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亀のみぞ知る―海外文学定期便―

2020年1月10日 亀のみぞ知る―海外文学定期便―

(18)コルソン・ホワイトヘッド+ルシア・ベルリン

Colson Whitehead, The Nickel Boys (Doubleday, 2019)
Lucia Berlin, Evening in Paradise: More Stories (FSG, 2018; Picador paperback, 2019)
Lucia Berlin, Welcome Home (FSG, 2018; Picador paperback, 2019)

著者: 柴田元幸

 今回は、日本ですでに定評を得ている作家二人の新刊を。
 谷崎由依さんが訳したコルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』(The Underground Railroad, 2016)は、逃亡奴隷の苦難という古典的な物語に新たな生気を吹き込んで多くの人に支持された。2019年に出た新作The Nickel Boys は、少年矯正院での暴力を取り上げている。1960年代初頭、公民権運動が拡大しつつも地方へ行けば黒人に対する差別と偏見もまだまだ根深かった時代、矯正院でも白人と黒人の少年たちを別々に収容し、黒人の扱いはより過酷だった。物語は、もう閉鎖されたこの矯正院の跡地から、大量の白骨死体が発掘されたことから語り出される。

Even in death the boys were trouble.
   The secret graveyard lay on the north side of the Nickel campus, in a patchy acre of wild grass between the old work barn and the school dump. The field had been a grazing pasture when the school operated a dairy, selling milk to local customers—one of the state of Florida’s schemes to relieve the taxpayer burden of the boys’ upkeep. The developers of the office park had earmarked the field for a lunch plaza, with four water features and a concrete bandstand for the occasional event. The discovery of the bodies was an expensive complication for the real estate company awaiting the all clear from the environmental study, and for the state’s attorney, which had recently closed an investigation into the abuse stories. Now they had to start a new inquiry, establish the identities of the deceased and the manner of death, and there was no telling when the whole damned place could be razed, cleared, and neatly erased from history, which everyone agreed was long overdue.
 死んでもまだ、少年たちは厄介の種だった。
 秘密の墓地は、ニッケルのキャンパスの北側、かつての作業小屋とゴミ捨て場とのあいだの、野草があちこち狂おしく茂る一エイカーの土地にあった。学校が酪農場を経営して地元民に牛乳を売っていたころ(フロリダの州当局は、少年たちを維持する費用に対する納税者の負担を減らそうと何かと手を尽くしたのである)、その草地は牛が草を食む放牧地であった。オフィスパークの開発業者は、この草地をランチプラザにしようと目論んで、噴水など水をフィーチャーした場を4つと、時おりのイベントのためのコンクリートの野外ステージを構想していた。一連の死体が発見されて、環境調査からのゴーサインを待っている不動産会社にとっては費用もかかり話は面倒になったし、虐待問題に関する調査を最近打ち切ったばかりの州検事にとっても同じことであった。これでまた新たに調査を始めて、死者たちの身元と死因を割り出さないといけない。これでは一切合財を破壊し一掃し歴史からほぼ消してしまうのはいつになることやら―もうとっくにそうしてしまう潮時だとみんな思っているのに。

