも刻々とリミットは近づいている。なにがなんでも子どもが欲しいわけではないけれど、なにがなんでもいらないとまでは言い切れず、いまやっとかないと後悔するかもだしな…といった消極的な気持ちで不妊治療をはじめることになったのが三十八歳、ちょうど籍を入れたあたりのころである。
 まずは妊活の初手の初手、タイミング法からはじめることになった。最初のうちはネットで排卵検査薬を購入し、自分で排卵日を予測していた。この段になってはじめて妊娠可能なタイミングが月に一、二日だけであることを知ってがくぜんとした。排卵日の前日もしくは前々日にばっちり決めたところで、妊娠率は二十代で30%、年齢を重ねるにつれてどんどん数値は下がり、四十歳で5%ほどだといわれている。
 なんということだろう。妊娠って、奇跡じゃないか。やっぱり「できちゃった婚」というより「授かり婚」と呼ぶほうがふさわしいのかもしれない。
 排卵検査薬では埒が明かなかったので(素人が排卵日を見極めるのはなかなかに難しい)、ついに我々は不妊治療専門クリニックの門を叩くことになった。検査の結果、排卵も毎月ちゃんとあるし、精子の運動率も正常値だったのだけれど、クリニックの指導のもと行ったタイミング法では妊娠にいたらなかった。いいですか、ここ重要なところなのでもう一回言うけど、なんなら太字でお願いしたいんですけど、双方ともに生殖機能になんの問題もなくても不妊判定が出ることはざらにあるんです。えーっ、うっそー! てかんじですよね。わかる、わかるよ。わかりみが深すぎて地球の裏側まで突き抜けそうであるよ。
 クリニックの方針でタイミング法は三回まで、その後は体外受精にステップアップしなければならないことになっていたのだが、引き返すならここかな、と私は思っていた。当時は、体外受精までして子どもが欲しいとは思っていなかったのだ。しかし、夫はちがった。お金のことはしょうがない、リミットもあるし、この際ステップアップしようじゃないか、と。
 マジか、と思った。まさかこの私が体外受精することになるなんて!
 念のため断っておくが、私の体外受精に対する抵抗感は、金銭的なことと時間を拘束される煩わしさや身体的負担を憂慮してのことで、倫理的な忌避感などはかけらもない(わざわざ書くことでもないかもしれないが、いまだに自然信仰ってやつは根強く存在するからしつこく書いておく)。
 それに、こんな宙ぶらりんな気持ちで体外受精までしていいんだろうか、という気持ちがどこかにあった。きっとみんな心の底から子どもが欲しくてクリニックに通っているのだろうし、金銭的な余裕がなくてステップアップできない人もいるだろうに、私みたいなどっちつかずの気持ちのまま臨んでいいものだろうか、と。
 それでも、「子ども欲しい!」という夫の強い気持ちに押される形で、体外受精にステップアップすることになってしまった。なってしまったとか言っているあたり、いまだに当事者意識が希薄な自分にびっくりするが、実際そうなんだからしょうがない。「まさかこの私が!」という驚きこそ最初のうちはあったけれど、元来割り切ってものを考えるたちだし、自己肯定感も強いほうなので、不妊という事実を事実として受け止め、「女として欠陥品」「私のせいで子どもができない」といったような自己嫌悪に陥ることもなく、切実さも皆無。流産したときだけはさすがに凹んだが、数日で立ち直った。そうして、いまなお、へらへらとしながら通院を続けている。

おんなのじかん

2021/09/28発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

吉川トリコ

よしかわ・とりこ 1977(昭和52)年生れ。2004(平成16)年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』(Rose/Bleu)『女優の娘』などがある。

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