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随筆 小林秀雄

 小林秀雄の言葉は、それを話題にする側が、入試問題や評論文のようにでなく、自分自身の出会いの経験として話しさえすれば、電光石火で相手の胸に届き、波立てると前に書いた。しかし、それがそうとは限らないこともむろんある。
 仙台の東北学院大学に招かれて行っている講義「学問のすすめ」では、毎年、小林秀雄が本居宣長に即して語った学問とは何かを聞いてもらうのだが、ある年のことだ、学生たちに小林秀雄とはどういう人かをまず話し、その小林秀雄は、著書「本居宣長」で、学問とは人生いかに生きるべきかをとことん考えることだと言っている、私はこれから、そういう小林秀雄の言葉を順次お伝えすると言い、手近の言葉を二、三引いて、第一回の講義を終えた。ところが、講義ごとに提出させる出席カードの感想欄に、ひとりの女子学生が書いてきた、―人生をどう生きればいいかということ、私、もう知っています…。
 大学へ入ってきたばかりの十八歳か十九歳である、こういう反応はあって不思議でない。かわいいといえばかわいいし、小癪なといえば小癪な反応だ。たとえば中学生のとき、いい先生との出会いがあって、その先生が話してくれたことが、彼女の今の生き方の指針になっているのかも知れない。高校生のとき、年上の男性に憧れ、その男性が薦めてくれた哲学書が彼女を夢中にさせているのかも知れない。あるいは、そういうケースのどちらでもなく、なんらかのハンディを負った生い立ちが彼女にそう言わせているのかも知れない。もしそうであるならかわいいだの小癪なだのと言っていられる場合ではないが、いずれにしても今日只今の彼女にとって、人生どう生きればいいかということ、私、もう知っています、は紛れもない本心であり、もはやもったいぶった大人の話はたくさんです、うんざりです、といった気持ちもあったのだろうか。
 人生いかに生きるべきか―。この言葉自体は使い古されている。そして、多くの大人が口にする答えも、たいていはひからびている。自分らしく生きよ、規則正しく生きよ、世のため人のために生きよ…。戦前・戦中であれば、等し並みにお国のために、であっただろうし、女子には「女庭訓」(おんなていきん)が持ち出されてもいたであろう。今ではさすがにお国のためにと力んだり、「女庭訓」を引合いに出したりする御仁はそうはいないだろうが、会社のためにと熱弁をふるう上司は後を絶たず、ために人生いかに生きるべきかと持ちかけられると、若い人たちはとたんに身構えたり、そっぽを向いたりしてしまう。概して人生いかに生きるべきかは、無意識のうちにも既存の道徳律の押しつけと受け取られているからであろう。
 となれば、なおさらに、貴重な講義時間を託された私としては、小林秀雄の言葉をよく聞いてもらわなければならない。小林秀雄は、ソクラテスの言葉を引いて言った、―対話とは、相手の魂のうちに、知識とともに言葉を植えつけることだ、この言葉は、自分自身も、植えてくれた人も助けるだけの力を持っている、空しく枯れてしまうことなく、その種子からは、また別の言葉が別の心のうちに生れ、不滅の命を持ちつづける…。わずかに三回とはいえ、私の講義を聴いてくれるこの女子学生の魂のうちに、私自身が小林秀雄に植えつけられ、助けられた言葉の種子を植えつけられるか、植えつけるときだ、私はそれを思った。

 人生、いかに生きるべきか…。昭和四十七年(一九七二)七十歳の九月、小林秀雄は「宣長の源氏観」と題して講演した。六十三歳の六月に始めて、十一年六か月に及んだ「本居宣長」の『新潮』連載が、八年目に入っていた頃である。宣長という人は、生涯に波乱は何もない、今でいえば三重県の松阪にじっと坐って勉強していた人だ、あの人の波乱は、全部頭の中にあった、その頭の中の波乱たるや実にドラマティックなものなのだ、と語り出し、続いて大略、こう語りかけた。
 ―本居宣長は、学者である。しかし、今の学者とはまったく違うということをまず考えなければいけない。今の学問はサイエンス、科学だが、宣長のころの学問はまるで違う。「道」である。人間いかに生きるべきかと、人の「道」を研究したのである。あのころは、この問いに答えられないような学者は学者ではなかった。
 ―ところが、今の学者は、そんなことには答えなくていいのである。何かを調べていればいいのである。私は学者だ、これはこうこう、こうであって、こうであると、調べることが私の仕事だ。だから私は、君たちの幸不幸には関係ないのだと、今の学者はそう言うのである。諸君が「先生、私はどういうふうに生きたらいいのでしょうか」と訊いても、先生は答えてくれない、それが現代の学問である。
 ―学問は、今はそのぐらい冷淡になってしまった。僕らのいちばん肝心なことには触れない。僕らのいちばん肝心なこととは何か。僕らの幸、不幸ではないか。僕らはこの世に何十年かの間だけ生きて、幸福でなかったらどうするか。この世に生きていることの意味がわからなかったらどうするか。そこを教えてくれないような学問は学問ではない。昔の学者はそこをどうかして教えようとしたのである。本居宣長もそういう学者である。今の学者とは全然違うのである。
 この、「宣長の源氏観」は、同年、作家・円地文子さんの「源氏物語」の現代語訳全八巻を新潮社から出し始めるにあたり、訳者の円地さん、大江健三郎さんとともに名古屋と大阪で行ってもらった記念講演会での講演である。今は「新潮CD 小林秀雄講演」の第五巻で聴くことができる。私は、入社以来、円地さんの「源氏物語」訳にもアシスタントとして関わっていたが、この講演会には小林先生の係として随行し、先生の講演は名古屋、大阪、二日間とも舞台の袖で聴いた。その私の耳に、開演いきなり、「僕らのいちばん肝心なことって何ですか。僕らの幸、不幸ではありませんか。僕らはこの世に何十年かの間だけ生きて、幸福でなかったらどうしますか」と、小林先生の強い口調が飛びこんできたのである。
 学生時代から小林秀雄を読んで、人生いかに生きるべきかという言葉には何度も出会っていたが、あの日、「私はどういうふうに生きたらいいのでしょうか」に続けて、「僕らの肝心なことって何ですか。僕らの幸不幸ではありませんか」と、すぐ目の前で、肉声で断言されて胸が鳴った。僕らのいちばん肝心なこと、それは僕らの幸不幸だ…。あたりまえといえばあたりまえである。だが、小林先生は、私たちが忘れてしまっている「あたりまえのこと」を次々指し示し、人間にとっての「あたりまえ」とは何かを知って「あたりまえ」に還れ、それが人生いかに生きるべきかの第一歩だと教え続けた人だった。
 だから、最後の大著「本居宣長」も、そういう、人間にとっての「あたりまえ」の再発見と再認識の書であったと言えるのだ。東北学院大学で女子学生の一言を目にして以来、私は小林秀雄の「人生いかに生きるべきか」を人に語るとき、とりわけこの「あたりまえ」に意を用いるようになった。次回はそこを精しく振り返ろうと思う。

(第六回 了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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