 このようにPrologue(序章)は始まる。冒頭の一文、死んでもなお“the boys were in trouble”(少年たちは苦しんでいた)ではなく“the boys were trouble”(少年たちは厄介の種だった)である。跡地から白骨が発掘されると、開発業者や検察関係者をはじめとする現代の人びとは、過去の残虐に愕然とするよりまず、あちゃーこれでまた工事が遅れちゃうよ、せっかく虐待問題打ち切ったのに、などと考えるのである。
 やがて話は過去に戻り、貧しい黒人の少年が、努力と優秀な学力によって奨学金を得て大学に行けることになるあたりまではけっこう明るい話かと思えるが、その彼が無実にもかかわらず(単に盗難車にヒッチハイカーとして乗っていただけで)矯正院に放り込まれる時点から事態は一変する。「アイスクリーム工場」(“the Ice Cream Factory”―ここで折檻を受けた少年の体にさまざまな色のあざが出来ていることからついた名)での虐待をはじめ、正義などおよそ絵に描いた餅でしかない空間が丹念に描かれる。引き込まれて読み進めるなか、唯一、『地下鉄道』では奴隷逃亡支援組織の名の代わりに本当に存在する地下鉄道網を登場させるという大胆な歴史改変があったのに対し、今回はその手の仕掛けがないのがちょっと不満だなあと思っていると、それとはまったく違った意外な仕掛けがやがて明らかになって、勝手に不満がった自分の傲慢を恥じることとなった。
 ただ…これはあくまで主観的印象なのだが、矯正院での悲惨や不正が行間から生々しく伝わってくるというよりは、ほんの少し報告されているという印象を持った。showしてもらっているよりもtellされている、という感覚がわずかに上回ってしまうのである。巻末には2ページ半に及ぶAcknowledgments(謝辞)があって、この作品が現実の事件―2012年、フロリダの閉鎖された少年院の跡地から55の死体が発掘された―に基づいていることが述べられ、作品を書くにあたって依拠した一連の資料もきちんと列挙して解説している。それ自体はもちろん立派なのだが、資料の内容が作者の想像力のなかで本当に熟成するには、もう少し時間が必要だったのではないかという気がする。
 とはいえ、この小さな物足りなさが、ホワイトヘッドに対する期待の大きさゆえであることは言うまでもない。十分邦訳されるに値する作品だと思うので(たぶんもう作業も進行中なのだろうと推測するが)、いずれ日本でも読まれてほしい。ついでに言うと、ホワイトヘッドのデビュー小説The Intuitionist (1999) もぜひ邦訳してほしい。エレベータ点検士たちがempiricists(経験派)とintuitionists(直観派)に分かれていて、経験派は実際に目に見えるものを重視し、直観派はその名のとおり直観に頼ってエレベータを点検する。そのことがこの世界ではとても重要なのだが(だから誰もが読む雑誌の名も、LifeではなくLift〔=エレベータ〕である)、それ以外は1950年代の、歴然とした黒人差別、女性差別のあったニューヨークとよく似ている…という『地下鉄道』にも劣らぬ大胆な設定と、そこから展開される物語の巧みさには本当に感心したものだ。
 (もうひとつついでに言うと、『地下鉄道』を読んで、いいと思った読者は、ぜひEdward P. JonesのThe Known World〔『地図になかった世界』小澤英実訳、白水社〕に進んでいただきたい。南北戦争以前のバージニアで自由な黒人が黒人奴隷を所有していた、という史実に基づいて強烈で痛切で壮大な物語を紡ぎ出した本当にすごい小説で、個人的には依然21世紀アメリカ小説のベストである。入っていくのにちょっと時間がかかるが、その努力はかならず報われるはず。)

 2019年に岸本佐知子さん訳の『掃除婦のための手引き書』が刊行され、英語圏同様に日本でも大評判のルシア・ベルリン。2018年に本国アメリカでは短篇集Evening in Paradise: More Storiesと回想録Welcome Home: A Memoir with Selected Photographs and Lettersが刊行され、すでにどちらもペーパーバック版が出ている。
 この人の文章の特徴は、個人的には(1)単文が多い (2)比喩が少ない の2点がポイントである。

The house was a hundred years old, rounded and wind-softened, the same rich brown as the hard earth around it. There were other buildings on the land, a corral, an outhouse, a chicken pen. A small adobe squatted near the south wall of the main house. It didn’t have a tin roof like the big house. Smooth and symmetrical, it seemed to have sprung up like a dusty mushroom out of the dirt.

“The Adobe House with a Tin Roof”

 それは百年前に建った家で、丸みを帯び、風によって柔らかくなっていて、周りの硬い地面と同じ豊かな茶色だった。土地にはほかにも建物があった。畜舎、屋外便所、鶏の囲い。日干し煉瓦造りの小さな家が、母屋の南側の壁のそばにうずくまるようにあった。母屋のようにブリキ屋根はなかった。滑らかで、左右対称で、埃っぽいキノコみたいに土から飛び出したように見えた。

「ブリキ屋根の日干し煉瓦造りの家」

 “so”(ゆえに)”but”(しかし)といった接続詞は少なく、on the other hand(一方)とかat the same time(と同時に)といった表現もほとんど見られず、要するに話を論理的に、重層的に展開していこうという意志が薄い。出来事が派手なところでも感情に関する表現はそれほど派手ではない。要するに、世界を漫然と見ていて、人生を漫然と生きている感じ。それがとてもリアルなのだ―漫然さの向こうに、時おりふっと、ほとんど無意識の切実さが感じられるから。比喩が少ないのも、世界を多面的に見ようという意志が薄いことの表われと思えるが、だからこそ、時たま出てくる(上の引用文の最後のような)比喩はきわめて効果的である。
 こういう言い方をすると、ヘミングウェイが極めた、削ぎ落とす文章術の継承者か、という話になりそうだが、そういうふうにも感じられないところがまた面白い。ヘミングウェイのように「道」(文章道の「道」)を感じさせる禁欲感とは無縁で、文章もやっぱりもっと漫然としている。もちろん、ただ漫然としているだけで何の感銘も与えない文章も世の中にはあるわけだが、このルシア・ベルリン的漫然はいいのだ、という間抜けな言い方しかいまのところはできない。
 たぶんかなり自分の人生を素材にしている書き手なんだろうな、という予測はあったが、回想録であるWelcome Homeをあわせて読んでみて、その予測がかなりの度合い裏付けられた。

My family didn’t talk to each other at all. Uncle John and I ate together sometimes. My grandma Mamie ate in the kitchen with my little sister Sally. My mother and Grandpa, if they ever ate, ate in their own rooms, or out somewhere.
 あたしの家族は、おたがい全然口を利かなかった。ジョン叔父さんとあたしはときどき一緒に食べた。お祖母ちゃんのメイミーはあたしの妹のサリーと一緒に台所で食べた。母さんとお祖父ちゃんはそもそも全然食べなかったし、食べるとしてもそれぞれ自分の部屋で食べるか、どこか外で食べるかした。

 これは短篇集Evening in Paradiseに収められた、テキサスにある精錬所のそばの町を舞台にした短篇“Sometimes in Summer”(時おり夏に)の一節だが、回想録のなかの、テキサス州エルパソに住んでいたころをめぐる記述には次のような一節がある。

The two of them ate in their own bedrooms and never spoke a word to each other. Mamie and my sister ate in the kitchen. I ate at the Duncan Phyfe table in the dining room, reading Emily Post and Bartlett’s Quotations.
 二人〔=母親と祖父〕はそれぞれ自分の部屋で食べ、絶対に口を利かなかった。メイミーと私の妹は台所で食べた。私はダイニングルームのダンカン・ファイフ製のテーブルで、エミリー・ポストのエチケット本と『バートレット引用句辞典』を読みながら食べた。

 ダンカン・ファイフやバートレットを小説では省く一方で、自分以外の誰がどこで食べるかは現実からそのまま借用しているところが面白い。これ以外にも、「ブリキ屋根の日干し煉瓦造りの家」や“A Foggy Day”(「霧の日」)に出てくる過度に従順な妻が、一時期の作者自身をモデルにしているとわかったのはけっこう驚きだった(もっとも、息子のジェフ・ベルリンが書いた序文によれば、この回想録は晩年に書いていたそうだから、小説から素材を借用して「回想録」を書いていたという可能性も否定できないが…)。
 いずれにせよ、『掃除婦のための手引き書』の評判からして、Evening in Paradiseはまず間違いなく訳されるだろうし、『掃除婦のための手引き書』も原書の五分の三くらいを選んだ抄訳だから、ベルリンの短篇にしびれる機会はまだたっぷりありそうである。

Colson Whitehead, The Nickel Boys (Doubleday, 2019)

Lucia Berlin, Evening in Paradise: More Stories (FSG, 2018; Picador paperback, 2019)

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1月15日(水)第6回日本翻訳大賞始動。まずは読者推薦作品募集(1月15日~1月31日)。上位10冊が二次審査へ。ふるってご推薦を!
1月19日(日)川崎市アートセンター アルテリオ小劇場、午後2時からのひとみ座人形劇『うろんな客 むしのほん』終演後にアフタートーク。
1月25日(土)熊本市の橙書店で朗読会。午後2時から。
1月29日(水)『ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-』(アルク)刊行。
「波」1月号にバリー・ユアグロー連載『オヤジギャグの華』第9回「柔らかい座席」掲載。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

柴田元幸
柴田元幸

1954年生まれ。翻訳家。文芸誌『MONKEY』編集長。『生半可な學者』で講談社 エッセイ賞、『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞、トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。2017年、早稲田大学坪内逍遙大賞受賞。

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